花の春に
「お出かけしたいの。」
わたしの誕生日から数日後、何気なく口にした言葉に彼は微笑みながら「では、次によく晴れた日に出掛けましょうか。」そう言って小さな欠片を丁寧に拾い上げてくれた。高価な宝石に慎重に触れ、優しく磨き上げるような優しい言葉と表情。自然と頬が緩むのを感じた。
行先は…別に街でも良かったけれど、折角彼が付き合ってくれるのだから2人きりになれる場所が良かった。だから以前お母様に教えて頂いた、少し遠いけれど街の外れの綺麗な花畑にした。その美しさ故に未開拓の花畑は道中、獣も多いと聞いたけれど、きっとあなたとなら大丈夫。そうでしょう?──そう尋ねる。返ってきた言葉は頼もしく、わたしたちは顔を見合わせて笑った。
太陽のあまりの輝きに、雲も恥ずかしがって隠れてしまうような絶世のお出かけ日和は案外すぐ訪れた。言わずもがな空は快晴、風は思わず微睡んでしまうそうになるくらいにあたたかく、これ以上に良い日をわたしは知らない。朝食を摂った後、お父様とお母様との歓談もそこそこに席を立つととても驚かれた。最近のわたしは、1年前とは比べ物にならないくらいに表情が豊かになっただけでなく、よく喋るようになったらしい。おまけに活動的になったと言われるとそれは間違いなく彼のおかげで、理由は分からないけれどなんだかわたしまで嬉しくなった。
けれどお母様に「やっぱり、あなたの騎士様のおかげかしら?」とニコニコしながら尋ねられると、急に恥ずかしくなって少し俯く。そうだけど、合っているけれど、なんだかそれを人から改めて指摘されるのはとても恥ずかしい。「あら、真っ赤になっちゃった。」自分でもどうして頬が熱いのか分からないのに、お母様がとても楽しそうに指摘なさるから余計に恥ずかしくなって両手で頬を隠す。「こら、あまり揶揄うんじゃない。」お父様が苦笑しながらも助け舟を出してくださったのに合わせて、そうだと言わんばかりに首を縦に振る。けれどお父様までそんなわたしを楽しそうに見詰めてくるから、遂に居た堪れなくなったわたしは椅子から立ち上がってひとつお辞儀をすると、早々に朝食の席を後にする。「気を付けて行っておいで、可愛いお前。」そんな喜色の滲んだ声を背に受けて、扉を閉めた。
待ち合わせは城の門前。足早に向かったけれど彼はもうとっくにわたしを待っていた。
「ごめんなさい。待ったでしょう。」そう言って駆け寄ると、彼はそれを肯定するでも否定するでもなく、「次からは姫様をお迎えに上がりますよ。」と言った。──次から。…ああ、そっか。次もあるんだ。わたしにはもう、明日がある。わたしはもうどこへでも行ける、なんだってできる。
「そうね。じゃあ、迎えに来て。」自分でも驚くくらいに、するりと言葉が生まれる。どうしてだろう?首を傾げて彼を見詰めて、考える。答えはすぐに出た。
──春はもう、わたしのものだからだ。
自室から出る機会のなかったわたしにとって、森の中を歩くというのは15年の生涯の中で初めての出来事だった。踏み締める土の感触、頭上から降り注ぐ陽の光。太陽が柔らかい気がすると呟けば、彼はそれは木漏れ陽というのだと教えてくれた。その木漏れ陽を浴びて煌めくあなたの亜麻色の髪がとても綺麗で、思わず背伸びして手を伸ばす。掌でしっかりと触れたそれは想い描いていた通り柔らかくて、あたたかくて、サラサラとしていてとても気持ちが良かった。満たされていく満足感に頬が緩むわたしとは反対に、彼が驚いたような表情を浮かべた後に視線を彷徨わせる。
「もう、へんな人。」いつか彼に向けた言葉が、また唇から零れ落ちる。少しむっとした表情のあなたがとてもおかしくて、くすくすと笑う。拗ねているのかしら。むくれているのかしら。機嫌を直して欲しくて、そっと髪から手を放す。代わりに手を繋ぐと、狡いと言われてしまって首を傾げる。訳が分からなくてじっと彼を見詰める。小さな溜息と共に前髪を掻き上げる仕草がとても絵になると思った。
「…いいですか、姫様。こういうことはですね、」
「リーンって、とても絵になる人なのね。」
「………………………。」
はぁ、と深い深い溜息をもう1回吐き出した後、無言で手を引かれる。痛いほど握られている掌に、怒らせてしまったのかと少し不安になる。前ばかり見てわたしを見てくれない彼を見上げようとするけれど、わたしよりずっと歩き慣れていて、尚且つ足の長い彼はどんどんわたしを置いて行ってしまう。手は繋がっているのに、置いてけぼり。なんだか怖くて、わたしは声を上げる。
「ねえ、待ってリーン。」
「………………。」
「リーン、どうしたの?怒ってるの?わたし、あなたの気を損ねるようなことを言ってしまった?ねえ、リーン。」
「……………………………。」
「おねがい、もう少しゆっくり歩いて。せっかくあなたと繋がっている掌が、腕が痛いの。おねがいよ。」
本当は歩き疲れた足も痛かったけれど、それは黙っていた。だって手も腕も痛いのは本当だけれど、何よりもいちばん痛いのは心だったから。
「…リーン。」小さな声であなたの名前を呼ぶ。今にも消え入りそうな声なのに、静かな森の中ではやけに響く。「リーン。」もう1度、今度は軽く手を引きながらあなたを呼ぶ。すると何度目かも分からない溜息と共に、漸く此方を向いてくれた彼に頬が緩む。その顔はわたしに対して何か言いたげだったけれど、でも、視線が合っただけでもう充分だった。
「………姫様。私はですね、貴女のことを想って…っ!」
理由は分からないけれど、木漏れ陽を浴びているにも関わらず彼はとても苦しそうだった。さっきまではあんなにもキラキラしていて、宝石のようだったのに。あなたが苦しそうだと、わたしまで苦しくなってくるのはどうしてだろう。胸の中に生まれた感情の名前が分からなくて、この気持ちをあなたに問い掛けようとしたその瞬間、またしても手を引かれる。思い切り腕を引っ張られて、もう腕も足も疲れているのに、否応でも全力疾走を強いてくる彼の後頭部と背中を見詰める。
なに。どうして。なにがおこっているの?生まれて初めての全力疾走に、うまく呼吸が出来ない。足がもつれそうになる。まって。どうしたの?そう声に出したいのに、唇からは喉から空気がひゅうひゅうと漏れ出す音しか出てこない。なんだかとても怖くて、不安で、繋いだ手になけなしの力を込めるとわたしをちらりと一瞥して、申し訳なさそうな顔をする彼が涙でぼやけた視界に映った。
「魔獣の生息区域に侵入してしまったみたいです。…姫様の後ろに、恐らく発情期で気が立っていると思われる魔猪が数頭。気付かれてしまいました。──申し訳ございません、姫様。私が迂闊でした。この国の生態系と生活環は把握していたつもりだったのですが…。」
「ま、ちょ…?」
ゆっくりと振り返る。ほんの一瞬、けれど視界には大きな牙と苔の生した身体を興奮に震わせながら、此方目掛けて忙しくその4つの蹄で土を踏む魔猪の姿が見えた。本でしか見たことのない生き物。知識でしかなかったその生き物を実際に目にしたその瞬間、身体の芯から冷えていくのを感じた。本能が無理だ、勝てないと告げる。全力で逃げろと警鐘を鳴らす。
「発情期の獰猛な魔猪を前に私1人ならば兎も角、姫様をお守りしつつ応戦は難しいかと。…まだ、走れますか?」
「…むり……。」
「………でしょうね。」
ドレスの裾が小枝に引っ掛かる。構っている暇なんてないから強引に引っ張ると、大きな音を立ててドレスが破れる。なんだかその音は走るのを諦めた瞬間、鼻息荒くわたしたちを追いかける魔猪のご飯になってしまった時の音を髣髴とさせて背筋が冷える。
──食べられたくない。でももう走れない。この人を、優しい人を巻き込んでしまった。色々な思いが混ざり合って、瞳からは涙が零れ落ちては頬を濡らして地面に落ちる。いっそうのことこの手を離してしまおうか。そうすれば少なくともわたしの仇くらいは討って貰える見込みがあるみたいだし…。酸欠の頭で馬鹿なことを考えていると、何も言っていないのに不意に強く手を握られた。「…大丈夫。離しませんから。」わたしの欲しい言葉。馬鹿な思考を吹き飛ばすひとこと。魔法使いみたいね。そんな場違いなことを考えた。少しだけ前向きになる思考。けれどそんなわたしを嘲笑うかのように、木々の隙間から覗く進行方向には切り立った断崖。思わず足を止める。苦しさに火照った頬から熱が引いていくのを感じる。
「リーン…。」今すぐにでも泣きじゃくりたいのを我慢して、彼の名前を呟く。もう一歩も歩けない。こんな絶望的な声は、自分が生贄にされると知った日だって出したことがないと断言出来る。
「ふむ───いいですか、姫様。」
「な、に?」
「絶対に、私から離れないで下さいね。」
ほんの一瞬、繋いでいた手が離れる。どういうことかと疑問を口にするよりも先に、腰に手が回された。そのままぐっと抱き寄せられると、いつか貸して貰ったハンカチと同じ匂いがした。どうしてだろう。彼が何を考えているのか分からないのに、安心して身を委ねられる。不安な筈なのに、怖い筈なのに、ちっとも不安じゃない。怖くない。だから返事の代わりに彼の首元に腕を回すと、思い切り抱き着いた。
「…いい子。」耳元でほんの少し低い、落ち着いた声で囁かれると、何故だか分からないけれど心臓がうるさくなった。どう返事をしたらよいか分からないから、固く目を瞑る。荒い呼吸を繰り返す。「いくぞ──!」その声に合わせて、腕に力を込める。振り落とされないように。言いつけ通り、離れないように。
太地を蹴る衝撃と浮遊感。木から落ちるリンゴのように、重力に任せて沈んでいく気持ち悪さ。けれどそれも一瞬で、次いで訪れたのはメトロノームのようにゆらりゆらりと揺れる不思議な感覚。
そうっと目を開けると、わたしたちは向こう側の崖の上方、春に大地を割ってちょこんと顔を覗かせる土筆のようにひょっこりと伸びた枝の下。本当にリンゴみたいに揺られていた。恐る恐る、つい数秒前まで居た場所へ目を向けると未だ収まらない興奮と、獲物を逃した苛つきに忙しなく前足で地面を掘る魔猪の姿。流石にここまでは追って来ない。否、追って来れない様子に安堵の溜息が零れる。けれど同時に、染みのようにこびりついては四肢に残る恐怖に息を呑む。少し震える身体。すると、腰を抱いていた彼の手がそっと背中を撫でた。優しい、甘やかすような手付きに少し気持ちが落ち着く。
「…ありがとう、リーン。」そう言って彼の胸板に顔を埋めると、優しい匂いとわたしと同じような体温にいっそう気が安らいだ。いつまでもこのままがまずいのは分かっているけれど、もう少し。もう少しだけ。そんな気持ちを込めて、腕に力を込めてぴたりと彼に引っ付くとより鮮明に感じる彼の体温と呼吸と、少しはやい心臓。顔を寄せる度に濃くなる彼の香り。「…姫様。」そこはかとなく不機嫌そうな声も、今だけは聞こえないふりをする。
暫くの無言の攻防。先に音を上げたのは彼だった。はぁ、と何度目かも分からない深い溜息をついて、わたしを見下ろす。
「………いいですか、姫様。」
「なあに?」
「私と両陛下以外に、こういうことはしないで下さいね。」
彼の言う「こういうこと」が分からずにじっと見詰める。何度か視線と話題を逸らされるも、しつこく追いかけると彼は観念したように口を開いた。
「だから、その…みだりに他人に、特に男に触れたりですね、抱き着いたり、甘えてみせたり…。そういうのは、良くありませんから。」
「なあんだ。なら大丈夫よ。わたし、触れたいと思うのも抱き着きたいと思うのも、甘えたいと思うのも、ぜんぶぜんぶあなただけだもの。」
てっきり、もっと考えて言葉を口にしなさいだとか、自分の我を通さないだとか、最近教育係にしつこく注意されていることかと思っていただけに、彼の言葉はわたしにとってはあっけない杞憂に終わった。けれどリーンは眉を顰めて、「頭が痛い…。」と呻くものだから、大丈夫かと顔を覗き込む。「…あんまり、距離が近いのもやめてください。」とひとこと呟くや否や、ふいと視線を逸らされる。また視線を追いかけようとしたら、頭を押さえて胸に押し付けられた。
「…上がりますから、確り捕まってて下さい。」そう告げた声は漸く普段と寸分違わない程度には落ち着いていたけれど、彼の厚い胸板を通じて耳にする鼓動は、わたしと同じくらい速かった。
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