死んでもいいわ(1)
晴れて自由の身となり、15年から先の歳月を許されてから彼との時間はぐっと減った。以前のように1日中護衛が必要だったのはもう昔の話。つまり、春からわたしは王族としてのマナーと責務を専門の教育係から学ぶことになった。彼はその間、この国とわたしに正式に仕える騎士として新人の教育とデスクワーク。そのせいでわたしは勉強がちょっと嫌いになって、彼は気苦労が増えたとお互いに顔を見合わせて笑った。
日中一緒に居られなくなって寂しがるわたしを気遣って、彼は15時のティータイムと夕食後のわずかな時間を一緒に過ごそうと言ってくれた。それから、休日はずっと一緒に居ようとも言ってくれた。…率直に言って、とても嬉しかった。新しい教育係はリーンと違って頭でっかちで、決められたこと以外教えてくれない。おまけに全然褒めてくれないし、わたしがリーンのことを話すとあからさまに顔を顰める。あれもだめ、これもだめ、ぜんぶだめ。じゃあなにがいいの?そう聞いても答えてくれない。だから、最近のわたしはお昼よりも夕暮れの後、空が暗くなって遠くで虫の鳴く時間の方が好きになった。
「こんばんは。リーンはいるかしら?」
「あ、姫様!リーンさんならええ、中にいらっしゃいますよ。」
今日も遠くで虫が鳴き、お月様が空に昇る時間に彼を迎えに行く。顔見知りになった新米騎士に決まりきった質問をすれば、相手もいつもと同じ返答。けれど今日は少し違っていて、「本当に仲が宜しいですね。」と付け加えられてしまった。なんだか嬉しい反面、少し恥ずかしい。何と返せばいいのか分からないから、少し熱い頬を両手で隠してこくりと頷く。
わたしがリーンを迎えに来る理由はふたつ。ひとつはリーンはお父様曰く騎士としては勿論、事務としても優秀だから、遅くまでお仕事をしていることが多い。彼の性格上、わたしが迎えに行かなかったらいつまでもお仕事をしていると思う。お仕事が大切なのはわかっているけれど、わたしはもっとリーンに構って欲しい。前にそう言ったら、彼は何故か顔を見せてくれなかった。
ふたつめは、もっと単純。わたしがはやくリーンに会いたいから。1秒でも長く一緒に過ごしたいから。これも前に言ったことがある。その時は頬を摘ままれて、「そんなことを言うのはこの口ですか。」といじめられた。摘まれているせいで返事が出来ないから頷いたら、やっぱり彼は顔を見せてくれなかった。
事務室の扉をそっと開いて、中を覗く。就業時間はとっくの昔に過ぎているから、人はまばらだった。彼の席は扉の1番奥、いわゆる上座。そう、この国に来てまだ1年とちょっとしか過ぎていないのに、リーンはもうとっくに偉い人。嬉しいけれど、ついこの間までは私だけのリーンだったのに、急にみんなのリーンになってしまったからやっぱり寂しい。「リーン、」机に齧りついている亜麻色の髪に向かって、邪魔をしないように控えめに声を掛けようとしたその瞬間だった。まだ残っていた騎士の1人がリーンに向かって話し掛けた。あの人は、…話したことがないからわからないけれど、騎士団に何人かいる女性騎士の1人、だと思う。………なんでだろう。少し胸がざわつく。
「リーンさん、こんなに遅くまで残ってていいんですか?」
「…何がだ。」
「姫様ですよ、姫様。休日だけじゃなくて、偶には平日も迎えに行ってあげたらお喜びになるんじゃないですか?」
「………お前がもう少し仕事が出来たら、それも夢物語じゃなくなるんだけどな。」
「すっ、すみません…。」
「次からは、俺が何回お前の尻拭いをしたかきちんと数えてから口にしろ。」
「か、返す言葉もございません…。お詫びに今度何か御馳走しますから、それで手打ちにして下さい…!」
ほんの少しだけ聞こえてきた会話。映像は、扉の隙間からちらりと見ただけ。でも、すぐにわかった。ほんの一瞬で充分だった。わたしは扉をそっと閉める。だって2人の距離は近かったし、女の人の声は弾んでいたし、リーンだって、わたしと一緒にいる時よりもずっとずっと生き生きしてた。だから、ああいう口調でああいう風に話すのが本当のリーンなんだろうなって、すぐにわかった。だってわたしと話す時のリーンはきまって敬語だし、自分のことを俺なんて言わないし、お前なんて言わないし、何よりもあんなに声に感情をのせない。わたしとあの女の人との対応の違いに、わたしは彼の従者としての顔しか知らなかったことをまざまざと思い知らされる。
──わたしが知らないリーンを、あの女の人は知ってるんだ。それを自覚した瞬間、急に胸が苦しくなった。大きな針で心臓を直接刺されているような痛み。痛くて痛くて、とても苦しくて苦しくて。でも、どうしてなのか分からない。だって彼はきちんと自分の職務をこなしてくれている。それどころか、もう必要ないのにも関わらず、わたしのわがままに付き添って、寄り添って、知らなかった世界を見せてくれる。春には今年も、あの人を誕生日プレゼントに貰った。ずっと一緒だと約束した。一緒にお出掛けだってした。夏は一緒に夜更かしした。その後に2人で昼まで眠った。とても楽しかった。嬉しかった。
…ああ、そっか。わたしは急に理解する。それは本当の彼と過ごした時間じゃない。それはわたしの従者のリーン・ヴァルシオと過ごした時間。薄い扉の向こうで、飾らない言葉を語る彼とは別のだれか。わたしのしらない、だれか。だからこんなにも胸が痛くて苦しい。その痛みと苦しさから逃げるように、背を向ける。
「あれ、どうしたんですか?」
「用事があったのを思い出したの。今日は来なくていいって、リーンにそう伝えておいて下さる?」
「お安い御用ですよ。」
そう言って笑った新米騎士にお礼を言って、足早に自室へ逃げ帰る。扉を開けて、中に入るとすぐさま鍵を掛ける。その間も頭の中はあの2人のことでいっぱいだった。今夜だけでいい。誰にも会いたくない。たとえそれがお父様でもお母様でも、………リーンだとしても。きっと今のわたしは顔を合わせた瞬間、わけもなく苦しい胸のうちで渦巻くこの感情を吐き出してしまうだろう。それは自分でもどうしたらいいのか分からない胸のざわめきだった。はじめての感情だった。
──はじめて誰かをずるいと思った。大空を自由に駆ける鳥にも、大海原で揺蕩う鯨にもなりたくなかった筈なのに、わたしはずっとわたしで在りたかった筈なのに、はじめて誰かになりたいと思った。わたしは、あの女の人になりたい。飾らない、素の顔を見せるリーンと和やかに笑いあっていたあのひとになりたい。ずるい。とてもずるい。わたしのほうが、ずっとリーンと一緒にいたのに。なのに、どうして。
扉の前にしゃがみ込む。そしてそのまま、その場にぺたりと座り込むと、はじめてひとりで泣いた。初めはしくしくとすすり泣いた。そのうちに呼吸が苦しくなってきたから、しゃくり上げた。そうするうちに勝手に拗ねて、勝手にがっかりしてひとりで癇癪を起している自分が情けなくて、わんわんと声を上げて泣いた。真っ暗な部屋の中、カーテンの隙間から差し込む月光だけがとっても嫌な子になったわたしを見ている。それが、それだけが唯一の救いだった。
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