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五、結末

 五、結末


 僕は貧血の症状がして、少し眠ってしまったようだ。

 目が覚めると、外で吸血病患者たちが騒ぐ声が聞こえた。

「ああ、夢じゃなかったんだ……」

 そう僕が言うと、

「なにが?」

 と、杏菜が僕の顔を覗き込む。

「うん。すべてがさ……」

 だが現実は、外の吸血病患者たちが壁を叩き続けている。大人が騒いでいるような低い声が多くなっていて、教師や生徒のほかに、近所の吸血病患者たちまでが合流しているのが想像できた。やがて壁が壊れて、そうなったら僕たちの運命も壊れる。

 杏菜は、小さな注射器を持っていて、自分の腕の静脈に注射を始めた。

「それは?」

「うん。血清が完成したの。私が最初の実験台ね」

「もう……?」

「翔太は三時間眠っていたのよ」

「そんなに……。あ、小さな注射器があるじゃない。それなら僕も怖くなかったのに」

「これも、やっと用意ができたのよ。翔太は一人で学校に残って大変だったと思うけど、私もあれから大変だったのよ」

「杏菜はすごいんだね……」

 僕は正直な感想を口にした。杏菜は意外と元気で、首の傷も大丈夫のようだ。

 非常時の持ち出しリュックが保健室の戸棚にあって、中を見ると食料と飲料水が入っていた。それを食べて僕たちは少し落ち着くことができた。

 壁は相変わらず叩かれ続けている。薬が完成したとして、どうやってここから持ち出せばいいのだろう? 特殊部隊の救出が必要だ。ヘリコプターを使ったやつ。

「杏菜、首……大丈夫?」

「うん。まだ痛いけど、傷は大丈夫」

 時間が気になる。杏菜が美田君に噛まれてから、もう三時間以上が過ぎている。保健室の血清製造機は順調に稼働しているようで、がちゃがちゃと動き続けているが、杏菜が無事でなければ意味がない。

「杏菜……。その薬が効かなかったら、杏菜が僕を噛んで。僕はどうせなら、杏菜に噛まれたい」

 僕が杏菜の手に自分の手を重ねて言うと、それを杏菜は振り払った。

「だめよ。私が感染していても翔太には移らないから。私が感染していた場合は、世界でただひとりの人間として余生を送りなさい」

「余生ねえ……」

 僕は嘆息した。まだ十五歳だ。

 粘りつく絶望のカウントダウンの時間を送ったが、噛まれてから五時間が経過したところで杏菜は断言した。

「うん、効いた! 私、感染しなかったみたい!」

「よ、よかった。本当に……」

「泣かないで。男でしょ」

 どんっ、と杏菜は僕の背中を叩いた。

 杏菜の話では、この血清を打てば感染者の心臓は元のように動き出し、一週間もすれば元の人間に戻るということだ。すべてが元通りになるのだという。

「すべてが……? 誰も死なないの? 僕の家族も?」

「うん! 大丈夫よ」

 杏菜は満足そうな溜息をして、

「本当のことを言うとね、翔太の体に血清ができているのが信じられなかったの。本当によかった……。あの日、カレーパンを食べてよかったね」

「うん。よかったけど、あのカレーパンは、本当は美田君が食べるはずだったんでしょ? 美田君は杏菜の仲間なんだね。それが僕はショックだよ。あいつが特殊任務についていたなんて」

「でも、彼はだめよ。噛まれて向こうの仲間になっちゃったんだから。開き直って私も噛むし最悪よ。翔太でよかった」

 杏菜は僕の頭を何度もなでてくれた。

「さあ、最後の仕事をするわよ」

 杏菜は腕まくりをした。鉄格子の外から吸血病患者たちに腕を突き出させて血清を注射する。

 特殊部隊の突入はいらないようだ。治療は、ここからダイレクトに始める。驚いたことに、保健室の扉には、そのために使うらしい小窓が付いていた。ここから、吸血病患者に腕を出させて注射はこちら側からするようだ。

「これで、日本人全員に注射できるかな?」

 僕はそう疑問に思ったが、取りあえずの治療をこの小窓から始めるのだろう。とにかく、早く家族にも注射を打ってやりたくて僕は張り切った。

 僕は壁の向こうに大声を出した。

「もう壁を叩かないで聞け! 今、吸血病の治療薬が完成した。元の人間に戻りたい奴は、中に腕を差し出せ。片っ端から治してやる!」

 しばらくざわついていたが、やがて外が静かになり、小窓から吸血病患者たちが腕を差し入れてきた。あとは流れ作業。医師免許など僕が持っているわけがなかったが、途中から杏菜に教わって、僕も注射器を握って次々に差し出される腕に注射針を刺した。

「成功ね。これで赤点から脱出できるわ」

「赤点?」

「聞こえた? おほほ……」

 杏菜は舌を出したが、僕にはなんのことかわからなかった。

 吸血病は劇的に減少し、治った患者も治療に加わった。こうして、謎の奇病騒動は徐々に終焉していったのだった。


「やあ、おはよう」

 美田君が教室に入って、朝の挨拶を爽やかにした。

「おはよう……」

 僕も挨拶を返したが、どうにも意識してしまう。吸血病患者たちの治療は血清によって完了し、以前と変わらない日常に戻った。美田君さえも治療を受け入れて、血色の良くなった顔で元気に登校してくる。学校の登校時間も以前と同じ朝からとなり、すべてが悪い夢だったような気さえした。吸血病患者だった者たちも、忘れてしまったようにあのことを口にしない。

「みんなもう忘れてしまったのかな? あれって本当にあったことだよね?」

 僕は毎日のように杏菜に聞いた。

「あたりまえでしょ。自分のことを地球を救った英雄と思ってもいいのよ」

「僕も夢を見ていた気がするんだよ」

「夢じゃない証拠に、吸血病はもう流行らないわ。みんなの体に免疫ができてるから。それは翔太の体からできたんだよ。英雄の血が、みんなに流れてる」

「そんな……」

 なんだか誇らしい気がしてきた。ちょっと胸を張った僕を見て、「調子に乗らないで」という感じで杏菜はお腹を殴る真似をする。

「あのさあ、私はそろそろ行くからね」

 杏菜が改まった感じで僕に右手を差し出した。

「なにそれ? さよならみたいで嫌なんだけど」

「握手ってね、初めましての意味もあるのよ」

「初めましてじゃないし」

 僕は杏菜の手を握らなかった。さよならなんて嫌だし、少し恥ずかしい。もじもじする僕に、「なにしてるの?」という感じで杏菜はさらに右手を差し出す。僕がそれでも手を握らないでいたら、杏菜は右手をグーに変えてパンチをする真似をした。やむなく僕は杏菜と握手をした。

「私は杏菜の体を借りていただけの異星人だから。あの話、本当よ」

「あの話?」

「とぼけないで。覚えてるでしょ? 私はあなたから見たら宇宙人」

「ふーん……」

「驚かないの?」

「驚くことばかりだったから、今さら」

 むしろその方が自然な気がした。人類滅亡の危機を察知したどこかの善意の宇宙人が、ちょうど、環境団体が絶滅危惧種を保護するように助けてくれたのだろう。地球以外の星に、もしも生命体があって地球人よりもずっと進歩発展しているのなら、そういう手助けもしてくれそうな気がした。

 そんな推測を僕が披露すると、

「おっ、するどい!」

 と、杏菜は僕の頭をなでて褒めてくれた。これ、杏菜がよくしてくれて嫌いじゃないけど、杏菜が地球人を少し下の存在に思っている証拠かもしれなかった。ペットの頭を撫でるみたいな。あるいは、杏菜の年齢は本当はもっとずっと上で、年上だからこういう行動を自然にしてしまうのだろうか。

「ちょっと違うけど、だいたいそんな感じよ」

「本当はどんな感じ?」

「おほほ……。いいえ、だいたい同じだから」

 杏菜の引きつるような笑顔を見て僕は思った。

 吸血病の病原菌を撒いたのは、杏菜の仲間かもしれない……。

 杏菜は、

「これはテストだ」

 とか、

「これで赤点から脱出できる」

 とか言っていた。人類はただの研究材料で、モルモットにされただけなのかもしれない。

「いつから本当の杏菜と入れ代わっていたの?」

 しげしげと杏菜を見つめて僕は言った。

「半年くらい前からだけど、そのへんの認識がちょっと違うの。この学校で、一番私と心が似ている人と気持ちがリンクして重なることができたのよ。私の意識と本物の杏菜の意識が同化したの。だから、彼女もこのことを少しは覚えていると思うよ」

「ほんとう?」

 ということは、あのキスのことを、本物の杏菜も覚えているかもしれない。

「なにを思い出してるの? いやらしい」

「いやらしいって別に……」

「まあさ、本物の杏菜と付き合えるかわからないけど、私が居なくなったあとも頑張ってみるといいわ。でも、頑張っても付き合えないかもしれないから、今のうちにエッチなことをしておく? 相手をしてあげる」

 うーっと、杏菜は唇を僕に突き出した。

「嫌だよ、そんなタコみたいな顔の人」

 僕はどきっとしたけど、恥ずかしいから強がった。からかわれてるだけだし。

「んまっ! チャンスなのに。じゃあね、たまに遊びにくるから」

 僕に手を振る杏菜。そして、すっ……と杏菜から表情が消えた。

 そしてそこには、戸惑った顔の杏菜が立っていた。手を振る動作をやめて、不思議そうに自分の手と僕を交互に見て首をひねっている。

「あの、杏菜? 元の杏菜……さん?」

「……う、うん。そうだけど、杏菜でいいよ」

「今までのことを覚えてる?」

「少しだけ」

 杏菜は唇に手を当てて横を向いた。僕とキスをしたことを覚えているのか気になったけど、ストレートには聞きづらい。

「ど、どうして唇を押さえてるの?」

「翔太君が私の唇を見てるから」

「み、見てないし」

「見てた!」

「あの……」

 言いづらくて僕は頭を掻いた。

「なによ?」

「なんというか、一個だけ聞いていいかな? ハイかイイエだけで答えてもいいから。杏菜って、キスしたことある?」

「なにそれ、もろに聞いてるじゃない。どうしてあなたにそんなこと答えなきゃならないの?」

「いや、言いたくないなら別にいいけど……」

「イイエよ! キスしたことなんかないから。少なくともあなたとはね」

「覚えてないのか……」

 と思ったけど、知らないふりをしているだけかもしれない。まあいいや、と僕は思った。家族もみんな元気になって、新しい日がまた始まる。

「よろしくね」

 と、手を差し出したのは杏菜だ。

「うん!」

 僕も杏菜の手を握って元気に振った。


 〈了〉



最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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