一、奇病
一、奇病
僕らの町で、変な病気が流行っている。
「もう、この学校は終わりだ……」
クラスを見回して僕は嘆息した。
あっちの席も、こっちの席も、主の居ないその場所は、凍ったように黒く佇んでいる。今日は半数以上が出席してこない。
僕らの町……いや、僕らの町どころか日本中、そして世界中がもうだめだ。謎の伝染病に支配されている。
学校は臨時休校されるべきだけど、世の中が混乱するままに、打ち捨てられたように、まだ通常の授業が杉原第二中学では続けられていたのだった。
「それでは、授業を始めます」
担任の男性教師が疲れた声音で言った。
先生は若くて、いつもパリッとしたスーツを着て小奇麗だったのに、こんな世の中になってからスーツに皴が目立つようになった。無精髭で学校に来たりして、コロンの良い香りがして女子にも人気があったのに、今はその面影がない。先生の身体から、お風呂に入っていない匂いがした。
「先生、ちょっといいですか?」
僕は手を上げて先生に聞いた。
「なんだい? 相沢君」
「クラスの三十二人中、十七人が休んでいます。僕らばかり授業が進んでも、休んでる人が困ります」
「うん……。休んでる生徒は心配だけど、授業を進めても大丈夫だよ」
「どうしてですか?」
「休んでいる生徒は、もう戻ってこないから」
「は……?」
「病気だから劇的に治ることもあるかもしれない。でも、彼らはもう人間には戻れないんじゃないかな? 授業を進めても、問題ないと先生は思ってる」
「人間には戻れないって……」
僕には二歳年上のお姉ちゃんがいて、この病気にかかって市立病院に入院している。謎の伝染病は突然発症して感染経路もよくわかっていない。空気感染かもしれず、外出時にはマスクはもちろん、中にはガスマスクのような重武装をする者もいた。病気になった者の見た目が恐ろしい。皮膚はただれて出血して痩せ細る。身体から膿を流し、鼻を摘まむような悪臭を放つ。
「まるで死臭のような……」
そう言う人もいた。
ゾンビのような見た目となって、動いているが生きているようには見えない。何故か犬歯が発達して、それで吸血鬼のようにも見える。そのため、
「――吸血病」
と言って人々は恐れた。
死人。
ゾンビ。
吸血鬼。
見た目の印象は、どれもが当てはまる。患者たちは口から牙がはみ出して、ふらふらと死にそうでありながら目だけは獲物を狙うようにギラギラ光っている。
「……吸血病は治らないんですか?」
僕は途方に暮れて先生に聞いた。先生は、僕の知らない情報を持っているのかもしれない。
「うん……。先生の両親も吸血病にかかって苦しんでいるんだよ。治ってくれたら嬉しいけど、治った人なんて聞いたことがない。見た目はまるで映画の中のゾンビじゃないか。あんなふうになって、元通りに治るなんて先生は信じられないんだよ」
「先生の両親も……」
「いよいよ吸血病が悪化すると、人に噛みついてくるようになるんだよ。噛みついてくるっていうのはなんだろうね、人間がまだ獣だったころの本能が出てくるのかな? まあでも、噛みつかれると病気が移るっていう噂があるけど、それはたぶん大丈夫」
先生は、そう言って首筋や腕の傷を僕に見せてくれた。噛まれた跡が、生々しく皮膚に残っている。
「だ、大丈夫ですか?」
「これ、みんな先生の両親にやられたんだよ」
僕はぞっとした。僕のお姉ちゃんも、口を真っ赤に開けて僕に噛みつこうとしたことがある。発達した犬歯が牙のように見えて、豹変したお姉ちゃんに驚いた。
先生は、教室を静かに歩いて噛まれた跡をほかの生徒にも見せた。教室の奥に歩いて行った先生の背中を見ると、ズボンに入れ損ねたシャツがだらしなく背中からはみ出している。以前なら、こんなことはなかったのに……。
「痛いけど、なあに慣れっこさ。先生の両親もそろそろ入院させないとだめなんだけど、どこの病院もいっぱいでね……。さあ、授業を始めよう。教科書、三十八ページ」
教科書を開く紙の擦れる音が教室に寂しく響く。僕も教科書を開いたけど、先生の犬歯が少し口からはみ出ていたのが気になった。
四時間目の授業が終わって給食の時間となった。
今週の給食当番は、僕と美田進君。ところが美田君が、いつまでも給食を取りに行こうとしない。
「美田君、早く給食を取りに行ってきてよ。美田君の番だから」
「俺の……?」
「早くしないと、三年三組が飢え死にしちゃうよ」
僕は無理に笑顔を作った。なにかにつけて怠けようとする彼の性格を知っていたけど、こんなことで揉めたくない。ただでさえ、教室の雰囲気が暗いのに。
「さあ、早く行ってきてよ~。うふふ……」
「俺の番じゃないし」
「はあ?」
「俺の番じゃないし!」
「…………」
下手に出てればツケ上がる。僕はちょっとキレそうになった。だがしかし、ここは我慢して話し合いをしよう。
「あ、あのさあ美田君、僕と君が今週の給食当番だよね? 昨日は僕が給食を取りに行ったから、今日は美田君の番だよ」
「俺、昨日のことなんて覚えてねーもん」
「昨日の給食は、サバの竜田揚げと、ほうれん草のおひたし。このおかずなら普通はご飯だけど、昨日はパンだった。それについて、『ご飯の方がいいよね』って僕が言ったら、『普通パンだよ』って美田君は言ったよね?」
「あのおかずならパンが普通だよ。ただでさえパン食が多いんだから」
美田君は興味なさそうに自分の席で頬杖をついてそっぽを向いた。
「そうかな? でさあ、その竜田揚げもパンも僕が給食室から持ってきたんだよ。こうやって、給食カートを慎重に押してさ。昨日は僕だったから、今日は美田君の番だよ」
僕は給食カートを重そうに押す真似をした。
「持ってきたのは俺だったはず……」
平然と美田君は嘘をつく。
「嘘だ! 持ってきたのは僕だ!」
「俺だよ」
「てめえ……」
さすがにキレそう……。
「おーれだもーん」
美田君は絶対に動かない意思表示か、自分の机にしがみついた。
「美田君?」
僕は呆れた。もういい、今日も僕が給食を取りに行こう。こんな怠け者の相手をしてイライラするのなら、さっさと仕事を済ませた方が心に波が立たない。そういうわけで、僕は今日も給食室に給食を取りに行く。
今日の給食は、三角パックの牛乳と、菓子パンが一人につき二つずつだった。今日はこれだけのようだ。
「これだけか……」
それでも、給食が用意されるだけまだいい。社会は吸血病で混乱している。給食が用意されなくなったら本当の終わりだろう。
三年三組まで給食を持って行こうとしたら、給食のおばさんに僕は呼び止められた。
「あなたが三年三組の美田君?」
「みたいなものですね」
「そう……」
給食のおばさんは、マスクと衛生帽の間の瞳を細めて僕を見つめる。
「これだから。この、カレーパンがそうよ」
「カレーパン?」
おばさんは、僕にビニール袋に入ったカレーパンを手渡した。
「クラスのみんなには、アンパンとクリームパンをひとつずつ。あなたは、そのカレーパンも食べなさい」
「三つも食べろって?」
「うふふっ……。食べられなければカレーパンだけにしてもいいわよ。でも若いんだから、三つくらいペロっといけるでしょ? がんばってね」
おばさんは、僕の腕を優しく叩いて奥へ消えた。なぜかウィンクしていたような……。
まったく、世の中というのはグズッた方が得だ。美田君は給食室でゴネて、いつもこういう余禄を得ているのだろう。聞き分けのいい子は目立たない。現に僕のお姉ちゃんは控え目で、何でも僕に譲るから、
「あまり物を欲しがらない子」
というふうに両親に認識されている。勢い、ストレートに物をねだる僕ばかりが家では得をして、お姉ちゃんにはいつも悪いような気がしていた。最近では自転車を僕は買ってもらったし、部屋のテレビも大型の物に買い替えてもらった。自転車もテレビも、僕のお古をお姉ちゃんが使っている。
「うまいよこれ!」
僕はその場でカレーパンを頬張った。クラスメイトに変なふうに思われるから、この場で食べた方がいい。カレーパンは、具のカレーが隅々まで広がってとても美味しい。香ばしい匂いが口中に広がった。
教室に戻って驚いた。配膳台の準備がまだできていない。今日はパンと牛乳だけだから、直接配ってもいいけれど、僕は美田君に当てつけるようにガシャガシャ騒がしく配膳台の準備を始めた。さすがに、美田君も手伝いに来てくれるだろう。
「あいつ……」
しかし、美田君は全く反応しない。
さらに、クラスメイトが給食を受け取るために配膳台の前に列を作ると、美田君はなぜかその列に並んでいた。手伝う気などさらさらない。
美田君が僕の前で手を出した。
「はい、美田君の分」
本当はアンパンとクリームパンを配るところ、僕はアンパン二つを彼に渡した。今日は出席した人数分だけしかパンを貰ってないから、誰かがかわりにクリームパン二つにしなければならない。僕は静かに自分の分をクリームパン二つにした。クリームパンは大好物だ。
アンパンは丸い。クリームパンは雲の形。それに気づきそうなものなのに、美田君は二つ目のアンパンに噛り付いて、自分のものだけがアンパン二つになっていることにようやく気づいた。
「俺だけアンパンが二つだよ!」
頓狂な声で周りに言うが、みんな苦笑いをするだけで相手にしない。不満そうに二つめのアンパンに噛り付つく美田君を見て、僕は溜飲を下げるのだった。
「よし、食器を返してくる。明日は美田君が給食を取ってくる番だから忘れないでよ」
給食の時間が終わって、僕は美田君に言った。
「わかってる」
「その配膳台は、ちゃんと拭いてから片付けといて」
「いちいち……」
美田君は不満そうに配膳台を片付けだした。ぶつぶつ文句を言って、そんな美田君を置き去りに、僕は給食室まで食器を返しに行った。
ところが教室に戻って来たら、配膳台がまだ片付けられていなかった。どこかに逃げたのか、美田君の姿がない。
「美田君は、倒れて保健室に運ばれたよ」
クラスメイトがそう言った。
「倒れた?」
すぐに伝染病の発症だと僕は思った。仮病を使うほど配膳台の片付けが嫌ではないだろう。最近、保健室に運ばれて、教室まで速やかに戻ってきたものは誰もいない。あんなやつだけど心配になった。
「どんな感じだった?」
美田君が保健室に運ばれたと言った市川杏菜さんにその様子を聞いてみた。
「気持ちが悪いって言ってたよ。お腹を押さえて」
「それで?」
「わかんない。すぐに先生が保健室に連れて行ったから」
「そうなの……」
まさか、アンパン二つがいけなかったわけではないだろう。僕は、まだ出されたままの配膳台を片付けだした。それを市川杏菜さんも手伝ってくれて、頼みもしないのに布巾を用意して配膳台を拭いてくれる。
僕は感動した。女の子はこんなに優しいんだ。美田君なんかとはまるで違う。市川さんは美人で前から気になっていたけど、心持ちまで綺麗だ。
「なによ」
僕の視線に市川さんは気付いた。
「い、いや……。美田君は給食当番なのに何もしないのに、言われなくても手伝ってくれる人がいるんだなあって」
「べつに、きまぐれだよ」
市川さんはポニーテールを弾ませて、照れ臭そうに笑っていた。
五時間目は数学だったが、もう授業どころではない。
教室にも救急車のサイレンが聞こえてきた。保健室の美田君を搬送するために来たのだろう。吸血病患者は若年層に多く、学校から毎日のように病院へ運ばれる者が出る。今日は特にその数が多く、救急車がシャトルバスのように学校と病院を往復しているありさまで、校長から校内に緊急放送があり、今日の授業を終了して、生徒は速やかに帰宅するようにとのことだった。
「もう、この学校は終わりだな……」
僕はまた呟いた。
学校で感染するのでは……? そう保護者で考える者も多く、僕の両親も、
「もう学校へは行かなくていい」
と、近頃よく言う。
僕が家に帰るとお父さんも帰宅していた。
「ただいま。お父さん、もう会社終わったの?」
「翔太か……」
お父さんはリビングのソファに座り、ちらりと僕を見て、すぐに目線をテレビに戻した。テレビでは子供向けのアニメが放送されている。
「それ、見てるの?」
聞こえなかったのか、お父さんは少し乱れた髪で、眼鏡のずれた視線をテレビから離さない。
「お父さん、今日は病院へ行ってきたの?」
「……うん? ああ、未希の病院か。行ってきたよ」
「お姉ちゃん、どうだった?」
「もう少しだな……」
お父さんはテレビに視線を戻す。
病院は吸血病患者だらけで、病室に入れないものが廊下にはみ出して治療を受けているらしい。子供の感染率が高いから、僕はお姉ちゃんのお見舞いに行くことを止められていた。
「もう少しって退院が近いの?」
「もう、学校へは行かなくていいからな」
お父さんはお姉ちゃんの症状のことには触れず、それだけを言った。
僕は涙がぽろぽろ流れてくるのを止められなかった。
「お姉ちゃん……死なないよね?」
「翔太……」
お父さんは、僕の前に来て崩れそうな僕の両肩を抱いてくれた。
「いいか翔太、変な病気が流行っているが、すぐに特効薬が作られて状況が一変する。お姉ちゃんも良くなる。だから、お前はそれまで外に出ないで家の中でじっとしているんだ。お前まで病気になったらどうする。もう学校へは行かなくていい。誰から移されるかわからないんだから」
お父さんはそう言って、はっとしたように僕の身体から手を離した。
「お父さん、大丈夫?」
「あ、ああ……。ちょっと風邪を引いて会社から早めに帰らせてもらったんだ。風邪だってお前に移るといけない。お父さんは、もう少しテレビを見たら横になるよ」
お父さんはソファに力なく座った。
「そのアニメ面白いの?」
「……ああ、おもしろいよ」
お父さんは、アニメの放送をしているのに気づいたようで、テーブルのリモコンを取ってニュースに変えた。なにか考え事をしているようで表情はうつろだった。
その夜、部屋のドアを開ける音に気づいて僕は夢の中から生還した。
「だれ?」
と言おうとしたけど、まだ身体が眠っていて声にならない。誰かの影が部屋に侵入してきて、よく見ると、お母さんだった。
「……お母さん?」
僕はベッドの明かりを点けた。
するとそこに、裂けるように大きく口を開けたお母さんがいた。
「うわっ!」
思わず僕はお母さんを突き飛ばした。床に大きな音を立ててお母さんは物のように転がり、すぐになにごともなかったように起き上がった。
「お……お母さん、こんな時間になに?」
目覚まし時計を見たら午前一時二十分。
「風邪を引かないように、あなたに布団をかけてあげようと思ったのよ。今は病院に行くのも怖いから、気をつけないとだめよ」
いつもの優しいお母さんの声だった。
お母さんが帰ったあとも、あの蛇が食らいつくような恐ろしい顔が頭から離れない。謎の伝染病に感染すると、暴力的になって人に噛みつこうとする。先生は噛みつかれても感染しないと言っていたけど、本当のところはわからない。僕は恐怖と心配で、がたがたと身体が震えてしまった。
そのまま夜明けまで眠れなかった。でも、いつの間にか眠ったようで、気付くと午前九時だった。起きようとしたけど、寝不足で身体が重い。それに、お父さんにも昨日、学校へはもう行かなくていい、と強く言われていたから、今日は休んでしまおうと布団を被った。
「あれって、夢だったよね……」
昨夜のお母さんのことを夢と思おうとしても記憶が鮮明でとてもそうとは思えない。
僕は、お昼になってようやくベッドから出てリビングに行った。お父さんとお母さんがなにか話し合っている。僕は身を隠してその話を聞いた。
「――隣の倉見さんはだめだ。とっくに誰かに噛まれて自分の獲物を探しに行ってるよ」
「まあ残念。私は古い友達を訪ねて噛みついてやろうと思っているの。自分の友達は早く自分の仲間にしたいわよね」
「それはいい。遠くの人はきっと油断している。そんなやつなんて簡単に噛みつける。人間の血は美味しいからなあ。おっといけない、よだれが出てきた」
「あらいやだ、私もよだれが。ああ、早く噛みつきたいわ」
誰かを噛む相談……?
「翔太? 起きたのか」
階段の影に隠れていた僕は、お父さんに見つかってしまった。
「お……お父さんたちも吸血病に感染したの?」
「まあ、こっちにきて座りなさい」
意外と穏やかな感じでお父さんは言う。
僕は今のお父さんたちの会話で、感染者は人に噛みついて病気を移すという噂は本当だと思った。
試しに、
「僕を噛みたい?」
と、僕が腕を差し出すと、二人とも口元を緩く開けて不気味に破顔した。しかしまだ理性が残っているのか、すぐに冷静な表情に戻って、お父さんは感染を僕に黙っていたことを謝った。
「翔太、黙っていて悪かった……。お父さんもお母さんも吸血病に感染してしまったんだ。しかし、感染すると凶暴になって手におえないと聞いていたが、かかってみて分かった。意外と心は平静だ。お父さんたちは普通に生活できるから問題ないよ」
お父さんはそう主張した。
「……お父さんたち、さっき誰かに噛みつく相談をしていなかった? お父さんもお母さんも普通じゃないよ。お医者さんに診てもらわないと」
「大丈夫よ」
お母さんが僕の顔を見て微笑む。隣で父親も穏やかにうなずいた。
「でも、噛みたいんでしょ?」
僕が袖をまくって腕を露出すると、二人とも大きく口を開いて今にも飛びかからんとする姿勢になった。僕は、さっと袖を下げて腕を引いた。
「ほ、ほら! おかしいよ!」
「大人をからかうもんじゃない!」
お父さんは露骨にがっかりした色を浮かべて不機嫌そうに横を向いた。
それから、僕は部屋に閉じ籠って生活するようになった。テレビ放送はいつの間にか止まり、パソコンからネットに接続はできたけど、どのサイトも更新が止まり、掲示板などに新しい書き込みを見つけても、
「助けてください」
という内容のものだった。
「僕も助けを待っています」
と、僕も書き込んだ。
助けに行く……などと無責任には言えない。
助けて欲しいのは僕の方だし、誰かが助けにきてくれることを期待して、掲示板には必ず自分の住所と名前も書き込んだ。
夜に吸血病患者たちは活動するのか、暗くなるとあちこちで悲鳴や雄叫びのような声が聞こえた。僕は、夜になると机の下に作ったバリケードの中に潜る。そこで毛布を被って両耳を塞いだ。体育座りのような窮屈な格好になるけど、その狭い空間の方が安心できた。朝までその姿勢で僕は眠るのだった。
部屋のドアには鍵が付いている。けれどそれだけでは不安で、本棚を引き摺ってドアの前に置くようにした。しばらくこのまま部屋に隠れていよう。水と食料も確保してあるから、多少はここで生き長らえることができる。僕のできることは限られていて、部屋の中でそんな小さな工夫を重ねるしかしょうがなかった。
夜中になると、きまって部屋の外に両親らしい足音がした。僕が聞き耳を立てていると、その足音の主は部屋に容易に入れないことを知って諦めて帰る。しかし数日すると、ドアを殴るような音が響くようになった。
たまらず、
「だれ?」
と聞くと、
「開けなさい!」
と、割れるように叫ぶお父さんの声が響く。
「お、お父さん? 怖いからもう扉を叩くのはやめて。話があったら昼間に聞くから」
「開けなさい! お前はどうしてそうなんだ。お父さんたちの仲間になるのがそんなに嫌なのか!」
お父さんは渾身の力でドアを殴り続ける。僕はどうにかなってしまいそうだった。
部屋に籠って二週間が過ぎた。ネットどころか、もう電気も止まっていて、いよいよ外の世界がどうなっているのかわからない。夜中になると、決まってお父さんとお母さんが部屋の外で騒いだのに、この数日はそれもない。
「死んでしまったのだろうか……?」
心配だったけど、僕は恐ろしくて部屋から出られない。
餓死するまで部屋の中に居よう。そう思っていたのに、食料が減って最後の時が近づくと、開き直る気持ちが出てきた。どうせ死ぬなら、最後に家の中と外の世界がどうなっているのか見てみたい。
僕は部屋の外に出る決心をした。家族以外となら戦うつもりで、少年野球の時に使っていた金属バットを持って行く。
最後の最後にとっておいたチョコレートも食べて、いよいよ外に出ようとしたとき、ふいに部屋の明かりが点いた。もしやと思ってテレビのスイッチを入れると、
「こんばんは、ニュースの時間です」
と、アナウンサーの声が聞こえた。
待望の外の話が聞ける。僕は身を乗り出した。
「なんだ、これは……」
しかし、アナウンサーの様子が変なのだ。男性アナウンサーの隣りに若い女性のアナウンサーが座り、天気のことを話しているのだが、二人とも牙のような犬歯が唇からはみ出している。女性アナウンサーの口元には血のようなものが付いていて、それを拭わずに、頬のこけた不気味な笑顔で話し続ける。すぐに僕はテレビを消した。
「やつらに占領された……」
もう外を見に行く必要はない。僕は部屋から出るのを止めた。籠城の武将が撃って出る気概でいたけど、その気持ちも萎えた。もう世の中はゾンビのような吸血病患者たちに乗っ取られている。僕はここで静かに人生を終えよう……。
静寂の時が流れた。
やがて、カチャカチャ……と、ドアノブを捻る音が聞こえて身構えていると、ノックの乾いた音がした。
「だ、だれ……?」
「わたしよ」
小さな声で返事が返ってきた。お姉ちゃんのものだ。
急いで障害物を退けてドアを開けた。そこに、青白い顔の姉が立っていた。
「お、お姉ちゃん」
顔は血と垢で汚れ、唇からは大きな犬歯がはみ出している。ひどく痩せて、とても生きているようには見えない。お姉ちゃんは僕の顔を見て口角を上げた。以前より口が横に大きくなったようで、口裂け女が笑ったように見えた。ただ、襲ってきそうな気配はない。恐ろしい見た目だが、理性的なものを感じた。
「お……お姉ちゃん、帰っていたの?」
「うん」
治ったの? と聞こうとしたけど、それは愚問かもしれない。身体中から血を流して、膿なのか何なのか、異様な匂いがする。
「あなたに電話よ」
「電話?」
首をひねりながらも部屋を出た。そして階段脇の電話に出ると、担任の先生からだった。
「――みんな来てるのに、どうして君だけ学校に来ないのだ?」
そう先生は言った。
「みんな来てる……? 学校にみんな来てるんですか? 授業もやってるんですか?」
「おかしなことを言うなあ。学校にはみんな来るものだ。授業も毎日やるものだ」
「そうですけど……」
午後の八時半からに登校時間は変わったという。何度も聞き直したけど、夜の八時半で、以前とはちょうど一回り違う時間のようだ。
「遅刻しないように」
先生はそう言って電話を切った。
リビングに行くと、
「まったく、引きこもりもたいがいにしろ」
と、お父さんに叱られた。
お母さんは、
「お腹が空いたでしょう」
と料理を出してくれたけど、なにか得体の知れない肉をただ黒く焼いたような料理で、皿やテーブルも汚れている。それをお姉ちゃんとお父さんは鷲掴みで美味しそうに食べ始めた。僕はどうしても食べられなくて、
「食欲がないから……」
そう言って自分の部屋に帰った。みんなに凶暴性は見られなかったけど、明らかに様子がおかしかった。