ミミズクの献身
その骨董品の文机の中には、逢引きの記録が詰まっている。
さて、古い道具には魂が宿るなんて言われている。いわゆる「付喪神」というやつだ。その文机も例外では無かったようで、それはミミズク……フミミズクという一種の妖怪だった。
持ち主である女を追いかけて街に彷徨い出たフミミズク。早速車に轢かれてしまう。己の体が吹き飛ぶ様子をスローモーションの再現VTRで眺めるうちに、彼岸へと旅立った。痛みはそんなに無かったのが救いか。
慌てたのは、文机の持ち主だ。その女は詩人で、夫以外の人物との恋を詠う事もしばしば。その書き溜めた恋文のようなものは、数百枚に及んでいた。
「ああ、あれが誰かにみられたら堪らない。一体、誰が持って行ったの?」
詩人は、嘆いた。かの詩の山は、完全なる創作だったのだから。見知った者にでも見られたら、失笑ものなのだ。恋などとっくに諦めた。そう、あの文机の中に封印しながら。そして詩人はこう思った。
「きっと、恋心が羽ばたいて行ったのかも。自由を求めて」
都合のいい解釈は時として、本人を救う。だが、真実は藪の中だ。
無邪気な心が一番罪深い。私は、そのように思う。
***
【ある日の、トンカツと僕】
暗闇にぼうっと浮かぶ蛾の模様が、フクロウの顔に見えてきた。そいつは僕をじいっと見ている。だけど少し目を離したら、それは蛾でしか無くなった。
「大丈夫、トンカツが豚なのかヒトなのか、大した問題じゃない。たぶん」
雨がパラパラと網戸を通過し、窓の木枠を濡らす。僕は、手すりにぶら下げておいた靴下が渇いているのを手のひらで確かめて、それから窓を閉めた。
だいたい、みんな何をそんなに怖れるんだろう。奴隷の反乱が起きると学者は言うが、そんなのは出まかせだ。彼らには「根」が一切無いのだから、生まれて食べて肥料を生産し、繁殖して働いてそして、死ぬだけなのだ。それに向上心が無く知性も無い無力な奴隷に、一体何が出来るというんだろう。自分の名前にすら、興味が無いんだよ彼らは。教わっていないせいで名前が書けないんじゃない、そもそも興味が無いんだ、自分が何者なのか。それって、僕には理解できないなあ。だって、名前が無いって、それって可哀そうな事じゃないか。まるで、親に捨てられた子供みたいに。
「トンカツ」
ソファに寝そべるトンカツは、どこかの資料で見た豚舎の、豚みたいだ。
「なあに」
トンカツは目覚めるなり棚のジュースに手を伸ばし、ごびごびと飲み干した。大きな喉が波打っている。トンカツの手の甲には、黒い毛がびっしりと生えている。長い五本の指が今度は、ナッツが入った袋をわしりと掴んだ。
「ああ、こぼしちゃった」
トンカツが独り言ちながら、床に散らばったナッツを鼻でブヒブヒ押し集め、ペロリペロリと掃除機のごとく吸い込んでいく……しまった、視界の端に入ってしまった。僕は急いで自分の朝食に顔を向け、忌まわしい光景をシャットダウンしようと試みた。
ンゴ、ンゴ、ンゴゴゴ、ヒュルッ、ヒュルッ、パクンパクン、モグモグゴクン。トンカツの咀嚼する音が気持ち悪くて堪らないので、イヤホンで耳を塞いだ。二秒後、メロディアスなギターソロが始まり、ハイトーンボイスの語りの後のクラッシュシンバル、そしてエレキギターの爆音。有毛細胞が劣化するのを感じるけど、魂の救済と肉体の救済どちらかを選べと言われたら僕は断然、魂を取る。
***
僕らはいわゆる「主人と奴隷」だ。通常、男性の主人は女性の奴隷を持っている。なぜって、まあ、そういうもんだからだ。だけど僕の場合……トンカツは男だ。奴の事を最初に見たのは二年前で、あの頃のトンカツはほんの子豚だった。僕は、子豚の虜になった。なぜって、可愛いじゃないか、子豚は。だけどまあ、当然なんだけど、子豚はすぐに大きくなってしまうから……それにトンカツはどうやら、Yが一個多いんじゃないかなって思う。何もかもがでかすぎるし、やる事が粗野だし、夜になると必ず出かけたがる。そういうのって僕は分からないんだよなあ。僕ってほら、女とか、興味が無いって言うかさ。
「トンカツ、やめろ!」
考え事をしていたら、トンカツが、よその奴隷の尻を掴んでそこに自分の下腹部を押し付け勢いよく腰を振っていた。飼い主の男が、鞭でトンカツを打つために構えている……ああ! 買い物に行くだけで疲れるよ全く! どうして大人しくしてくれないんだ、あいつは!
パン! パン! パン! パン! 細長い革紐がトンカツに食い込む。トンカツのTシャツが破け、赤くなった皮膚がだぶだぶと揺れるのが丸見えになった。嫌らしい。僕は目を逸らし、耐えた。全身から汗が噴き出して、ふくらはぎにダラダラ垂れる。逃げ出したいけど足が動かない。
「奴隷野郎を何とかしろ! 腰抜けめ!」
髭面の飼い主が、僕に向かって来て、鞭を振り上げた……トンカツの血走った目がギロリとこちらを向いて、次に、今しがたまで深々と抜き差ししていた部分をテラテラさせたトンカツが突進してきたかと思うとあっという間に、男の股ぐらに鼻先を突っ込んで、投げ飛ばした。男は血を流し、倒れたまま動かない。
「まずい、逃げよう」
僕たちは家に帰った。
***
ここ三日、茹でたジャガイモしか食べていない。そろそろ生野菜を食べたいし、何よりも肉が食べたい。ビーフステーキ、豚味噌炒め、とにかく肉だ。脂身いっぱいの。
「何で俺を食べねえんだ」
トンカツが、げっぷの出るジュースを飲みながら憎らしい事を言ってくる。僕はいつもよりもイライラしていた。
「だから、トンカツは豚じゃ無いから」
「いや、俺は豚だよ」
「違うよ」
「じゃあ何だよ俺は、ヒトか?」
「いや、ヒトじゃない。でも、豚でも無いんだ」
「じゃあ何だよ、ヒトブタか、それともブタヒトか」
「友達だよ」
「奴隷だろうがよ」
「トンカツよ、君が一度でも、奴隷らしくしていた事があるかい?」
「ははっ、言えてる」
僕らの存在・奴隷問答はいつもここで終わる。なにせ僕らは学者では無いのだし。しかし現実問題として、買い物に行かなくてはならない。
「トンカツ、買い物に行かなきゃならないんだよ。それにもう、君の好きなジュースが無くなるしね。行かなきゃならないだろう?」
「そりゃあ大変だな。カニオ、お前一人で行ったらどうだ、俺、外に出たりしたらまた問題起こしちまうだろうよ、きっと」
トンカツが、「チェ」の煙をふかしながら赤い箱を胸ポケットに突っ込んで、そんな事を言う。
「僕が一人で外に出たら、たぶん生きて帰れないよ」
「そう、そこだよな。それが問題なんだよ全く」
トンカツが、妙な表情で僕を見た。まるで、憐れむような。その顔つきにイラついて僕は、舌打ちした。
「何だよ」
「カニオ、お前は強くならなきゃだめだ」
「どうやって」
「鍛えるのさ」
「嫌だよ……」
「何でだよ」
「そういうの、好きじゃないんだ」
「だろうな」
「ねえ、トンカツ」
「何だよ」
「いつから煙草を吸ってるの。それに、どうやって手に入れたんだい」
「ああ」
「うん」
「いつからってそりゃあ、生まれた時からだよ」
「子豚だった頃は、そんなんじゃ無かったよ」
「どうだっていいだろ、昔の事なんか」
「たった二年前だよ……」
「お前、いくつになったんだ」
「二十九歳だよ、今月の最後にはね」
「ジジイだな」
「ジジイじゃないよ」
「じゃあババアかよ」
「違うよ」
「じゃあジジイだな」
「違う」
「じゃあ何なんだよ!」
「大きな声出すなよ!」
僕らは、その日初めて胸倉を掴み合い、殴り合った。そして、こう結論付けた。今すぐ買い物に行かなくてはならない、と。
***