三ッ星の夏
草木も眠ろうとしている真夜中。靴音ひとつ、鼻息ひとつ立てないように細心の注意を払いながら、窓から差し込む優しい月明かりだけを頼りに足を進める。普段何気なく歩いている廊下を、こうも注意深く歩いていると気分はまるで盗賊だ。いや…これからの事を考えると、どちらかと言えば泥棒か。
平時ならば5分も掛からないこの距離を、実にその何倍も掛けて。けれど万が一、誰かに見つかった時のことを考えて、ごく自然に。そうして目的の部屋に辿り着くと、小さなノックを2回。ほんの小さな音の筈なのに、それは静まり返った城内にやけに不気味に響いたものだから、思わずごくりと唾を呑み込んだ。次いで、厳重に閉じられた部屋の鍵が開く音。そうしてノブがゆっくりと回され、部屋の主が顔を覗かせた。暗闇の中であってもはっきりと見て取れる、悪戯っ子の顔。彼女に合わせて口角を上げると、必要最低限開かれた扉の隙間からするりと室内へ身を滑らせた。
星を見ないかと誘ったのは、俺からだった。
理由は幾つかあるけれど、ひとつは春に姫様からお誘いを受けた礼…みたいなものだろうか。あの時は結局、姫様のドレスがボロボロになってしまって、それが目も当てられないような恰好だから、花畑まで行けなかった。きっと姫様をがっかりさせてしまっただろうから、なんとかして埋め合わせがしたかった。
もうひとつは、前に姫様が星が見たいと仰っていたから。尤も、もう去年の秋の話だから、姫様は覚えていないかもしれない。でも、それでも構わない。結局のところ、理由をあれこれと用意したはいいものの、要は主君を喜ばせたいと願う従者の奉公心にしか過ぎないことは、自分が1番よく分かっている。
分厚いカーテンを除け、窓を開ける。差し込む風はもう深夜だというのに随分と生温い。懐から太いロープを取り出し、頑丈な柱に括り付けると窓から眼下の緑に向かって放り投げる。
──城を抜け出す。それも真夜中に。経験したことのない出来事を前に、姫様は期待に瞳を輝かせながらも少し不安そうに俺のシャツの裾を引く。「怖いですか?」そう問い掛けると無言で頷く彼女。一瞬、なら止めましょうかと口にしかけるも、寸でのところで呑み込んだ。好きな子を泣かせたい思春期の青い餓鬼じゃあるまいし…。そう思い直してシャツを握る掌をそっと解き、代わりにその小さな手を両手で包み込む。そのまま片膝をつくと、姫様と視線を合わせる。普段見下ろしている姫様を見上げるこの体勢は、新鮮な感じがして結構好きだ。「大丈夫。…私に確り、捕まっていて下さいね。」そう言ってその手を首元へ導いてやると、何度か瞳を瞬かせた後に姫様が大きく頷いた。
いつかのように首元には姫様の細腕、胸には小さな身体。ぴたりと隙間なく引っ付かれると否応でも心臓が高鳴る。おまけに今は夏で、つまり春よりも薄着なわけで、柄にもなく男に生まれたことを呪った。けれど姫様はこんな獣臭い男に信頼を寄せ、まるで兄に甘えるように懐いて下さって居るのだから、必死に滾る獣欲を抑え込む。「わたし、こうするのけっこう好きよ。リーンの匂いがして、とっても安心する。」「…それは良かった。」必要最低限の会話は、何もロープ1本で姫様を抱えて、城壁伝いに眼下の草原に降り立つのが重労働なわけではない。これ以上余計な言葉を口にして、自分という人間の本性が露呈するのが嫌なだけだ。
「…ふふ。わたし、ずっとこのままでもいいかも。」成人したとはいえまだ15歳の姫様の身体は発育途中で、大人の女性とは言い難い。それが尚更に彼女を意識してしまってつらいのに、そんな俺の気なんて知らないで呑気に甘い言葉を口にされると、正直どうして良いか分からなくなる。「………星、見ないんですか?」自分でも驚く程呆れた声に、姫様は慌てて首を横に振って否定する。それがなんだかおかしくて、小さく笑うとむっとされた。漸く黙り込んでくれたのを良いことに、城壁を蹴って一気に地面との距離を縮める。両足が確りと地面を踏んだのを確認して、姫様を下ろしてやる。じとりとした目が俺を見上げると、もうとっくに離れたはずなのにまた心臓が跳ねた。
「前から思っていたけれど、あなたってけっこう意地悪よね。」
「そうですか?」
「そうよ、すぐにわたしで遊ぶわ。7つも年下の主人で遊んではいけないのよ。…でも、ゆるしてあげる。」
──だって、約束、ちゃんと守ってくれたもの。
拗ねてむくれて不機嫌そうな表情をしていたくせに、ほんの一瞬で甘い笑顔を浮かべては俺が欲しがっていた言葉を囁く彼女から目が離せない。そうして小さな身体で背伸びをしては、俺の手を引く姫様。求められるがままに膝を折ると、耳元に微かに唇が触れた。間髪入れずに小さな吐息に混じって告げられたのは、「ありがとう」のひとこと。「別に、…そんなの、当然じゃないですか。約束、でしたから。」精一杯の返答に、姫様はキラキラした眩しい笑顔を俺に向けた。思わず見惚れるも、ずっと見ていたら自分が変になりそうだったから慌てて彼女の肩に両手を置いて引き離す。僅かばかりとは言え距離を取ると、少し心が落ち着いた。サーコートを脱ぐとその場に敷いて、彼女に座るように促す。「リーンは?」と小首を傾げて尋ねられると、これ以上傍に居たら確実に気を遣られると分かっていても尚、拒めない魅力があった。半ば諦めも含めて彼女の隣に腰掛けるも、心底嬉しそうな笑顔を見るとやはりこれで良かったのだと思い知る。
「ねえリーン、星のお話をして下さる?」此方を見詰める琥珀の瞳をちらりと一瞥してから、彼女の好きそうな話はなんだろうかと考える。暫しそうした後に、夏の夜空を横断する天の川を指さす。子供相手に枕もとで語るように、東の国に伝わる天の川にまつわる恋の話を紡ぐ。次いで星の寿命。そして、一際獰猛に輝くさそり座の話。かつて、かの狩人を討ち取ったと伝えられる生き物。月女神と人間の恋。何故だかわからないけれど、そのどれもが姫様に被って見えた。そのせいだろうか、つい話に熱がこもる。姫様に口を挟む間さえ与えずに、次から次へと言葉が生まれては消えていく。随分と流暢に言葉を連ねる俺に、姫様はらしくないと笑うことなく黙って耳を傾ける。静かな微笑みと共に相槌を打たれると、またしても言葉に熱がこもる。そうして気が付けば自分ばかりが話していた。慌てて口を噤む。つい一方的に話しすぎたことを詫びようとするも、姫様は話し始めた頃と変わらない笑顔で首を緩々と振ると漸く口を開いた。
「知らなかったわ。…星空には、こんなにも悲しくて美しい恋の物語が散りばめられていたのね。ありがとう、リーン。」
「古代人の想像力は偉大ですからね。…今度は、本を借りてきて読みましょうか。あの自称女神に聞いてもいいですが、見返りがとんでもないことになりそうですから。」
「…それは、たしかに。」
あの我儘加減と世界の全てが自分のものと信じて疑わないような自己中心的な性格、おまけに人のことを犬扱いする無神経さに有らん限りの罵詈雑言が零れ落ちそうになったのを必死に堪える。あの女に何故か気に入られている筈の姫様でさえ、少々げんなりした様子で俺の言葉に同意するものだから、つい笑ってしまった。そんな俺を見て姫様もおかしそうに小さく笑うものだから、遂には顔を見合わせてくすくすと2人で笑った。そんなことをしているうちに、気が付けば夏の空はもう白んできていた。夏の夜は短く、朝は早い。自分のせいとはいえ、随分話し込んでしまったものだと立ち上がって片手を差し出す。確りと握り返されたのを確かめてから、ぐっと腕に軽く力を込めて引き上げる。小動物のように小さくて軽い姫様の身体は、そうするだけで何の苦労もなく持ち上がるから少し不安になった。
サーコートについた土埃を叩いて落とし、再度身に着けると右手にロープを握る。膝を折ると、声を掛けるまでもなく自然と姫様の腕が首元に回される。その際にほんの少し、本当に一瞬だけ鼻先が胸元に触れて、それからとても甘い香りがした。平常心を装って姫様を抱き上げると、2、3度小さく揺すって体勢を整える。まだ時間に余裕があるとはいえ、朝早い給仕が起き出す前にと早速1歩を踏み出す。ロープを引くように握り締めながら、右足と左足を交互に動かして城壁を登っていく。「…平気?わたし、重くない?」と心配そうに掛けられた声に、無言で頷く。この程度で苦しいなどと弱音を吐いては騎士が廃る。涼しい顔で「平気ですよ。寧ろ軽いくらいです。」と答える。事実、冗談でも何でもなく父との戦闘訓練の方がずっと厳しくて苦しかった。
それに、…それに、大切な人を胸に抱いているのだから、苦しいなんて思うはずがない。そこまで思考したところで、何を馬鹿なことを考えているんだと嫌悪感が沸いた。これじゃあまるで、姫様の恋人気取りだ。なんておこがましい。自分に自分で腹が立つ。けれど姫様はとても満足そうに微笑んで、俺の胸板にこつんと額をのせると幸せそうに呟く。
「ふふ。流石はわたしの三ッ星ね。」
一瞬、姫様がどういう意図でそう口にしたのかわからなくて呼吸が止まった。…恋人?いや、まさか。オリオンという男の逸話の数々に文字通り目を丸くして、驚いては喜んでいた姫様のことだ。きっと力持ちだとか、頼りになるだとか、そういうニュアンスだろうと必死に自分を諫める。………そうだ。相手は子供なんだぞ。肉体年齢こそ成人を迎えたものの、実に14年もの月日を狭い世界で生きてきた彼女は未だ子供だ。俺だって知らない愛や恋は勿論、他人から向けられる明確な悪意にさえ触れたことのない子供の言葉だ。真に受けるな、流せ。理性を以ってそう必死に命じる。
「………それは、さそりに刺されて死ねってことですか?」
「もう、どうしてそうなるの。素直じゃない人ね。」
「生憎ですが、素直な従者は売り切れ中でして。」
やっとのことで軽口を返せば、姫様は唇を尖らせて小さな声で文句を垂れる。けれど育ちの良いお嬢様のせいか、素直じゃないだとか可愛くないだとか、いまいち悪口になり切れていない小言につい笑みが零れた。小さく漏れた声が彼女の耳に届けば、「笑った!リーンてばひどい!!」と姫様にしてはらしくない物言いで怒られる。
城壁を上ること数分、なにはともあれ姫様の自室に帰ってくると先ずは彼女をベッドに下ろす。それからロープを回収、次いで窓とカーテンを閉めて…と証拠隠滅に勤しむ。最後に「疲れたでしょう。ゆっくりお休みになって下さいね。」とベッドに横たわる姫様に薄いブランケットを掛けようと身を屈めた瞬間、思い切り抱き着かれてなし崩し的にベッドに倒れこんだ。図らずとも組み敷いた女の身体は小さく細く、そして薄い。思わず動揺のまま姫様を見下ろす。退かなくてはと思うものの、こうして姫様を見下ろすのは初めてのことで、理性が言うことを聞かない。ダメだ、早く退かないと。そうは思うものの、身体は縛られたように指ひとつ自由にならない。姫様も一体何を考えているんだと冷静な思考の片隅で少し苛つく。狼に食べられたいとしか解釈の出来ない都合のいい状況に、思わずぎり、と奥歯を噛み締める。
先程までそうしていたように、姫様の腕が首元に回された。そのまま慣れたように寄り添われると、これからどうすれば良いかは嫌というほど知っている。体重を掛けないように姫様の薄い身体に自分の身体を重ねると、姫様は「…あっつい。」と零しながらも、俺の胸板に頬擦りした。…ダメだ。このままじゃ確実にダメになる。ごくりと唾を呑み込んで、僅かな理性と良心を総動員して咎めようとした瞬間、姫様が俺へふにゃりと気の抜けた笑顔を向けた。
「ねえ、せっかくだもの。このまま一緒にお昼まで寝ましょう?きっと怒られてしまうけど、わたし、リーンとならへっちゃら。」
「……………………貴女って人は……。」
深い深い溜息をつくと、どうして呆れられたのか分からない姫様は大きな瞳をぱちくりと瞬かせて俺を見上げる。なんだか説明するのも理解させるのも馬鹿らしくて、そのままベッドに2人で勢いよく仲良く沈むとこれでもかというくらいの力を込めて抱き締める。「リーン、くるしい。」と俺の背中を叩く小さな手を無視して緩々と後頭部を撫でてやると、程なくして規則正しい寝息が耳元を掠めた。慣れない夜更かしに疲れていたのだろう。姫様へのお説教は起きてからだ。それから、願わくば首の皮が繋がっていますようにと柄にもなく祈ってみる。今回ばかりはあの自称女神に誓ってもいい。誓って手なんて出していない。これは健全な同衾なのだ。いや、寧ろ我が身を振り返れば、却って不健全な同衾かもしれないけれど。
尽きない気苦労に頭を悩ませながらも姫様の甘い香りで肺臓を満たしつつ、小さくも柔らかい身体を抱き枕代わりに確りと抱き締めて、目を閉じる。程よい疲労感と満足感に、なんだか今ばかりは何がどうなっても良かった。
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