落葉
それからのエンゾの牢獄での暮らしは、筆舌につくしがたいものでした。
くる日もくる日も、穴を掘り、石を切り出し、少しでも手を休めれば殴られ、蹴られ――
多くの囚人が弱って死んでいきました。みずから首を括った者も、どれだけいたかわかりません。
エンゾは少しでも手を休めず、少しでも受ける暴力を減らして、石にかじりつくように生きました。
「エンゾは丈夫じゃねぇから、すぐ逝っちまうかと思ったよ」
同じように収監された粉挽き屋の主人が、エンゾが今日も何とか生きている事に安堵と感心を覚えたように言います。
「僕もだ。けど、死ぬわけにはいかないと思えば、人間なんとかなるものさ」
弱々しいながらに、エンゾは笑って答えます。
冷たい風に唇は乾ききり、口の中に押し込んだ硬いパンがさらに水気を奪います。
わずかな食糧を口に入れ終わったら、作業を再開しなくてはなりません。
あまりゆっくりしていると、看守に背中を蹴り飛ばされてしまいます。
「生きて出よう、こんな味気ない所に骨を埋める気はないだろう?」
互いを励ましあうように、エンゾと粉挽き屋の主人は立ち上がります。
その瞬間、――――轟音。
雷でも落ちたような激しい音が、監獄全体を包みました。
「なっ……、何だ何だ!?」
「脱走か!? いいや……外からだ!!」
「砲撃だと!? くそっ、応戦しろ! 応戦だっ!!」
一瞬にして、監獄は狂乱に包まれました。
駆け出す看守を囚人が渾身の力で殴り殺し、その手から武器を奪います。
暴れ出した囚人を撃ち殺そうとした看守の頭を、背後から飛来した石つぶてが叩き潰します。
「壁が、壁が崩れた!! 出られるぞ!!」
囚人たちの声が歓喜に包まれています。
「おい! ぼさっとしてるな、撃たれるぞ!」
エンゾはただ、粉挽き屋に引っ張られるまま、狂乱の中を走り出します。
監獄の高い壁に穿たれた大穴に、囚人たちが押し寄せます。
逃げ出す囚人達を蜂の巣にしようと銃を構えた看守たちは、大穴から飛来した矢に次々と射抜かれていきました。
「――旦那! 粉挽き屋も!!」
崩れた壁の向こうから、なつかしい声が聞こえました。
エンゾの所で働いていた木こりの息子です。実家の商売道具であるはずのその手の斧は、真っ赤に染まっていました。
「木こりのせがれじゃねぇか! こいつぁ何が起きたんだ!?」
「助けにきたんだよ! ……ああ、二人の命が紙切れみたいに捨てられる前に、俺たちは間に合ったんだ」
見れば、彼の他にもエンゾの所の働き手や、街の人びとが、凶器を手に看守に襲いかかっていました。
会いたかった人びとが、鬼のような形相で人を殺しているのです。
「革命だよ、革命が起きたんだ!
女王がポムデギャミンにかこつけて罪もない人を強制労働させてるなんて、みんなとっくに知ってるよ。
その阿婆擦れも捕まって、もうじき断頭台の上さ。
……二人とも、街に戻れるんだ。もうこんな奴隷みたいな事はしなくていいんだよ!」
感極まったように矢継ぎ早に口にする木こりの息子を、エンゾはただ黙って抱きしめました。
木こりの息子の身体についた返り血が、エンゾの擦り切れた指先にぬるりとつきました。
その雫は、奇妙なほどに命のあたたかさを感じさせました。
監獄は陥落し、収監されていた囚人たちは自由を手に入れました。
中には罪がないとは言えない者もいたかも知れませんが、そんな事は誰も気にもとめませんでした。
「あなた、あなた……! こんなに痩せてしまって……!」
木こりの息子や革命に立ち上がった人々のおかげで、エンゾと粉挽き屋の主人はは無事に街へと戻ることができました。
ずいぶんとやつれてしまったエンゾの奥さんが、夫を見るなり飛びついてきました。
奥さんも、エンゾの逃走を後押しした罪に問われはしましたが、組合長と街の人びとが嘆願して助けてくれたそうです。
女手は労働力にならないからでしょう、奥さんは数日の拘留の後には釈放されたそうです。
「すまなかった、君まで怖い目にあわせて。……会いたかった」
二度と会えないかと思った妻をこの腕に抱く事ができて、エンゾは人目もはばからず泣きました。
木こりの息子や街の人びと、組合長には何度も何度もお礼を言いました。どれだけ言っても足りる気がまるでしません。
「すぐにでも商売は再開できるが、まずはゆっくり過ごしなよ。仕事は俺に任せてさ」
エンゾが不在の間も、奥さんと子供たちと、木こりの息子が協力しあって、どうにか行商は続けられていたそうです。
その間に、エンゾの一番上の娘と木こりの息子は夫婦同然の仲となっていましたが、二人ともエンゾが無事に帰ってくるまで婚儀は行わないつもりでいました。
恩人が新たな家族も同然となっていた事は喜ばしいのですが、振って沸いた吉報に、エンゾの頭がついて行きません。
エンゾの混乱を見て取ってか、木こりの息子は落ち着いてから改めて婚礼を申し込むと笑っていました。
「旦那、旦那! 首都に行こうぜ!」
エンゾがかつての生活を取り戻しつつある矢先、木こりの息子が唐突に言い出しました。
「首都に? そりゃあ此処から遠くもないが、何でまた」
「決まってるだろう、あの憎たらしい阿婆擦れの首が、ついに胴体とお別れするからさ!」
女性を大事にする木こりの息子が阿婆擦れなんて呼ぶのは、革命の元凶である女王陛下ただ一人です。
エンゾの心臓がどきりと早鐘を鳴らしました。
「旦那は見届けるべきだよ、恨みが晴らされる瞬間をさ。
大丈夫、俺もついて行くって。呪われるんなら俺も道連れだ」
木こりの息子は冗談めかして言いました。
粉挽き屋も誘いましたが、昔の事だとそっぽを向かれてしまったそうです。
また組合長にも声をかけましたが、女が死ぬのを見世物にするなんぞ悪趣味だと一蹴されてしまったとも。
「年寄り連中は頭が固いんだよ。何が女王様だ、ただの暴君じゃないか」
木こりの息子は大層憎々しげに言います。
エンゾはなぜか、あの監獄から助け出された時、彼がまとっていた返り血の感触を思い出さずにはいられませんでした。
エンゾは木こりの息子に押し切られる形で、首都の処刑場に向かいました。
広場には、鏡のようにぎらつく刃の、仰々しい断頭台がそびえ立っていました。
多くの民衆が暴虐の女王の最後を見届けようと押し寄せ、今か今かと待ちわびていました。
「女王だ! 女王がきたぞ!」
やがて黒塗りの馬車が断頭台の前に止まり、一人の女性が引きずり下ろされました。
その姿を見て、エンゾは思わず息を飲みます。
女王は、幼さが残る少女の顔をしていました。
おそらくエンゾの一番上の娘や、あの査問所の少女と歳はそう変わらないのでしょう。
そして何より、その目に見覚えがありました。
査問所の少女や、ポムデギャミンの子供たちと同じ目をしていました。
擦り切れて疲れきった、すさんだ目です。
「……何か言い残す事は?」
女王の耳元で、処刑人の唇が、そう動いたように見えました。
女王は静かに息を飲み込むと、堂々と民衆に向き直ります。
「聞け、汚い大人たちよ!
穢れた手でもてあそび、手垢で汚した人形の首を切り捨てて満足か!?
血塗れた刃で次は何を斬る?
私が死んでも終わりはしない、むしろ此処からが始まりよ!!」
女王は、笑っていました。
断頭台に押さえつけられてもなお、狂ったように、壊れたように、ただ笑い続けていました。
巨大な鏡のような刃が、その顔を映しこむほどに迫ってもなお――