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いつか終わる物語  作者: むらさき毒きのこ
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幻想に惑わされないために出来ること

 ちょっと前に知人と、無為という事について対話する機会がありました。細かい内容を書くことはやめておこうと思うんですが、仏教的な意味がある言葉です。それは、こんな概念です。


無為(むい)

名・形動]

1 何もしないでぶらぶらしていること。また、そのさま。「せっかくの休日を無為に過ごす」「無為な毎日」「無為無策」

2 自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと。また、そのさま。ぶい。

「日頃忘れていたゆったりした―の歓喜が」〈宮本・伸子〉

3 《(梵)asaṃskṛtaの訳》仏語。人為的につくられたものでないもの。因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。⇔有為(うい)

goo辞書より 2021/10/04閲覧


 私は物心つく前から仏教徒として生活してきましたので(現在はどの宗派にも属していない)、わりとこういう事について悩んできた経緯があったのです。それで、こういう問題について普段から思考しておられる知人が「因縁」についてどう考えているのか興味があり、質問したのです。「因縁(カルマ)って考えは、罪が罪を呼ぶためにいつまで経っても終わりが無いので、救いが無いですよね」という風に。すると知人は、無為について提案したのでした。無為の状態になれば、因縁と関係が無くなる、という事らしいです。へえ、と思いました。


 だけどまあ、良心的かつ正直な人間ならばすぐに気が付くとは思うんですが(私はその事に気が付くのに、数十年を要した)、無為を体現できる大人は存在しないと考えるのが妥当なのです。ただ何も考えずに生きている存在なんて、赤ん坊か幼児、または重度心身障害者(先天的要因により成長できない状態)くらいではないでしょうか。たぶん。際どい話をしていますかね。しかし、彼らに罪が無いという感覚は、おおよその人には理解できるものだと思うのです。たぶん。


 人間の貪欲さというのは、悲しいものなのです。仏に近づきたい気持ちが、できもしない幻想へと向かうのですから。善行をすればカルマが清算されるとか、そういった甘い誘惑を信じ込んで、高価な仏像や仏壇を購入する人がいたり。こういう霊感商法的詐欺に騙される人の心理というのは、自分が救われたいという、悲しい欲があるからなのです。


 この世に救いは無い、というのが目下の、私の実感するところなのです。それは絶望に似ているんですが、そうではないと私は考えます。欲深い自分を自覚して、笑う事に意味がある。そんな風に思うのです。不完全な自分を恥じる気持ちも大事だとは思うんですが、それが普通でしょう、という厚かましさの方が、生きるためには必要なことかなあと思います。

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― 新着の感想 ―
[一言] 無為、亡きお姑さんを思い出しました。 認知症でね。施設に行ってもらったのです。 何もかも忘れて、それはもう、可愛らしくなってねぇ。 差し入れのアイスを食べさせながら、日に焼けてたのが、白魚の…
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