大鳴門橋事件
1984(昭和59)年7月4日、徳島県と淡路島を結ぶ吊り橋、大鳴門橋の起工式が徳島県鳴門市で行われた。起工式には建設大臣乾浩太朗、徳島県知事前原正明、鳴門市長大前虎雄などの政治家が出席し、そして運輸大臣の砂岡も出席した。
この大鳴門橋は徳島県蒲生田岬に原発が建設される見返りだった。よって、共同で原発を建設する地元の電力会社南海電力と日本発電も一部出資する。
全長1,629m 幅35m 主塔の高さ154.3mの吊り橋で、橋桁が上下2層となっており、上は車道、下は鉄道が走ることになっている。将来は明石海峡大橋も建設され、本州と四国を結ぶ予定である。
四国と本州を結ぶ吊り橋は3案ある。
1.神戸―鳴門ルート
2.児島―坂出ルート
3.尾道―今治ルート
この3ルートの何れもが四国の悲願であり、3ルート全ての完成を望んでいた。それは3ルートともに数百人規模の死者が出る海難事故が発生していたからであった。
自政会も四国地方の支持を繋ぎとめるため、3ルートの全ての完成に目指した。しかし二度のオイルショックと大都市部の公共インフラ優先で作業員と材料が大都市に取られたことにより、当計画が延期や凍結の憂き目に遭ってしまう。
この状況が大きく変わるのが四国での原発建設であった。愛媛県と徳島県に原発を建設することになり、一部の電力を本州に送電することになった。そのため見返りとしての公共事業として橋の建設が決定された。
しかし全てを同時に建設することは財政的にも資源的にも技術的にも難しかった。どのルートも長大橋を建設しなければならず、特に明石海峡に至っては2km近くの橋を架けることになる。技術的に極めて難しく、二の足を踏むのは当然であった。
そのため案1神戸―鳴門ルートの優先度が高くなかった。それは明石海峡に架ける橋が技術的に難しく、莫大な費用を要したからであった。そのため案2か案3かの何れかを選ぶ形となり、大きな需要が見込める案2が優先的に検討された。
しかし、検討段階で徳島県の原発建設が決まり、徳島に見返りの公共事業が必要になった。そのため徳島県の優先度が上がり、案1の神戸―鳴門ルートが優先して建設されることになった。
こうして大鳴門橋の建設が決まるが四国新幹線のルートの具体的なルートは定まっていなかった。そもそも明石海峡にいつ橋が建設されるかも決まっていなかった。とりあえず想定されていた大まかなルートは、山陽新幹線新神戸駅から分岐して、原発建設される徳島県と愛媛県を通る形である。尚、当時において香川県と高知県に新幹線は建設されないことになった。
香川県は元より原発の建設計画がなく、高知県は候補地になったものの極めて強い反対運動で計画がなくなった。よって、この二県には見返りの新幹線を建設する理由がないため、建設はされないことになった。
起工式で一同が一斉に鍬入れを終えた瞬間に男の叫び声が上がった。
「死ね、砂岡」
と叫びながら、刃物を持った男が制止を振り切り、砂岡に向かって猛然と突っ込んできた。砂岡は避け切れず腹部が刺され倒れ込んでしまう。
男は取り押さられ、砂岡は止血の応急処置が取られた。砂岡を急ぎ救急車で病院に送られ、一命を取り止めた。
凶行に及んだ男は元漁師で当時建設作業員の吉田龍之介(当時25歳)であった。吉田は1983(昭和58)年7月に発生した大阪湾国際空港の調査妨害事件、通称「泉州沖海戦」で抗議活動を行った徳島県の漁師であった。
事件後、空港会社と和解で示談金を受け取るも、自身の漁船が放火と疑われる不審火で焼失した。警察は捜査をするものの、犯人は逮捕されずに迷宮入りとなってしまう。
漁船を焼失した吉田は漁業を諦め、建設作業員になり生計を立てることになる。そんな吉岡が週刊誌「週刊百家争鳴」に取り上げられていた「砂岡の研究」を読み、大阪湾国際空港建設にまつわる利権が全て砂岡に繋がっている様子が書かれていた。
また砂岡が関わった事業では、少なからずの反対者が暴行や放火など事件の被害を受けていることを指摘し、暗に砂岡が指図していることを仄めかされていた。
それを読んだ吉田は自身の漁船を焼いたのは、砂岡の手によるものだと確信するようになる。そして復讐として砂岡暗殺を決行した次第だった。
一命を取り止めた砂岡であったが、当面の療養が必要になり運輸大臣を辞任することになった。この砂岡の大臣辞任により、日鉄分割民営化議論が一気に進む。
砂岡は「本州3分割(東日本、中日本、西日本)+三島(北海道、九州、四国)分割」を推していた。しかし砂岡の大臣辞任を機に日鉄キャリア官僚の東郷重成が推し進めていた「本州2分割(東日本、西日本)+三島(北海道、九州、四国)分割」の方向で決定される。
これはリニアモーターカーを東京から福岡まで建設したいという東郷の夢を実現するものである。東郷はこれを実現すべく、砂岡が深手で動きづらい状態の間に各政治家に働きかけた。
原発新幹線を建設するためには、分割後の企業規模がそれ相当の規模が必要と説いて回った。特に北陸新幹線建設予定の沿線で選出されている議員への働きかけは積極的であった。彼らが望む新幹線建設早期実現には規模が必要とし、東海道新幹線米原駅で東海道新幹線に乗り入れて大阪・名古屋方面にいけるようにするためには西日本は一体化した方がいいと説いた。
もちろん彼らには、新幹線関連する利権を提供する絵図を描いた上での話である。彼らにしても、新幹線の早期実現は望むところであった。
また、これまで都市部に集中投資で地方への投資が少なく、地方選出議員の利権が雀の涙程度しかなかった彼らにしたら、東郷の案に乗るのはごく自然のことであった。
療養中であった砂岡はこの動きに不快感を持って眺めていた。しかし地方選出議員と対立して党が割れることを恐れ、何より自身の療養に専念したいという思いから苦虫を噛む思いで黙認した。




