四、逃げる二人
四、逃げる二人
突然、鈍い衝突音が響いた。
美田君が頭を押さえてうずくまり、その向こうに杏菜が現れた。手にテニスのラケットを持っていて、それで美田君の側頭部を殴打したようだ。
「大丈夫?」
杏菜は制服のセーラー服を着て、それが白く清潔に輝いている。頬も血色のいい桃色で、汚い吸血病患者ばかりを見ていたから、今ここに天使が舞い降りた。そんなふうに杏菜が輝いて見えた。
「杏菜……ごめんね。もう杏菜が来ないと思ったから、我慢できずに僕もゾンビになっちゃった」
「仲間に?」
「うん。抵抗できたのに僕はしなかった。杏菜が居なくなったから、寂しかったんだよ」
僕は、美田君に噛まれた首筋を杏菜に見せた。
「痛そう……。でも大丈夫よ。翔太は体内に血清があって感染しないから」
「え? そうなの?」
僕は思わず自分の唇に触れた。じゃあ、なんのために噛まれたりキスされたりしたのか……。
美田君がよろめきながらも立ち上がった。僕は杏菜がさっき握っていたテニスラケットを拾った。フレームに「市川杏菜」と書いてある。
「マイラケット?」
杏菜はテニス部員のようだ。テニス部員に渾身の力で叩かれたら、それは痛いだろう。
「なぐって!」
杏菜は僕の後ろを指さした。振り向くと、美田君の怒りの顔がある。
僕は、ぶんぶん音をさせてめちゃくちゃにラケットを振った。しかし美田君には命中しない。たまに当たっても、「ポン」と軽い音をさせてなにもダメージを与えられなかった。
「横に向けて殴るの!」
あっ……と思って、僕はラケットを横にして振り回す。だが、巧みに避ける美田君には当たらない。美田君は顔つきが変わっただけではなく、身のこなしまで以前より俊敏になっている。それでも、ラケットを振り回すと美田君が後ろに下がるから、僕たちには近づけなかった。
しばらく僕はラケットを振り回して美田君を遠ざけていたけど、いつまでも美田君には当たらない。だから効果なしと見て、最後にはラケットを美田君めがけて投げつけた。美田君は軽い動作でそれをかわす。
ほかに武器になるものはないかと教室を見回したが、めぼしいものは見つからない。
ほかの吸血病患者たちが、
「人間が二人もいるぞ!」
と、僕と杏菜を囲みだした。
「翔太君、逃げよう!」
僕たちは教室から逃げた。それを吸血病患者たちが追いかける。逃げる者を追いかける本能でもあるのか、走る僕たちを学校中の吸血病患者たちが追い出した。
「さっき、どうしてラケットを投げつけたの」
杏菜は走りながら恨み深そうに僕に聞く。
「当てようと思って」
「あれ、私のラケットなのよ」
「名前が書いてあったね」
「知っていて投げたの!?」
激高する杏菜に、ごめんなさいをしている余裕もない。追いかけてくる吸血病患者たちはどんどん増え、僕たちは校内を走っては隠れ、隠れては走った。保健室に逃げ込みたかったが、追われて反対方向に逃げるしかなかった。
給食室に逃げ込むと誰もいない。僕たちはそこで様子を見ることにした。
「はあ、はあ……。先生も僕たちを追いかけてなかった?」
「興奮してわけがわからなくなってるのよ。ああなったら手に負えない。野生の猛獣と同じよ。だからあそこで美田君を打ち負かせばよかったのよ。そうすれば、私たちを怖がってみんな近づかなかったから」
「打ち負かすってどうやって」
「こうやって」
杏菜はスローな動きでテニスラケットを振る仕草をした。
「ラケットは横向きにするんでしょ」
「今、ちゃんとそうしたから」
またエアスイングを杏菜はした。
「もういいから」
僕は笑った。もうラケットはないからスイングを習ってもしょうがない。それよりも、ほかに武器になるものはないかと給食室を探してみた。
「消火器くらいしかないな……」
それを僕は持って振り回してみたけど、あまりの重さにすぐに元の場所に戻した。
「ふっ……真面目ね。そのへんに置いておけばいいのに」
元の位置に消火器を戻した僕のことを杏菜は笑う。
「笑うことないだろ。火事になったら困るじゃないか」
「命が危ないってときだから、そんなのどうでもいいじゃない」
「いちいち」
「違うの。そういう翔太の真面目なところ、私、嫌いじゃないの。結構そういうの好きだよ」
「そ、そう?」
「あ、隠れて!」
給食室の外に人影が現れ、中に入ってきそうな気配があった。
「杏菜、あそこに隠れよう」
前に友達とここに侵入して、給食エレベーターで上り下りをして遊んだことがある。僕は杏菜を給食エレベーターの中に招き入れた。狭かったが、こんなところに人がいるとは思わないだろう。
「真面目じゃないわね。良い子は、こんなところで遊んじゃだめよ」
「でも、役に立った。こんなところに隠れてるなんて、お釈迦様でも気づかない」
いっしっし……。と、ふざけた声を出して僕は笑った。
「ふざけないでよ」
「だって」
ふざけていなければ怖くてやりきれない。
ついに、吸血病患者たちがぞろぞろと給食室に入ってきた。良い所に隠れたと思ったけど、考えたら袋の鼠だ。
「どこへ行った。匂いはするのに」
「もう、あいつらしか人間はいない。みんなで分けて食べようぜ」
わ、分けて食べる……?
恐ろしい会話を吸血病患者たちがしている。僕たちは、狭い箱状の給食エレベーターの中だから、身を屈めて隠れているしかない。杏菜と密着して、杏菜の震えが僕に伝わってきた。杏菜も怖いようだ。それを我慢して二度にわたって僕を助けてくれた。
「もっと奥へ……」
僕は杏菜を後ろに押して、庇うように給食エレベーターの扉の前に自分の身体を置いた。ここにいるのが吸血病患者たちにばれたら、僕が飛び出して囮になろう。僕なら噛まれても感染しない。食べられたら死ぬだろうが……。
「ここか? あいつらの匂いがするな」
声が聞こえる。給食室に美田君が入ってきたようだ。
せっかく飛び出す覚悟をしていたのに、美田君の声を聞いたら決心が萎えてしまった。美田君に絶望的に強い力で組み敷かれた恐怖が蘇る。
「ちょっと、押さないでよ」
「あ……ごめん」
おもわず、奥に行こうとした僕と杏菜が抱き合う形になった。杏菜はまだ震えている。杏菜が僕にしがみついてきて、杏菜からいい香りがした。女の子って柔らかい……。
もしかしたら、これが最後の瞬間だろうか。次の瞬間には、二人とも彼らに食べられているかもしれない。僕は目の前にある杏菜の唇を見つめた。
「……さ、さっきさあ、美田君にキスされたんだよ。あれって見てた?」
「美田君にキスをされそうになったの?」
「と言うかされた」
「えー? なんで」
「それで、舌を噛まれた」
「舌を? うーん、舌には血管が多いから、感染の効率を考えて噛んだのかな? 舌下吸引って言ってね、薬を舌の下に入れて体に取り込む方法もあるのよ。……それか、アレかもしれない」
「なに?」
「美田君ってホモかも」
杏菜は気の毒そうに眉尻を下げて笑う。
それを聞いて、僕はさらに自分の顔を杏菜に近づけた。口直し……と言えば露骨だけど、そういうつもりだった。あの美田君の嫌な唇の感触を忘れさせてくれるのは、杏菜の唇しかない。どうせ死ぬのなら、こういう我儘を神様も許してくれるだろう。
「な、なによ?」
だが杏菜は許してくれない。僕にキスの気配を感じると、狭い空間で無理に顔をひねって拒否をした。
「杏菜、ごめんね……」
おもいっきり僕は傷付いたけど、謝る僕を見て気が変わったのか、杏菜は元の位置に顔を戻した。そして静かに目を閉じる。これは……。
「キ、キスしてもいいの?」
念のため、僕は確認した。
「ねえ、いいの?」
「……しらない、ばか」
「しらないってなに? なんか、かなりキスしちゃいそう。あとで怒らないよね。キ、キス……しちゃおうかなあ」
「翔太って、本物のばかかも」
「そんな……。キスしてもいい? って、聞いたらだめなの?」
「だめ」
「なんで」
「聞かれたら、断るしかないじゃない」
「そ、そうなの? でも、聞かないとわからないじゃない。ねえ、キスしてもいいの?」
「どうぞ」
とまで杏菜は言わなかったが、そういう感じで顎を上げた。
吸血病感染者たちの足音が近づいている。その音に押されるように、僕は杏菜と唇を重ねた。柔らかくて温かい……。すぐに唇を離されるかと思ったのに、杏菜が動かないから、僕はそのままの姿勢を続けた。もう、死んでもいいかも……。僕らは唇を重ね続ける。
「いる! この中にいる!」
ついに発見されたようだ。僕はバネ仕掛けのように給食エレベーターから飛び出した。
そして、すぐに給食エレベーターのボタンを押した。
僕は感染者の壁に突進した。その壁を突き破ると美田君が現れた。
「お前……」
「や、やあ美田君。こんにちは、こんばんは、おはようございます」
「もう一人はどうした」
「僕だけだったけど」
「ふん……。おい、その中にもう一人いないか」
給食エレベーターの扉は閉まり、稼働を示すランプが緑色に点灯している。ここは一階。上の階に杏菜を運んでいるのだ。その階の行き先を示す明かりを美田君が見ていて、僕はそれに気づいて美田君に体当たりをくらわした。
どっ!
と、僕と美田君はその場に倒れ込んだ。倒れた僕に吸血病患者が群がる。美田君は彼らを制した。
「こいつはいい。さっき俺が噛んだから、すぐに俺たちの仲間になる。逃げた女はみんなで食おう。四階まで逃げたはずだ。探せ!」
いっせいに吸血病患者たちが階段に向かって走り出した。美田君は、何か意味ありげな微笑みを僕に向けて給食室から出て行った。
なぜ僕を食べない……? 杏菜が言うように、僕のことが好きだったから?
背筋に寒気が走ったが、今はそれどころではない。一人残された給食室で僕は我に返った。給食エレベーターで杏菜が行った四階のボタンを押してその中に飛び込み、自分の身体を四階まで運ぶ。もしかしたら、彼らよりも早く四階に着けるかもしれない。
四階の給食室に到着すると誰もいなかった。配膳台や机が倒されて物が散らばっている。
そのとき、杏菜の悲鳴が廊下で聞こえた。僕は反射的にそちらに走った。廊下に吸血病患者たちが溢れている教室があって、その中に僕は突入した。
「杏菜……?」
が、すべてが遅かったようだ。杏菜はぐったりして美田君に抱き抱えられている。首筋に美田君が噛みついていた。
「やめろおおおおおお!!」
美田君に飛びかかろうとした僕の前に、吸血病患者たちが殺到した。僕は、誰彼かまわず拳を振るった。
「翔太!」
その立ち回り中に杏菜が蘇生した。
杏菜は美田君に平手打ちを喰らわせてその手を振りほどき、走って廊下に出た。僕もそれに続いて杏菜と一緒に走る。襲い掛かる吸血病患者たちを退けつつ、なんとか僕たちは保健室まで逃げることに成功した。急いで鍵を掛ける。
「ここだ! もっと仲間を呼んでこい!」
扉が打ち破られないように物を置いてバリケードを作ったが、いつまでこれがもつのかわからない。
「これじゃだめだ……」
吸血病間者たちの数が多すぎる。ここには食料もないから長くはいられない。
杏菜は首から血を流していた。
「ごめんね。杏菜、ごめんね……」
僕は涙をぽろぽろ流して謝った。結局、杏菜を守れなかった。
「どうして? 翔太が悪いんじゃないよ」
「でも、僕がもっとしっかりしていればこんなことには……」
首を消毒して止血しようとしたけど、なかなか血が止まらない。傷口を押さえている布はすぐに赤く染まる。それでも、なんとか包帯を巻いて止血した。
杏菜は首を押さえて、
「……噛まれたら、三時間くらいで後戻りできなくなる。その時間が過ぎれば、私も向こうの仲間になってしまう。そうなったら、もう私が私じゃなくなるから、翔太は一人で逃げなきゃだめよ」
「一人で逃げるなんて」
杏菜は首を押さえて、ふらつきながら血清を作る準備を始めた。
「血清をこれから作るの?」
僕は、まだ逆転の可能性があることに驚いた。どんどん状況が悪くなって、小さくなった炎が消えるだけだと思っていた。
「なんのために保健室まで逃げてきたと思ってるの? さあ、翔太はベッドに寝て。鉄格子だって扉だって、なにかの弾みで壊れるかもしれない」
「う、うん」
扉や壁を吸血病患者たちが唸り声を上げながら叩き続けている。杏菜は痛そうに首を押さえて作業をする。僕はなんの知識もないから手伝えない。杏菜の指示に従うことが今の自分にできることの全てで、僕は静かにベッドの上で横になっていた。
「袖をまくって腕を出して」
僕が袖をまくると、杏菜はそこを消毒して、前に出した大きな注射器とは違う小さめの針を腕に刺した。針には長い管が付いている。
「五百ミリリットルの血液を貰うから」
「そんなに?」
「うん。でも血の量は大丈夫よ。検査なしの一発勝負だけど」