お帰りなさい
まちに自分が受け入れられる、そんな気持ちが持てるのは?
きっと、こんなささいなことなんだろう。
五月の風はさわやかだ。少し伸びた髪が風になびく。今日は、急に大学の授 業が休講になったので、国府台の坂を駅に向かって歩いた。早いもので、入学 してから三年が過ぎた。そろそろ尻に火がつくかな。菅野の両親も心配してい るから、本気で就職先を探さなければならない。髪もバッサリと切ってみよう か、そんなことを考えながら駅まで着くと、そこにコンサート開催の大きなポ スターが貼ってある。国民的アイドルグループのそれであった。 「こんな人気グループでも、このまちでコンサートをするんだ」
テレビの中だけの世界と感じていたのに、身近なものだ。
そのポスターが気になって、結局コンサートに行くことにした。なんか気恥 ずかしかったから、友達は誘わなかった。地元の会場だから、知っている顔が いないか心配になり、あたりを見回したりした。幕が上がり、ショーはすぐに 始まった。これはメンバーが多いな。初めの曲が終わったら、メインメンバー が自己紹介をはじめて、その中の一人が挨拶をした時に、会場の雰囲気がざわ ついた。
「あっちゃん、お帰り」
「お帰りなさい。待ってたよ」
そうか、このまち出身だったんだな。それにしても、ファンの掛け声に満面 の笑顔で応えている。こんなに有名になって、地元のファンに迎えられるのは どんな気持ちなんだろう。
「お帰り。あっちゃん」
凱旋公演にありがちなプライドを全身に感じさせることもなく、実に良い笑 顔だと思った。
新卒学生の就職率は芳しくない状況であったが、その後、ようやく就職先も 決まり、近畿地区にある支部に配属されることになった。そこには社員のため の独身寮があるので、そこが社会人としてスタートする場所になる。転居とな ると、慌しいものだ。寮の指定された入居日に合わせて、住民票を変更しなけ ればならない。JR市川駅前にある窓口で、市役所の職員に転出届を出した。 しばらくすると会計窓口に呼ばれ、転入先の役所で必要な転出証明書を受け取 った。書類を渡すとき、 「行ってらっしゃいませ」と職員が言う。あれっと思ったけど、きっと転出先 が会社の独身寮だから、赴任するための引越しだと思ったんだろう、たぶんそ うだなと一人ごちた。
それからは、本当に色々あった。社会人のイロハも分からないなかで、失敗 もしたし、怒られもした。自分で言うのも変だが、自分なりに成長したと思う。 彼は昔の彼ならずだ。
三年が経って、東京の本社勤務になった。背広やネクタイのセンスも変わっ た。よし、本社でやってやるぞという挑戦心や情熱もプンプンしている。菅野 の両親は、少し歳を取ったようにも感じるが、一回り大きく見えるだろう息子 と同居できるうれしさを隠さない。
住民票の変更手続きには、前と同じJR市川駅前の窓口に行った。その日、
まば フロアで手続きをしている人は疎らだった。転入届を提出し、いろんな行政サ
ービスの説明を受けた。そして、最後に驚いた。説明をしてくれた窓口の職員 は、最後にペコリと頭を下げると、 「お帰りなさい」と言った。僕もペコリと頭を下げて、窓口を後にした。
きっと、菅野の両親と同居するから、僕が「帰ってきた」と思ったんだろう
がってん と合点した。
そのとき、学生時代に観に行ったコンサートの光景が頭に浮かんだ。
あの時のあっちゃんも、こんな気持ちだったのかな。
僕はこのまちに帰ってきた。このまちのみんなに「帰ってきたぞ」って伝え たいくらいだ。
「お帰りなさい」
そして、この言葉にはじめて出会った。
明日も、このまちでがんばろう。
人は人に支えられている。
きっと、頑張れる。