8
僕が五歳で、灯莉が七歳だったあの日――飛沫が空高く上がる音を、僕の耳は冷え切った海中で拾っていた。
手足を滅茶苦茶にばたつかせてもがくと、海面を叩いて白く濁った泡が立った。着衣は恐ろしい速さで鉛のように重くなり、顔を海面に出してもすぐに何度も沈んでしまい、まだまだ凍える春の海に投げ出された僕の小さな身体から、みるみる力が抜けていく。
どうして、こんなことになったんだっけ? 靄が掛かっていく頭の端で、僕は記憶を手繰り寄せる。
そうだ。灯莉姉ちゃんと、喧嘩をしたから――。
母さんたちから灯莉が盗んできた二つのサンドイッチ。どちらがサーモンとクリームチーズのサンドイッチにするか、取り合いの喧嘩になったのだ。刻み玉ねぎと黒オリーブを混ぜ込んだ卵のサンドイッチだって美味しかったかもしれないけれど、食べたことがない黒オリーブよりも、灯莉が選んだサーモンのほうが、僕も美味しそうに見えたから。灯台まであと少しという、防波堤の一本道の半ばを過ぎた辺りで起きた、いかにも子どもっぽくてつまらない喧嘩だった。
小学三年生と小学一年生。僕より背が高かった灯莉のほうが喧嘩は有利で、目当てのサンドイッチを高々と頭上に掲げていた。今にして思えば、揉み合ううちにサンドイッチの白くて柔らかいパンは硬く潰れていたけれど、そんなことは互いにお構いなしだった。僕は思いきりジャンプして、幼い指先をサンドイッチに届かせた。
灯莉の手からサンドイッチが一つ、弧を描いて飛んでいく。まるで中学二年になった僕が、捨てようとした初恋みたいに。
ああ、と灯莉が発した悲しみに染まる痛みの声が、僕の背中をとんと押した。ひょっとしたら、灯莉はこのときのことを、自分の責任だと感じていたかもしれない。だけど僕はバランスを崩して落ちたわけでは決してなかった。ただ、僕らの手に最初からあったものを、なのに僕らが手放してしまったものを、もう取り返しがつかないと知っていても、それでも取り返したかっただけなのだ。
けれど飛び込んだ瞬間に、幼稚な覚悟なんて吹き飛んだ。身が切れそうなほど冷えた海水は、容赦なく僕の体力を奪っていく。苦しく喘いだ瞬間に、気泡が海面に向かってぼこりと上がっていくのが見えた。
この町に来てから、たくさんの楽しいことがあった。後の灯莉が言うように、僕も周りのみんなのことを好きになれたかもしれないのに。そんな僕でも陽だまりで呼吸ができた気がしたけれど、全て都合のいい夢だったのかもしれない。目が覚めたら東京で、日陰で膝を抱える毎日が、僕を待っているのかもしれない。
白濁していく意識を、僕が手放そうとしたときだった。
眩い光が、閃光のように真っ直ぐに、僕の瞳に届いたのは。
叩き割った透明なガラスを、幾重にも重ねて揺蕩わせたような水面から、その輝きは射していた。白い輝きは、太陽の光だ。僕がどうでもいいと思っていて、でも実は焦がれていたかもしれない陽だまりの煌めきだ。僕を呑み込んだ青い世界を貫く光は清廉で、雲間から射す陽光の柱の一つが突然、無数の泡に埋め尽くされた。壊れた光の柱から、泡の鱗を纏いながら、短いスカートを履いた女の子が現れた。その子の髪が男の子みたいに短くても、日焼けした両足が絆創膏だらけでも、僕の目には人魚に見えた。
この光を、目指せばいい。こちらへ精一杯に伸ばされた手のひらを、海底に攫われかけていた僕は、かろうじて掴み返した。
灯莉は、僕にとっての光だった。この町の灯台が、役目をとうに終えていても、暗い海を照らさなくても、閃光のような光で遠くを真っ直ぐに照らす存在は、あの頃から確かに僕のそばに在ったのだ。
*
唇に冷たい柔らかさが触れて、離れて、また触れて、それを僕の無意識は薄々と気づいていて、自覚が追いついた瞬間に、喉にせり上がってきた塩辛い海水を吐き出した。
重い瞼を開けたとき、空の青さは同じだった。僕はずっと灯莉を待って、空を無為に見上げていたから覚えている。
あの時間と、現在との相違点は――僕の視界いっぱいに、十五歳の灯莉がいることだ。
清楚に切り揃えた黒髪は、海水を重く吸っていて、毛先から滴った雫が、僕の濡れた頬に落ちた。高校の制服だって、ブレザーはどこに脱ぎ捨ててきたのだろう。白いブラウスが素肌にぴったり張りついて下着のラインを透かせても、互いに何も言えなかった。僕の学ランの上着もどこかに消えていて、上は白シャツだけになっていた。
身体がひどく重く、怠惰に投げ出した両手には、砂と貝殻のざらざらとした手触りがあった。顔を傾けると、横向きになった景色の中に、普段と何ら変わらない灯台と波止場が見えた。そこから少し離れた砂浜に、僕は仰向けに寝かされていた。
余所見をするなと言わんばかりに、襟首をぐっと引っ張られた。灯莉の冷え切った指先が、僕の項に触れた。誰もいない砂浜で、孤独な僕らは見つめ合った。
灯莉は、僕が今までに一度だって見たことのない顔をしていた。乱れた呼吸を繰り返して、仇のように僕を厳しく睨んでいるのに、では果たして殺したいほど憎いだろうかと問うたなら、首を縦にも横にも振れない顔。質問の形を変えたなら、その感情の答えはきっと簡単に導ける。二度も海に落ちたくせに、浜辺に引き上げられた僕は、いまだにボトルメールを捨てられないでいるのだから。
すれ違い、置き去りにされて、追い駆けても素気無くされて、裏切りにも似た仕打ちを受けて、なんて女だろうと僕は思う。こんな幼馴染、嫌いになればいい。嫌いになりたい。もう、きっと、あと一歩で、楽な感情に流れてゆける。
なのに。それでも。どうしてだろう。もし灯莉も、僕と同じだとしたら。もしそんな奇跡が起きたとして、その奇跡を灯莉も言葉の形にしてくれたなら、こんなにもどろどろと汚れた感情のほうを、僕は捨て去ろうとしてしまう。それで許せる保障なんて一つだってないはずなのに、幼い頃から大事に握り続けた気持ちだけは、どんなに変わり果てた形でも、いつまでも手元に残してしまう。
小波が砂を浚うささやかな音が、長い沈黙を埋めていく。
気まずい沈黙ではなかった。今度こそ本当に、あの日の灯莉に触れられた気がした。それだけで満足してしまった僕は、どこかで灯莉の答えを予期していたのだろうか。告げられた言葉に反論せずに、受け止めてしまったのだから。
「……大嫌い」
大粒の涙が、頬を打った。「分かった」と答えて目を閉じるしか、僕にできることはなくなった。
その日から、僕――由良俊貴は、春原灯莉を避けるようになった。