そうして、また、春になった
見渡すばかり緑の中、春の海に溺れながら彼女を想う。
──とてもとてもうつくしい人。純粋で、無垢で、この世の穢れを知らない人。自分とは全く異なる世界に生きる人。
自分は、彼女の為に何が出来ただろうかと考える。
──時に教師のように接した。時に兄のように接した。かと思えば昔からの友人のように笑いあったりもしたし、当てのない約束だってした。
なら、これから先はどうすれば良いのだろうか。そんなことを考える。自分は、もう、彼女の騎士ではない。
顔を上げて、空を見上げる。此処から見えるあの大窓は、彼女の自室のもの。あの場所で姫様と共に見下ろした眼下の景色はとてもとても美しくて、けれど1人では堪らなく味気がないのだとたった今知った。額縁に飾られた街は宗教画のように美しく、神聖だと感じたけれど、それは隣に姫様が居たからだと今更思い知る。思わず苦笑が零れ落ちた。
「こんなところにいた。」
春のように明るく、そして甘い声に振り向く。一面の春の中、空を覆う花と同じ色の髪を靡かせて微笑む彼女。肩を出した、少し大人びたドレスにどきりとする。何も言葉を返せない、否、何と口にすればよいのか分からずに居ると、いつものようにごく自然に隣に並ぶ。ぴたりと身体を寄せると、彼女は俺の顔を覗き込んで問い掛ける。
「なにしてたの?お父様が探してたわ。」
「…姫様こそ、主役が抜け出しては不味いのでは?」
「わたしはいいの。パーティーの準備なんて分からないし、それよりもリーンと一緒にいたかったから。」
何の羞恥も遠慮もなく彼女の口から飛び出した言葉に心臓が締め付けられる。自分を落ち着けようと大きく息を吸っては、ゆっくりと吸い込む。最後に短くふぅ、と溜息をつくと未だ動揺こそしているものの、随分と落ち着いてきた。胸中を占める彼女への想いと、冷静で冷徹な戦場での自分を思い起こそうと「いいですか、姫様。」と説教じみた言葉を紡ぎ出すも、本題に入るよりも先に彼女が俺の手を取った。吃驚して、思わず彼女を見遣る。目を細め、真っすぐに俺を見詰めてくるその顔は僅かな緊張と隠し切れない幸福感に満たされていて、思わず息を呑んだ。
「わたし、今年の誕生日のプレゼントにどうしても欲しいものがあるの。だからね、お父様にお願いして来たのよ。」
「そうですか。…陛下は何と?」
「自分の言葉で聞いてきなさい、って。」
「…?」
さぞ姫様の事を甘やかしている陛下のことだから、余程の物でない限り二つ返事だとばかり思っていただけにその返答には驚かされた。そして何よりも、どうして自分にそんなことを言うのか分からずに彼女を見詰める。去年の今日、陛下と交わした契約はつい先程終了してしまった。まさか誰もあんな結末になるとは予想だにしていなかったのだから、もとより1年の契約だったのだ。即ち、リーン・ヴァルシオという男は、もう彼女の騎士ではない。それは彼女も理解している筈。益々訳が分からなくなって、ただただ眼前の彼女を見詰める。
「ねえ、リーン。」
普段よりも大人びた表情。けれどまだあどけない、幼い少女を思わせる端正な顔。真剣に紡がれた言葉は凛としながらもやはり何処か甘く、背伸びしたドレス姿と相まって心臓が痛い。それでも、彼女は至って真剣に此方を見詰めてくるのだから、目を逸らすことさえ許されない。その色づいた唇で何を紡ぐのか。息を呑み、呼吸を止めて、その時を待つ。
姫様は胸に手を当て、何度か大きく肩を揺らして深呼吸した後、少し不安そうに眉尻を下げて問い掛けた。
「──今年の誕生日プレゼントに、あなたを貰えますか?」
緊張に強張る頬。硬い瞳。震える声。恐らく精一杯の勇気を振り絞ったであろう彼女が愛おしくて、いじらしくて、少し意地悪な質問を投げかける。
「………今年だけで良いのですか?」
彼女の蜂蜜のような、大きく甘い瞳が見開かれる。張り詰めた緊張が解け、身体の奥底から歓喜が沸き上がるのを肌で感じる。上手く言葉に出来ないのか、小さく首を横に振る彼女に微笑みかける。
「…いいえ。いいえ!リーン、あなたさえよければずっと!」春に弾ける花蕾のように、声を弾ませ弾けさせた彼女の腕が首元に回される。ごく自然に抱き着かれてしまえば、それを拒む術なんてものは持ち合わせていない。だからそっと彼女の背中に腕を回して、同じように抱き寄せる。
──また、1年が始まった。
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