3
ラジオが正午を告げた。
相変わらず御影はカウンターの端に座り、先程八十八が持って来たアイスコーヒーを飲んでいた。
カウンターの反対側、御影から離れたキッチンスペースからは、ニンニクを炒めているのか香ばしい香りが漂ってくる。その香りがかなり空きっ腹に応えるのだが、かつて食したことの無い八十八の料理なので、その期待を込めて待つことにした。
ちなみに、御影から見たカウンターの向こうは昔と比べて全くと言っていいほど変わっていない。
八十八曰く、『祖父ちゃんから継いだ店だから、祖父ちゃんが一番使ってたこのスペースだけはなるべく手を付けたくない。』だそうだ。
褐色のニスで仕上げられた棚や、煤けたコンロ周りの壁も当時のままだ。
目の前の光景と、八十八が料理をする音だけを聞いているとまるで五十六がその場に居るかのように錯覚してしまう。
「改めて聞くけど、一人で経営って本当なの?」
待っているだけなのもあれなので、とりあえず一つ聞いてみることにした。
「本当だよ。祖父ちゃんの残したメモ帳にはコーヒーの淹れ方だけじゃなくて、経営のサポートをしてくれる人の名前とかもリストされてて。そのおかげで何とかやっていけてる。」
料理の手を止めずに八十八は答えた。
よく考えずとも想像に容易い。高校を卒業して2年目のガキ一人にとって喫茶店の個人経営なぞ、ハードルが高すぎる。
五十六は店を譲り渡す際、それを見越して協力してくれる人間を集めていたのだった。
「高2の時だったかな。祖父ちゃんの遺書に店ごと全部を俺に譲るって書いてあって。それで、この店を確認しに来た時なんだけど。」
続けて今に至るまでの顛末を語った。
「件のメモ帳を見つけて読んだ。それで、祖父ちゃんが好きだったこの店を俺が残していかなきゃいけないと思ったんだ。将来の夢とかやりたいことが見つけられなかった俺にとっての目標ができた瞬間だったよ。」
八十八は生き生きと、嬉しそうに言った。今の御影の目にはそんな八十八が非常に眩しく映る。
御影に見えなかったものが八十八には見えているのだ。
「でも、お父さんやお母さんには反対されなかった?」
「聞くまでもないだろ?そりゃあ猛反対だったよ。親父にはぶん殴られたしな。」
世間一般の親たちは息子がいきなり独立なんてことを言いだしたら普通に反対する。無論、古川家でも例に漏れず引き留めようとしたようだ。
それでも八十八は一歩も退かなかった。何とか親を説き伏せて、了解を得たらしい。
以降は、メモに記してあった協力者の下を訪ねて回り、勉強する日々だったそうだ。そして、高校卒業から1年、1年前の7月に『八十八の店』としてこの店が復活した。
多分、そのことは自身の親も知っていたのだと思う。ここ2年仕事で忙殺されていた御影にはそれを知る余裕がなかった。聞いていたかもしれない。そうなら恐らく聞き流してしまったのだろう。
そんなことを考えていると、八十八の足音が近づいてくる。
「はい、お待たせ。お代はサービスしとくよ。」
御影の前に1枚の皿が置かれた。皿の中心では白米が白いソースを纏い、刻んだベーコンと散らされたパセリが彩りを与えている。
今まで、写真やテレビでしか見たことがない料理。それはチーズリゾットだった。
まともに洋食屋すら行ったためしがない御影。実は過去に食したことがないのだ。
恐る恐る、一口目をスプーンに取り口へと運び込む。
しっかりとダシの効いたコンソメスープにチーズがよく合う。固めに炊いた米の食感もいいアクセントだ。
まさか、八十八がこんな料理を出してくるとは思わなかったが、かなり美味い。
「私リゾットなんて、初めて食べたよ。すごくおいしい。」
流しで使ったフライパンを片付けている八十八へ、御影は率直に感想を伝えた。
そして、口へ運ぶ手が止まらない。
「リゾットは炊き加減を見ながら作れるし、材料や味付けもシンプルだから簡単なんだよ。それで『いかにも洋食』な見た目だから最強のズボラ飯だな。」
ドヤ顔で腕組みしながらしてやったりと言わんばかりの八十八だ。
「店のオーナーさんがそんな事言っちゃだめでしょ。」
苦笑交じりに御影が口を開く。それを受けて八十八は一つ高笑いをする。
「いいんだよ。メニューにも載ってない賄い飯だから。サービスってのも俺の昼飯のついでに作ったからだし。」
八十八が洗い終わったフライパンを棚に戻しながらそう答えた。高笑いの余韻か、その顔には笑みを湛えたままだ。
「これ、お金とってもいいレベルだと思うけどな。」
更に一口運び、確認するように味わいながら御影が口を開く。
「あ、でもレシピ教えて。家でも作ってみたくなった。」
他に客がいないからか、カウンターの向こう側で座って自分と同じ料理を食べ始めた八十八に話しかける。
その時。表の道路から駐車場に一台のバイクが軽快な音を響かせて入ってきた。来客である。
しかし、八十八はそのまま食事の手を止めない。
御影はその様子が心配になったのかカウンターの向こうへ身を乗り出した。
「バイクが来たけど、お客さんかな?ご飯食べてて大丈夫なの?」
一応確認なのか、八十八は外を覗くように見た。
「大丈夫、あれは九十九だ。問題ない。」
「え?よくわかんない。」
リゾットを咀嚼しながら答えた八十八の言葉がうまく聞き取れなかったのか、御影は聞き返した。
バイクから降りた人物は革ジャンにデニムといういかにも『バイク乗り』の風貌だったが、どうやら女性のようだ、ヘルメットを取った瞬間になびいた髪で顔はよく見えない。
革靴の硬い足音がテラスに響くが、相変わらず八十八は一向に食事を止めようとしない。
そして、ドアベルが鳴った。
「たのもー!古川八十八よ!妹、九十九は昼飯を所望するぞ!」
本日二人目の来客。八十八同様約5年ぶりの再会となる、八十八の妹、古川九十九だった。