完璧主義者の不完全な愉悦の林檎
文化祭を直前にして、美術部の作品が真っ黒に塗られるという事件が起きた。颯太が友達からそんな話を聞いた。野次馬根性から、僕らのバンドは本番前日なのにも関わらずに練習を休んで現場を見に行った。
「おい、見えたか」
後ろから颯太が大声で話しかけてくる。あたりは同じような考えをした人々で混み合っていた。返事が無いのを返事と理解したか、再び前を向いて進んでいく。押されるようにして前列に出た時、唖然として言葉を失った。
「___彩花」
解りきった答えだった。彼女は彩花といって、同じクラスで、美術部に入ってて、図書委員をやっていた大人しい女の子で、僕は彼女を知っているのだから。
「直弥くん?」
自分の作品を前にして泣き崩れている彼女と目が合い、途端に恥ずかしくなった。それもそうである、誰がなんと言おうと他人の不幸を楽しみに僕はここに来たのだから。後ろから顔を出した颯太も同じことを考えてか、黙っていた。僕は手を差し出して言った。
「とりあえずここから離れて、向かいの部室に行こう」
唖然としていたが、強引に彼女の手を引いた。しゃがみこんでいた彼女へと向けられていた僕の目線は、彼女が立ち上がると同時に上を向き、そして壁に飾られた作品が目に付く。直ぐに目を逸らした。これが見たかったのだろう、と僕を責める様な威圧感。彼女を苦しめる野次馬の一人になった罪悪感。そして覆い隠す黒。塗りつぶされた間から辛うじて青い空や黄色い向日葵が見える。それは、まるで彼女の絵は下絵でしかないと主張しているようで。
「邪魔です」
贖罪。自分自身への償い、自己満足。ただここで彼女が泣いているのを見たままでは居れない、だなんてのは都合の良い理由で、自分がここに来た自己嫌悪から野次馬を退ける。ほんのさっきまでその一員だったのにも関わらず。
部室に着く頃には、彼女は既に泣き止んでいた。手を繋いでいる事がなにか恥ずかしくて、けどこのままで無ければならない気がして、そのままでいた。窓から流れる風が気持ちよくて、初夏を感じた。少しだけ、青春だな、と思った。
◇
「ごめんね、助けてもらって」
悪いのはこっちの方なのに。責められないと許されないのに。謝る彼女に僕は言った。
「いや、僕も野次馬みたいな事をして___ごめん」
反らしていた目を彼女に向けると、彼女は微笑んで、安心して僕も笑った。
「やっぱり、優しいんだね、直弥くんって」
「そんなことないよ。向こうに行ったのも、本当はただ絵が気になったからだしさ」
「それでも、だよ」
一人納得する彼女。今度は満面の笑みで僕を見て、どこか気恥ずかしくなった。やっぱり、彼女は笑ってる顔が似合ってる。ふと、そう思った。途端に、ガタリ、と扉が開く音がする。
「邪魔して悪いな」
颯太がそう言いながら戻る。その手にはさっきの絵画があった。
「あ、私の絵___」
「あのまま、晒しものにされるのもどうかな、て思ってね。取り外して持ってきた」
彼なりの気遣いだろうか。おそらく彼女に対してではなく、彼のこだわりからなのだろう。
彼女は知らない。狂気染みてる程に完全を求める彼には、きっと不完全となった彼女の絵画が気に入らなかったのだろう。そして、その理由だけで絵画を持ってきたということを。僕はベーシストとしての彼は好きだった。余計なことをせず、確実にリズムを刻み、まるで機械のようだ。それが人間性を表しているのか、人間性がそれを表しているのかはわからないが、彼は完璧主義者であった。テストだって95点でも98点でも満足せず、いつだって100点を目指して、これから棺桶までの道筋も決めているであろう程に。そんな彼だからこそ、きっと彼女の絵画が許せなかったのだろう。
「ありがと。けど、これ___どうしよう」
力なく呟かれる。彩花の疑問は尤もであった。滅茶苦茶にされた作品を明日までに修復できる訳が無い。俯きになる彼女の表情は、見なくても解った。
「んじゃさ、新しくみんなで作品を作ろうよ」
僕は颯太のその提案に驚愕した。こいつのことだから、彼女に絵画を渡して追い出し、明日のライブの練習をするのだと思っていた。それだけに意外であったし、彩花も彼からの申し出に驚いていた。
「けど___悪いよ。バンドの練習とかあるんでしょ?」
「それはもう完璧だからね。今日までに備えて頑張って練習してたんだ、大丈夫」
確認するかのように僕に目線を送る。勿論お前ならやるよな、とでも言うようだった。
「そうだな、今日で何か作品を作って提出出来るようにしよう」
「せっかくの文化祭だもんな、何かやらないと、さ」
「___うん、ありがと」
やっぱり、彼女は笑ってる顔が似合ってる。ふと、そう思った。
「あれ、お前ら何やってんの?」
遅れながら現れたドラマーの俊介がそういった。それも当然、と思った。軽音楽部の部室で油絵を描いているんだから。
「あぁ、これはな___」
颯太が説明を始める。不幸にも彼女の作品が悪戯されたことや、美術部の部室で書き直せればよかったのだが、既に明日の発表に向けて絵画が飾られる為に作業が出来ない為にここで作業しているのだということを。
「よーし、そういうことなら」
俊介がそう言って腕まくりをする。不良のような外見をしている彼だが、その明るい性格からみんなから好かれ、人見知りする彩花とも打ち解けていた。一見全く無関係な二人だが、奇妙な縁で紡がれた。
今、どれ程頑張っても油絵は完成しない。乾燥にも時間を用いるからだ。だが作品を無提出のまま文化祭を終えるのは惜しい。だけど僕らはこうして4人で油絵を囲んでる。手伝っているだなんて事は無く、彼女が前に書いた下書きを塗るのを見ているだけなのだが、それでもみんなで作品を作っているような気がして、何よりも楽しかった。
◇
「みんな、ありがと!」
外は暗く、遅い時間を知らせているかのようだった。部室を閉め、帰り道へ向かう。深く頭を下げながら彼女は言った。
「いいって。いい気晴らしになった」
颯太がそう返した。彼は既に練習する必要が無いために余裕である。それに相対するのが俊介で、手伝う傍ら、というよりも練習する傍ら、手伝っていた。
「まぁなるようになるさ」
そんな俊介を慰めるかのように言う。もっとも彩花を気にさせない為であったが___
「そうだな、本番は明日だ、頑張るしかねーよ」
それに気付き、明るい返事をする。そうだ、こいつはいつもこんなやつだった。
「楽しみにしてる、聞きに行くからね」
彼女がそう言って、僕と目が合って、何故か恥ずかしくなって、それで俊介が小突いてきた___一体何なんだよ、と思ったけど、それについては自分が一番わかってることで。
「それじゃ、また明日」
電車の改札へと消えていく彼女を僕ら3人は見送った。
「にしても、だ。あんなことをしたのは誰なんだろうな」
僕がそう呟く。彼女が帰った今だからこそ、だ。今日の作品にも真摯に取り組んでた彼女は、きっとあの作品を作り上げる際にも同じように、もしくはそれ以上に書いていたのだろう。それを知り、尚更犯人への怒りが沸いてきた。
「そうだな、全くくだらない事をするやつもいるもんだ」
大した興味を示さずに颯太は言った。一方、俊介は同じように苛々しているようだった。
「そんなヤツは絶対に許せない」
一見不良みたいな外見しているが、本当は素直で、愚直で。そんな俊介の言うセリフは漫画みたいだったが、彼が言うとサマになっていた。
「何もともあれ、だ。明日のライブは全力を尽くそう」
颯太がまとめる。それもそうだ、彩花の絵は一件落着して安心したのである。なら明日は頑張るだけだ。背中で抱えるギターが、ずっしりと重くなり、意識が高まったような気がした。家に帰ったらギターを練習してから寝よう、その決心した。
「それと、明日の朝は少し練習しようか」
俊介が気まずそうな顔をする。朝練には必ずといって良いほど参加しない___出来ないのだ。そんな彼を知ってか知らずか、颯太はそうまとめ、解散した。
「気が重いな」
どうせ来ないくせに、と思いながら僕も帰路を辿った。だがベースとギタボの二人であわせて練習できるなら好都合だ。左手を見るとまめが出来ていた。
◇
朝、部室へ向かうと颯太が既に中にいた。彼は僕に気付き、スタジオのように分厚い防音扉がゆっくりと開き、招き入れた。僕が扉に立て掛けてある絵画に気付かず開いてしまう前に、絵画を見ていた彼が気を利かせてくれたのである。
「機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、サモトラケのニケよりも美しい」
「なんだそれ」
「未来主義創立宣言だ。随分昔にこんな事を言った人が居たらしい」
唐突に彼は言った。だからどうした___そんな表情をした僕に気付いたか、まぁ待て、と目線で合図する。まるで舞台の邪魔をするな、とでも言うように。
「まぁとにかく聞けって、これから大事な話になるなんだから。それに悲劇のヒロインが現れるまでの、空白を埋める為だけの三文役者の繋ぎだと思ってくれれば良い」
「______?」
「芸術が一番美しくなる時っていつだと思う?」
「そりゃ完成した時だろ」
もったいぶる颯太へ溜め息をつきながら返答する。何言ってるんだ、こいつは。そしてその返答に対して颯太が溜め息をつきながら返した。
「なら花が一番美しいのは?」
「咲き誇った時かな。満開の姿だよ」
「俺はね、散っていく姿が好きなんだ。わかるかな。花が死んでいくんだ、そしてその姿を俺が見て、それを独占するんだ」
わからなくもなかった。咲いている満開の花。それは云わばみんなの幸せで。散っていく姿は僕だけの知る姿であり、所有感があった。
「けどさ、その散る姿も自分以外が見てる訳だよな。みんなの独占って訳か?」
「そこだよ」
嬉しそうに言う。まるで僕がそれに気付くのを知っていて、そしてそれを待っているかのように答える。
「満開も、散る姿も、美しい。それは確かだ。けどね、どっちも決定的なものが無い」
その表情は深刻な顔へと変わり、続ける。
「指摘の通り、独占的な要素が無いんだよ。桜だなんて毎年見れるし、例え一人で散る桜を見ても、それは有り触れたもののひとつでしかない___その瞬間は二度とない。そんな当たり前のことを踏まえてもね」
「そもそも、二度ある瞬間なんて無いんだよ。だったら全てが美しい。それでいいよ」
そもそも部活をしにきたのだ。ギターを背中から下ろして投げやりに答える。
「そこでさっきの独占だよ。独り占めしたいんだ、その美しさを。けどそれは誰も見てないものを見る、だなんて程度のものでは無い。それを自分のものにしたいんだ」
「花を部屋にでも飾って散るのを見てればいい。くだらない」
「ふむ___なら、芸術が一番美しくなる時っていつだと思う?」
先ほどと同じ質問。だが、同じように答えようとした時に、違和感を感じる。それを代弁するかのように颯太は言う。
「花は咲いて散る。それでサイクルは完成して、毎年繰り返している。だが芸術はどうだろうか。完成し得ないんだよ、直弥。完成された作品、というのは、手を止めたということでしか無い。そして手を止めたという事が完成されたという事なんだ」
「んじゃミロのヴィーナスは、レオナルド・ダ・ビンチのモナリザは___」
「未完成なのさ。だから完全では無い。そもそも完全な作品だなんて不完全な俺達からは生み出されないんだよ、永遠に。けど芸術を終わらせる事なら出来る___それこそ散る桜のように。そしてそれは、二度と作れないものの破壊という独占。更には完成させた達成感、上書きする優越感」
不完全___その言葉から、ふと聖書を思い返す。アダムとエバは、神から禁じられた木の実を蛇に唆されて食べ、不完全な人間となった。
「さらに、だな。美しいものを汚し、破壊して自分に近づけ、そしてその残骸と同化しながら自分は美しい存在なのだ、と味わう満足感や安心感。そしてそれに愉悦を感じるんだ」
「気が狂ってる、訳がわからない」
「だが簡単な事だ、今にわかる」
そう言って彼は僕に向かって手招きをした。近寄れという事か、だが颯太の近くには傍には何も無い。それでもそれに従って距離を縮めるように前へ進む。
「そうだ、それで後ろを見ろ」
◇
彼が見据えていたのは僕ではなく、分厚い扉の向こうにいる彩花だった。高い小窓から背伸びをして覗き込んでいる。大事な話をしていると思ったのか、彼女はそこで待っていたのだろうか、颯太の合図に反応して、ゆっくり扉が開く音がした。
「あ___」
ガタっと立て掛けて置いた油絵がこちらに向かって倒れる。短い悲鳴のような声。彩花が目を見開き、倒れる絵画を掴もうと手を伸ばす。だが届かない。
バタリ、と絵は地面に平行となる。裏からは真っ白い無地のキャンパスがフレームとなる木の間から見えた。彼女はそれを慌てて持ち上げ、再び表にする。
「なんて___残念な」
颯太が後ろからそう呟く。いつも通りの声で、ただどこかはかなげに。彩花が聞いたら残念な声をしている様に聞こえたのかもしれない。だが僕には楽しんでいるようにしか聞こえなくて。白々しい、と思った。彼女がやがて入ってきて、絵画に気付かずに倒してしまう事を知っていてやったくせに___何が、残念、だ。だが彼の口調は凄く真面目で、もしかしたら本当にうっかりしてしまったかのようで。
彩花は希望から絶望へ移り変わり、より高い所から落とされたような、格別なる辛さを浮かべている。
「まだ文化祭まで時間はある、なんとか手直ししてこの作品を展示しよう」
振り返ると颯太はそこに居なくて、倒れた絵画を見る唖然とした彩花の隣で座っていた。僕は半乾きの滲んだ油絵を見ながら颯太が彼女を慰めているのを見ているだけだった。まるでTVの先の出来事かのように、そこに何か隔たりのようなものを感じて。それもその筈だ、さっきまで破壊衝動について述べた彼が、今度は彼女を慰めているんだから。どうすればいいのかわからず動揺する僕に気付いたのか、颯太がこっちを向いて笑った。その態度に、僕は怒るどころか、まるでそれが舞台のように思え、それなら悪くないな、と感じた。やっぱり、彼女は笑ってる顔が似合ってる___目の前の彩花の泣きそうな顔を見て確信したが、同じように絶望に溺れる顔も、それ以上に似合っていた。そしてそれを独占したい、とも高まる胸が鼓動となって僕に伝える。
真っ白な背景に浮かぶ林檎は、まるで禁じられた木の実のようで。もし、そうだったら颯太は蛇だな、とふと思った。
◇
こっちを見た颯太に、どんな表情を返したのかはわからない。覚えているのは、俊介が珍しく朝練に来た為にこの惨状を目撃したこと、慌しく絵をどうにかしようとしたこと、ライブは案外なんとかなったこと、みんなで協力して仕上げた彩花の作品が好評だったこと___全てが欠片でしか記憶がなかった。結局はみんなで仲良く終わって、楽しく終わった文化祭だったと思う。ただ、それが普通の文化祭で終われない点があるとするのならば、完全を求める故に不完全に縛られる誰かが暴走して、ある学生の絵画が汚されることによって完全となって彼の手中になり、再び作り上げたものの目前で二度目の破壊をする事で、希望から絶望へと変わる少女を見て楽しみ、美しい作品を破壊することによって快楽を得た、という、単純にそれだけのことだった。
それ以来、バンドは自然と解散され、元々別のクラスだった僕は颯太とも俊介とも話すことは無くなった。彩花とはあれから話すようになり、今では付き合っている。どちらからかは覚えていないし、それについて興味も無かった。ただ、僕は彼女は笑ってる顔が好きで、そしてそれ以上に絶望に溺れる顔が好きで、もっと間近で見たいと思った。その為にもっと彼女が知りたかった。
今では颯太の言っていた事___美しいものを汚し、破壊して自分に近づけ、そしてその残骸と同化しながら自分は美しい存在なのだ、と味わう満足感や安心感、快楽___が理解できるような気がする。
「直弥くん?」
隣にいる僕を覗き込み、彼女は呼びかける。あぁ、と返事をする。彼女の心配そうな顔を安心させるように微笑んで見せ、前を向いて彼女の油絵を見上げる。アルブレヒト・デューラーの「アダムとイブ」を模写したものだ。
「凄く、良く描けてる」
本心からの言葉だった。彼女は元々上手く___そのせいで目立ってしまい、被害にあったのだが___さらにこの一年で上達していた。この絵は最後の文化祭で何を書こうか、と相談した彼女に、僕が駄目元で彼女に頼んだものだった。彼女も去年の文化祭の林檎の繋がりでこの絵を書いたのだと思っているのだろう。だが僕には、その絵のアダムが自身に、イブが彩花に、蛇が颯太に、林檎が愉悦に見えた。
完