そうして、また、春になる
──かちり、かちり。
静かな室内に秒針の音だけが響き渡る。時刻は日付が変わる5分前。普段なら草木も眠ろうと瞼を閉じる時間だけれど、今日だけは城中の人間が夜を忘れて身構えている。
──かちり、かちり。
あと5分。それは、彼女の命に残された時間。陛下は勿論、国中の人間が護衛を付けようと姫様を説得したけれど、彼女はそれを拒んだ。だから広くも狭いこの部屋は、昨日までと同じように姫様と俺のふたりきり。正直なところ、姫様がもうとうに諦めているのか、それとも最期の時を静かに過ごしたいのか。その意図は分らないけれど、もし自分という存在に最期を任せたいと思う程に信頼を寄せて貰えているなら、それは従者として最高の誉れだろう。
──かちり、かちり。
秒針が短針を追い越していく。人の気持ちも知らずに、頂点を目指す。そうして時を指し示す針が全て重なると、国中に鐘の音が鳴り響いた。夜の闇を引き裂き、何処までも響き渡る重厚な音。次いで間髪入れずに、大窓がバタリと大きな音を立てながら開く。びゅうびゅうと吹き込む風はとうに春だというのに、真夜中だからかやけに冷たい。不気味な春風に顔を顰める。激しい突風に一瞬目を瞑るも何者かの気配に薄目を開けると、そこには逆光の中、ひとりの女が佇んでいた。
咄嗟に腰の剣へ手を伸ばすも、その手を小さな手のひらが制した。窓から差し込む月明かりが照らし出す姫様は少し緊張した顔をしていて、けれど瞳はとても優しい色をしていた。思わずじっと見詰め返すと、姫様は少し困ったように目を細めてから緩々と首を横に振る。
…だいじょうぶ。もう、いいの。声なんてひとつも上げていないのに、彼女は確かにそう言った。
「女神アスタロト、参上致しました。…その様子だと、覚悟は出来ているみたいですね。良い心掛けです。私とて、幾ら悪魔とはいえ幼子相手に手荒な真似はしたくはありませんから。──さあ、契約を果たしましょうか、お姫様?」
「嫌だと言ったら?」
「部外者が口を挟まないで。これは私と王家が交わした契約。お姫様のナイト気取りか何か知らないけど、ただの人間風情が私に盾突こうだなんていい度胸…って、貴方……。」
逆光に照らされて、女の顔などひとつも分からない筈なのに、何故だかにやりと笑った事だけははっきりと分かった。「そう。混ざり者なのね、貴方。」たったひとこと、けれどそのひとことは決して決して姫様には知られたくなかった事実。目の前の女に対して明確な怒りと殺意が沸き上がる。
「悪いけど、犬コロの相手をしに来たわけじゃないの。私の目的は貴方の大事な大事なお姫様。退いてくれる?」
「断る。」
「あっそ。じゃあ死になさい。」
抑揚ひとつない冷たい声。その機械を思わせる声と共に、剣の切っ先を向けられる。姫様の前に出て剣を抜くも多くの立場有る人間に仕え、幾度となく戦場を超えてきたからこそ眼前の女に敵わないことは一瞬で見て取れた。剣を合わせるまでもなく勝敗は決している。きっと姫様の前でなければ両の足は情けなく震え、命乞いをしていたかもしれない。けれど今は。何よりも守りたいと願ったこの人の前では、どんなに情けなくても最期の瞬間まで目の前の女を睨み付けていたい。
先にどちらが仕掛けるか。相手から来ないのであれば、此方から──まさに一歩踏み出そうとしたとき、姫様が口を開いた。
「剣を収めなさい、リーン。」
姫様に仕えて、今日で1年。こんな自分を兄のように慕ってくれた姫様。無邪気で、何処かのんびりとした甘い声で甘えて下さった姫様。そんな姫様が凛とした、王族然とした声で初めて俺に下した命令はとてもじゃないけれど納得し難いものだった。けれど騎士ならば、従者ならば、どれだけの不満を覚えても主の命令には必ず従わなければいけない。ましてやそれがとても力強く、彼女の意思と決意をのせたものであれば尚更のこと。
不本意だけれど、不満だけれど、そっと剣を鞘へ収める。「ありがとう。」何度も何度も贈られた言葉。贈った言葉。それが今はただただ、悲しくて堪らない。
「…驚いた。素直なのね、貴女。」
「いいえ、ちっとも。」
姫様はそう言うと、少しだけ口角を上げて笑った。
「15年。たった15年だと人は嘆くけれど、わたしには充分過ぎる時間でした。」
「…………………。」
「たとえ、始まりは哀愁だったとしても。同情だったとしても。はたまた、ただの好奇心だったとしても。…わたしは、実に多くの人の優しさに触れることが出来ました。そうして生まれる、素敵なものを目にすることが出来ました。」
力なく垂れた手に、小さな手のひらが触れた。小さな小さな掌に包まれて、優しいぬくもりに触れる。どんな顔をして彼女の最期を見送れば良いのか分からなくて、ただ伏せていた顔を上げると蜂蜜色の瞳に出会った。甘い色をした彼女の瞳。確かに恋をした、彼女の色。
「それに、なによりも──わたしは、とてもうつくしいものを知ることが出来たのです。」
そう言って儚くも美しく微笑んだ彼女に、それが自分のことだと悟る。…違う。違うんです、姫様。本当はそう声を上げたかったけれど、出来なかった。声にならなかった。
人間の欲望と、悪意とが絡み合った、血で血を洗う権力の世界。そんな場所で生まれて、そんな汚い環境で育った男が、貴女の望むような男である筈がない。誤解を解くべきだとちっぽけな脳は告げるけれど、そうしたくはないと心が叫ぶ。
「だから、わたしは満足しているんです。あなたが許して下さった、15年の月日に。」繋いだ手が離れる。そう告げると静かに目を閉じ、その時を待つ彼女。今日を以って永遠の人となる彼女に、今更真実を告げて何になる。……結局力になれないなら、守れないなら、初めから良い人の振りなんてするんじゃなかった。掌をきつく握ると、思い切り力を込める。皮膚に刺さる爪の痛みが悔しさを冗長させていると分かってたけれど、そうする他なかった。
「……………あーあ、まさかこの私が二度も、それも親子二代揃ってこっぴどく振られるなんてね。興醒めだわ。」
「………アスタロト?」
「目の前で堂々と惚気られてまで他人のモノに手を出す趣味はないって話。…喜びなさい、犬コロ君。貴方の願いは、永遠のものとなる。」
逆光の中で、女の瞳が煌めく。姫様と同じ琥珀色の瞳。強い意志を感じさせる、遠い過去の遺産と同じ色。すぅ、と大きく息を吸い込むと、女は腹の底から城中に響き渡るほどの大声を張り上げる。
「───今は悪魔として堕落した身なれど、かつては天の全てを統べた女神として此処に宣言します。姫君とその騎士の美しい心に免じて、契約は今この時を以ってその一切を破棄とする!そして、以後如何なる問題が生じようともこの件は一切を不問にすると共に、人々からその美しい心が消えない限り、謹んで王家に助力することを誓いましょう!」」
「…それ、って……。」
「何よ。それとも私のモノになりたい?言っておくけれど私、ご覧の通り激しい女よ?」
「結構だ。」
「だからあんたには聞いてないっての、犬コロ。」
信じられない。信じられない、けれど。たったひとこと、短く反論した声は震えているけれど。「私ってばなんて心が広いのかしら。これは女神に舞い戻る日も近いかも!」なんて満足そうに口にしては、にやにやと此方を見詰めてくる女に徐々に実感が沸いてくる。
姫様が。初めて、生涯を掛けて守りたいと思った人が。悪魔の気まぐれとはいえ、15年から先の命を許された。それを理解した瞬間、心臓が高鳴るのを感じた。
とはいえ先ずは本来感謝すべき相手とはいえ、何処までも馬の合いそうにない眼前の女を睨み付けると「あーら、随分とナマイキだこと。」と女は嫌らしい笑みと共に呟いた。女神と名乗るだけあって端正な顔を嫌味で歪ませて、ニヒルな笑みを浮かべる自称女神を鼻で笑う。そうすれば未だ信じられずに呆然とする姫様の手前か、あくまでもその顔には涼しい笑顔を張り付けたまま。唇の動きで「殺すぞクソガキ」と女神と奉るにはあんまりな言葉を頂戴する。
…感謝こそすれど、やっぱり気に食わない。過程はどうであれ結果として姫様がこいつのものにならなくて本当に良かった。心の底からそう思った瞬間、鍛え抜いた身体に傷ひとつ知らない柔らかな身体が重なる。甘い香りが鼻腔を擽る。それが何かを理解して、自分自身を咎めるよりも前に薄い身体に腕を回して閉じ込める。
「…姫様、」
「リーン…リーン、っ……!」
初めて抱き締めた姫様はとても小さくて、あたたかくて、柔らかくて、彼女らしい甘い香りがした。従者ではなく、1年間、彼女と共にあった友人として。そして、これからは彼女に想いを寄せる者として、15年分堪えてきた涙と感情を溢れさせる彼女の背中を易しく撫で擦っては、それらを全て受け止めてやる。
掛けるべき言葉は山程とある。けれど今はそれらを呑み込んで、ただひとこと。泣きじゃくる彼女の耳元に唇を寄せるとそっと囁く。
「お誕生日おめでとうございます、姫様。」
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