昭和三十八年運輸白書
高度経済成長の真っ只中にあった1963(昭和38)年。翌年には戦後復興の象徴である東京オリンピックが開催を控え、日本全国に杭打ち音が鳴り響ていた。そんな熱い時代の空気の中で運輸省は役所の定型業務として事務的に白書を出版した。それが昭和三十八年運輸白書である。
その白書で首都圏に新たな空港を建設する構想が記されていた。白書内では「新東京国際空港」という仮名称が与えられていた。
それまで日本の空の玄関は3本の滑走路を有した羽田空港が担っていた。そして高度経済成長に伴い航空需要が急拡大し、羽田空港の能力では捌き切れない事態を迎えようとしていた。当時の運輸白書に書かれていた内容を要約すると以下のようになる。
1.当面の運行量で対応できるが昭和45年になれば処理能力が限界に達する。
2.航空機が急速に大型化、高速化している中で現状の滑走路では対応ができない。(当時、開発中であったコンコルド就航に必要な滑走路は4,000mとされていた。)
3.世界各国において、大規模空港建設計画または建設されている。この流れに乗らないと東洋における航空交通の中心としのて地位を失う。
4.羽田空港の拡張は事実上不可能である。(船舶への致命的な影響、東京湾建設計画の根本的な変更、埋め立て技術の問題、近隣の騒音問題、米軍航空路が障害)
以上の理由により、首都圏に新たな空港を建設が必要とされた。そして求められる空港像が以下のものである。
・敷地面積 約2,300ヘクタール(約700万坪)
・滑走路 5本(内訳:超音速旅客機対応の 4,000m滑走路 x 2本、国内線用 2,500m滑走路 x 2本、横風用 3,600m 滑走路 x 1本)
現実の関東国際空港の敷地面積約6,200ヘクタール(約1,694万坪)に4,000m滑走路6本と比べると小規模であるが、当時としては破格の規模の空港であり、白書の中でも「国家百年の計」とまで謳っていたほどであった。
この中で4,000m滑走路が計画に盛り込まれているのは、当時において次世代の旅客機は超音速旅客機になることを想定していたからであった。
1962(昭和37)年に英仏間で超音速旅客機共同開発の協定書が締結された。後にコンコルドと呼ばれる超音速旅客機の共同開発である。同時期に米国でも超音速旅客機ボーイング2707開発が始動し、世界的に超音速旅客機開発競争が行われていた。
世は正に超音速旅客機時代の前夜祭の様相であったが、この超音速旅客機を運用するには長い滑走路が必要であった。その滑走路の長さは4,000mとされ、新しい時代を担う空港であれば当然の事ながら、この長さの滑走路が計画に盛り込まれなくてはならなかった。
実際のところは超音速旅客機はコストパフォーマンスの悪さから普及せずにB-747のような亜音速でコストパフォーマンスの良いジャンボジェット機が普及した。
近年に至っては、ジャンボジェット機ですら廃れ、ボーイングB-777、B-787、エアバスA-350のような中大型機やボーイングB-737、エアバスAー320のような小型機の運行がメインとなっている。これらの旅客機は必ずしも4,000mの滑走路を必要としないが、この滑走路を重宝してもいた。この長大な滑走距離があることで燃料を満載しての離陸ができるため、当空港を拠点として世界中に航空ネットワークを構築することができる。よって、世界各国の主要航空会社は当空港にアジア太平洋地域のハブ空港拠点として機能を置くようになった。
当初の思惑と異なることなったが4,000m滑走路が計画に盛り込まれて建設されたことは有意義なことであったといえる。
この当時としては壮大な計画であった新空港計画だが、石山によると空港の候補地は当白書が刊行される前より決まっていたとのことだった。白書が出る前から、現在地の場所に決まっていた。首都圏内で複雑に入り組んだ空路を避けながら、頑丈な地盤がある場所が現在地だったのである。
しかし、いきなり候補地として名前を上げることはしなかった。名前を上げるだけで騒音問題による住民の反対運動に火を着けかねないことが想定された。更に左翼が住民運動に託けて反政府闘争が繰り広げられることは容易に想像ができた。
実際に運輸省内の内々で新空港の予定地を調査検討しているとき、左翼による安保闘争が繰り広げられていた様子をまざまざと見ている者たちからすれば、左翼の動向に神経を尖らせるのは当然のことであった。
更に秘匿にしなければなかった事情があった。それは政治家と財界である。
当時、地方からの大量の人口流入して東京に過密化問題が発生したとき、その解決策として東京湾を埋め尽くして新市街を造ろうという動きがあった。
産業計画会議(1956年~1971年)という経済問題を中心とした政策提言を行うシンクタンクがあった。その中で様々な提言がなされたが、第七次勧告1959(昭和34)年「東京湾2億坪埋め立てについての勧告」という提言が新空港計画に大きな影響を与えた。
東京湾の3分の2に当たる2億坪を埋め立てを行い新市街地を建設して、そこに空港も建設する案であった。
これを強く主張していたのが当時「財界のブルドーザー」と言われた大川栄太郎である。大川は木更津沖を埋め立てて巨大空港建設する案を主張していた。そして、その大川と親密な関係にあった山野洋平建設大臣は、当白書が出る前から第七次勧告による木更津沖案を強硬に主張していた。
しかし当時の運輸省内において木更津沖案はありえない案として一蹴していた。
木更津沖案は羽田空港と航空路が重なり羽田空港の運用に支障を来し、また着陸ルート上にある房総半島の山を大々的に崩す必要があり建設の手間が増えることを嫌った。
何よりも木更津沖に埋め立て空港を造り、更に空港アクセスのために神奈川県川崎市から橋またはトンネルで結ぶというは、当時の技術でほぼ不可能であった。
何より最大のユーザーである航空会社が木更津案を望んでいなかった。航空会社にとって、最も理想は羽田空港の拡張であった。しかし当時の土木技術では空港の拡張が不可能であった。
そのため次善として羽田空港が存続されるのであれば、新空港は都心から多少離れていても良いというものだった。こうして都心から大きく離れず、羽田空港・米軍・自衛隊の航空管制の隙間にあった当地が選ばれた。
こうして木更津案は黙殺としていた。しかし有力政治家である山野の意向を全く無視することも出来ない。よって当白書では候補地として何処の場所も記さなかった。
こうして住民、左翼、政財界と空港建設において障害に成りかねない面々を刺激せずに慎重にことを進めるため、秘密裡での工作活動が求められた。