それは、吹きすさぶ秋風のように
僅かに開いた窓から北風が吹き込むと、姫様は小さくぐずりと鼻を鳴らした。すぐさまポケットの中のハンカチを差し出すと、俺の顔とハンカチとを交互に見比べてからゆっくりと首を横に振る。
遠慮なんていらない。そんな思いと共に半ば強引に小さな掌にハンカチを握らせてから席を立つと、背を向けて窓を閉める。肌に触れる風は眼下に広がる赤や黄色に色付いた街に負けず劣らず、もうすっかり秋の色をしていた。ガラス瓶の中に閉じ込められたかのような繊細な色遣いの街並みは素直に美しい。だからこそ一瞬躊躇したものの、日が落ちるのが早くなったことを思えば致し方ないかとレースカーテンを引く。けれどその物悲しくも華やかな景色は失われるどころか細やかな模様のレースをヴェールのように纏うことによって、却って一流の調度品らしく華やいだ。
「リーン?どうかした?」
訝しげな声に、恥ずかしながら漸く目の前の景色に見惚れていたことに気付く。何度か小さく首を振ると、後ろ髪を引かれながらも名画に背を向けて声の主へと向き直る。大理石の床に硬い軍靴の音を響かせつつ背凭れのサーコートを手に取って広げると、華奢以外の言葉の見つからない狭い肩にそっと掛けてやる。
「ありがとう。」ありふれた言葉を口にする耳障りの良い声を嬉しく思っている自分がいることが心底意外で、つい目の前の少女から目を逸らした。
「…いいえ、何も。それよりも姫様、早く鼻をかんで下さいね。」
「ハンカチが汚れるわ。せっかく真っ白で、いい香りがして、おまけにあなたの家の家紋だって入ってるのに。」
「姫様が病気になる方が問題ですから。」
子供相手にするように再三優しく言い聞かせてやると、姫様は少しむすっとした表情を浮かべながらも大人しく従った。「片方ずつかんで下さいね。」と付け加えると年相応の不機嫌そうな顔と、不満を訴えてやまない瞳に出会った。
そうしてむくれて見せる姫様は、決して特別な少女ではなかった。抗えない運命のもとに寿命を定められた薄幸の令嬢でも、生贄として捧げられる悲哀の少女でもない。ただの、どこにでもいる──そう。それこそあの扉の外、外界に一歩踏み出してしまえば彼女はこの広くも狭い部屋に違和感を置き去りにして、つい先程まで心奪われていたあの景色の中に溶け込めるであろう、ただの幼気な少女なのだ。ただ、そうするのが難しいだけで。
その事実を自覚した瞬間、目の前の少女を甘やかさずにはいられなかった。絹のように滑らかで、銀細工のように整えられた髪を控えめに、けれどくしゃりと撫でてやる。不思議そうに此方を見詰める琥珀色の瞳を、今度は確りと見詰め返す。釈然としない様子ではあるものの、そのまま暫くされるがままの姫様はそこまで不満そうな様子ではなかった。
「よしよし、いい子ですね。偉いですよ。」春に咲く海の色の髪を愛で、優しく手櫛で梳きながら、もし本当に妹が居たら。それがこの少女のように、はかなくもうつくしい存在だったら。そんなことを考えて、つい柄にもない言葉を紡ぐ。「……子ども扱いしないで。」流石に不満だったらしい姫様は、唇を尖らせながら抗議の声を上げる。
「嗚呼、すみません。でも7つも歳が違えば、どうしても妹のように思えてしまって。」
「だからリーンは、わたしに声をかけてくれないの?」
「声、ですか。……………さて、何の話でしょうか。」
「もう!わたし、知ってるのよ。この間、リタとサテイアが話してたもの。リーンから夜のお誘いを受けた、って。」
「─────」
絶句した。次いでこの純粋無垢で悪を知らない、善意で満たされた試験管の中でしか生きられない、あどけない少女の耳に届くかもしれない場所でそんな話題を口にする使用人へ激しい怒りを覚えた。自分で蒔いた種でありながら、その品性を疑った。そして幼き日から教養を身に着け、鍛錬に励み、騎士に相応しい人間であろうと在り続けた身でありながら、これほどまでに女を殴りたいという衝動に駆られたのは初めてだった。
一先ずは平静を装いつつ、必死で言い訳を考える。女の方から迫ってきた?いや、その訂正はもう遅い。沈黙を貫くか?それとも話題を変える?兎にも角にも、どうすれば姫様から軽蔑されずに済むか考えろ。そう必死に言い聞かせるも、焦燥感が正常な判断を妨げる。嗚呼、それから陛下の耳に入らないように根回しもしなければ──そんなことばかりが脳内を支配し、濁流の如く氾濫する様々な思考。一方で21年間生きてきてたかだが眼前の、それもあと数ヶ月の命と定められている人間相手に何を狼狽えているのだと、驚くくらい冷たい自分の存在に背筋が冷えた。
…汚い。こんなにも薄汚い自分が、まるで兄のような面構えで無垢な少女に触れている。それが本当に汚くて汚くて、姫様から手を放す。胸中を占めているのはそんな自分への軽蔑の筈なのに、幾らかばかりの優越感や背徳感を感じていることが、本当に嫌になった。
「─────ずるいわ。」
「…………は?」
不意にぽつりと漏らされたひとことに、思わず素っ頓狂な声が出た。けれど姫様はそんなことも構わずに言葉を続ける。
「みんなでわたしに内緒でこっそり夜遊びするなんて、とってもずるい。ねえリーン、今度はわたしも呼んでね。おひらきした後はふたりで寝そべって星を見ましょう。ちゃんと夜中じゅう起きていられるように、たっぷりお昼寝しておくから。」
「………ええ、…ええ。そうですね。でも、もう直ぐ冬ですから難しいかと。」
「なあんだ。……でも、約束よ。」
そう言って、差し出されたままに小指を絡める。何処までも純粋で、汚れを知らないこの人がとてもとても羨ましい。そして、十中八九叶う望みがないと知りながら約束を交わすこの人がとてもとても尊くて、それから、初めて本気で誰かを守りたいと思った瞬間だった。
.




