韓国航空爆破事件
1987年11月29日、韓国のフラッグキャリアである韓国航空の旅客機が爆破された。後に「韓国航空爆破事件」と呼ばれる爆破テロ事件である。
犯人は男女2名の北朝鮮の工作員で、日本人に扮してバグダッド国際空港で当機に爆破物を仕掛けた。その後、インド洋アンダマン海上空で当機に仕掛けられた爆破物が炸裂し、乗客乗員合わせて115名全員死亡した。
爆破物を仕掛けた北朝鮮の工作員は、バーレーンに向かった。しかし、バーレーンにて日本国旅券が偽造であることを怪しまれ拘束される。2名の工作員は隠し持っていた毒物で自殺を図った。男性工作員は死亡し、女性工作員は未遂で一命を取り止めた。
その後、女性工作員の自供や捜査などで北朝鮮による犯行であると断定された。北朝鮮は事件について否定し、韓国による自作自演であると主張する。しかし、世界各国は北朝鮮の犯行であると認識し、北朝鮮の友邦国であるソ連や中国から非難を浴びることになった。
北朝鮮は翌年に開催されるソウルオリンピックの開催妨害を目的としていた。韓国のフラッグキャリアで象徴的存在である韓国航空の旅客機を爆破することで、韓国の信用を失墜させ、オリンピック開催が危険であることを知らしめようとした。
結果は裏目に出た。それまで参加を曖昧にしていた北朝鮮の友邦国が参加を表明するようになった。そして北朝鮮のテロ行為を非難し、北朝鮮は孤立していった。
このテロ事件は石山にも影響を及ぼした。それは大阪湾国際空港建設や羽田空港拡張事業に必要な砂が手に入らなくなったからである。これまで韓国を介して北朝鮮の砂を入手していた。
これまでは北朝鮮の砂について、韓国当局は見て見ぬふりをしていた。それは当時韓国が「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長にあったからであった。高度経済成長により韓国内の建設需要が旺盛となった。そのため韓国も日本と同様に砂不足となり、北朝鮮から建設用の砂を輸入するようになった。
しかし、当事件によって韓国政府は厳正な取り締まりを行うようになった。北朝鮮はこれまでにも青瓦台襲撃未遂事件やラングーン事件などのテロ事件を起こしていた。それでも韓国はこれらの事件で北朝鮮との関係を完全に断ってはいなかった。
これは韓国側が南北平和統一の理念のため、交渉のチャンネルを完全に断たないようにしていた配慮であった。それと同時に経済成長が著しい韓国が北朝鮮からの原材料輸入といった実利的なものでもあった。
しかし、当事件は余りにも酷かった。韓国民は事件で激昂し、北朝鮮とは緊張が高まってしまった。その結果、北朝鮮との密貿易の取り締まりが厳しくなり、日本もまた北朝鮮の砂が韓国を介して輸入が出来なくなってしまった。
また生き残った女性工作員の供述により、工作員教育の日本語教師が拉致被害者であることが判明する。これにより、日本の公安警察は国内の北朝鮮関連企業の監視や取り締まりを強化することになる。
こうした状況下で大阪湾国際空港建設や羽田空港拡張事業で北朝鮮の砂が使われ続けることはスキャンダルになる。こういった事情もあって北朝鮮からの砂を輸入することができなくなった。
この事態に運輸省は元より、貿易を所管する通商産業省も立ちすくんでしまった。とりあえず、国内の商社に砂の輸入ができるところを調査依頼する。その中でマレーシア・フィリピン・オーストラリアなどの名前が挙がった。しかし、そのどれもが北朝鮮産の砂に比べて、価格が高いものであった。
これは北朝鮮が国内の強制労働で人件費を抑えていたことと、距離が近いため輸送コストが低く済んでいたためであった。
この砂のコストを抑えるに当たって、ある国に白羽の矢が立つ。それが中国であった。
大量の砂を運搬コスト抑えて調達できる国、それが中国であった。
しかし、当時の日本の商社は中国に進出したばかりで、中国国内においてネットワークが整備できていなかった。そもそもの問題として、中国そのものが文化大革命の影響でインフラ整備が遅れていた。そのため、砂を大量に採取して輸出する体制ではなかった。
そこで当面は距離が遠いマレーシアとフィリピンから調達し、中国とは調達体制が整ったら輸入するという段取りとした。この中国側の調達体制を整えるため、中国共産党と話を付けるため砂岡が乗り出すことになった。
外交官や官僚ではなく砂岡が出張って来たのは、中国共産党と要人と話をする場合は外交官や官僚よりも政治家同士の方が効果的であった。
砂岡は急ぎ、北京に向かった。中国側は、これを歓迎して宴席を設けた。中国側にすれば改革開放を始めたばかりで、文化大革命で痛めつけられた経済や社会を立て直すため、日本の協力を必要していた。宴席においては白酒を呑み、向こう側と打ち解け合った。
交渉の結果、中国側が優先的に砂を採取して輸出することに約束し、代わりに日本側は砂の代金以外に採取するための建機を提供する話となった。
交渉において中国側から、ある条件が提示された。それは空港建設に関するものであった。中国側は砂岡の背景を調べており、砂岡が空港利権におけるボス的な地位にあることを把握していた。
中国側からは日本の政府開発援助による円借款で北京と上海に大空港の建設を要求した。更に空港建設と運用ノウハウを提供して欲しいとのことであった。
砂岡は、これを了承した。そして日本からの円借款で北京と上海に大空港を建設するための円借款が決定される。これは元々、中国との交渉前に経済・技術支援をすることが日本政府内の方針であった。その背景として、米ソ冷戦があった。
当時、米ソ冷戦下でソ連を追い詰めるためには、中国の協力が必要であった。中国とソ連は同じ共産陣営で協力関係にあったものの、共産主義の路線対立や国境問題などから険悪なものに変化した。そして1969(昭和44)年3月に中ソ国境地帯で武力衝突が発生した。後に「中ソ境紛争」と呼ばれる武力衝突である。
これを契機に中ソ間の対立は表面化し、共産主義陣営ながら対峙することになった。西側の盟主であるアメリカは、これを利用して中ソの対立を煽ってソ連を追い詰めることを画策する。
このアメリカの思惑は西側陣営諸国の共通した認識となった。そして日本は、そうして西側陣営の一員として中国を支援する形で、中ソ対立を煽ることとなった。よって、砂岡が北京にて二つ返事で日本の支援を承諾したのは、砂岡の勝手な判断ではなく、ソ連を追い込むための大戦略の文脈であった。(尤も、砂岡が国内で力づくに決めさせたことには変わらない)
資金面においては日本政府が出すことになっていたが、空港の建設や運営ノウハウは政府でなく民間コンサルタント会社が請け負うことなった。そして石山は、そのコンサルタント会社の社長として就任することになったのである。
このコンサルタント会社は砂岡が急遽設立した会社である。いわば、日本政府の政府開発援助のキックバックを受け取る受け皿であった。そして、このコンサルタント業務をこなせ、更に砂岡の意図を汲み取れる人物は、石山ただ一人であった。
結局、石山は楽しみにしていた衛星教育事業から離されて、空港コンサルタント会社の代表に就任してしまった。