番外編_姫様と私(7)
あの非常に悔しい思いをした秋の日から、もう随分と長いこと姫様もお坊ちゃんも見ていない。おかげ様で季節はもう冬だ。それも、限りなく春に近い冬。いや、それはちょっと語弊があるかな。正しくは見かけはしたけれど、私に気が付く余裕もないくらいに忙しそうだったから遠慮した。どう?私ってば慎み深いでしょう。これはきっと姫様も惚れちゃうね!
なあんて自分で自分を励まして寂しさを紛らわせていると、目の前をあのお坊ちゃまが姫様ほどじゃないけれど可愛い女の子に手を引かれて歩いて行った。それも、かなり親しげな様子で。…は?お前、姫様という人がありながら平気で浮気とかするタイプなの?はあ???許せん。此方とてただのメイドと言えども、姫様に心底惚れ込んでいる身。個人的にはリーン・ヴァルシオという男のことなんて微塵も好きじゃないし何私の姫様に触れてんだよシバくぞレベルで嫌いだけれど、その姫様がかなり信頼を寄せて、それから…うん。それから、認めたくはないけれど惚れている男なのだ。本当にほんっとうに悔しいけれど、女の勘がそう言ってるのだ。だというのに!なんでお前は浮気なんてするんだよ!!
…というのが数日前の話で、今日の私と言えばあの光景を姫様に言うべきか言わないべきか非常に思い悩んでいた。いやね、個人的には姫様のことを本当に心の底から想っているからこそ、言うべきだとは思うのだ。でも私の場合、つい「だからあんな男はやめて私にしません?浮氣なんてしませんし、一生姫様にご奉仕致しますよ…。」みたいなことをうっかり口にしてしまいそうで怖い。というか、多分確実に言う。だって悪魔が私に囁いてくるもの。今がチャンスだってものっすごい勢いで囁いてくる。なにこれ。私ってこんな女だったか?いやはや、恋というものは末恐ろしいですな!
「あーあ、もうどうすればいいのよー!」
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないって!だってさあ、あのリーン・ヴァルシオが浮気してたんだよ?ウ・ワ・キ!あいつめ、あんなにも可愛い姫様って人がありながらさあ、自分と同じような髪の色の女の子と手ぇ繋いで城中歩いてんの!もー呆れたよね!何?騎士ってそういう生き物なの?滅茶苦茶幻滅したわー!!」
「だいじょうぶよ。あの人はリーンのお母様だから。」
「いやお母様ってまさか。あんなに見た目若い人が母親なわけないでしょ。不老不死の魔女じゃあるまい、し……!?」
春の訪れを思わせる、ぽかぽかとした陽気の中。中庭で腕の中の猫(かなり嫌がってる)相手にどうしようもない気持ちをぶつけていれば、不意に誰かに話し掛けられた。普段ならば誰か確認するものの、その時の私ときたら恥ずかしながらヒートアップしていて正直何も考えていなかった。だから「そのまさか、よ。」と楽しそうな声と共に悪戯っ子の顔をした姫様に肩を叩かれた瞬間、腰が抜けるかと思った。おまけに姫様が!姫様の手が!!私に!!触れてる!??!1度に色々なことが起きすぎて頭の中が爆発しそうな私に、姫様は「ふふ、おどろいた?こんにちは、お姉さん。」と楽しそうな声と悪戯っ子の笑みを向けた。その表情を見て確信する。こいつはとんでもない小悪魔だぞ…!?
とはいえ、今大切なのはそんなことじゃない。姫様の前であのお坊ちゃまの悪口を言ってしまったことだ。…ん?悪口か?まあいい、そんなことは大事な問題じゃない。「すっ、すみません姫様!!幾ら気が付かなかったとはいえ、姫様の前であんなことを言ってしまうだなんて…!その、甘んじて罰は受けますので!!」と半ば叫びながら頭を下げる。それはもう地に頭が付くんじゃないかっていうくらい。寧ろ埋まるくらいの勢いだ。今こそ土下座なるものを実践すべきなのか?!と青ざめつつ割と真剣に思考を巡らせていると、姫様が心底おかしそうに笑った。…え、ここ笑うところですか?まさか姫様ってば加虐性癖持ち?それはそれでいいかも…なんて考えていると、甘い声が「いいのよ。」と言った。思わず顔を上げる。
「……へ…?」
「だって、お姉さんはわたしのために怒ってくれてたのでしょう?感謝こそすれど、怒る筋合いなんてないわ。…それに、遠目に見れば、まあ…そういう風に見えても仕方がないだろうし。」
「ひ、姫様…!!」
「ふふ。お姉さんって、すぐに感激するのね。やっぱりへんな人だわ。」
優しい言葉に涙が止まらない私に、姫様はふんわり微笑むと少しだけ背を伸ばして手を伸ばす。一体何をするんだろうかと涙が拭いながら見詰めていると、姫様の小さな掌が私の頭を撫でた。「よしよし、泣かないの。」そう言いながらはにかむ姫様はもう天使なのでは?いや、むしろ女神?「もうあなたとは一生口を利かないわ」くらい言われると思っていただけに、ただただ素直にうれしい。頭には姫様の手、目の前には姫様、此処が楽園か…。
「でもね、ひとつだけ訂正。」私の顔を覗き込みながら、姫様が人差し指を立ててその薄い唇に宛がう。悪戯好きな子供の顔。うっ、可愛い。この小悪魔め。いや天使め。そんな間近で微笑まれたらあまりの幸福感に私が死んじゃうでしょう!!手加減をして下さい!!あっやっぱりいいです。今のうちに一生分の幸せを摂取しておきます。いつ死んでもいいように備えておかなくては。
「リーンはね、もうリーン・ヴァルシオじゃないの。」
「…えーと、それはどういう……?」
「これからはわたしの隣で、リーン・アイデスとして生きていくの。」
たったひとこと。それだけの言葉だけれど、姫様がとても幸せそうに微笑むから、私も釣られて微笑む。内心面白くないし、庶民の私には何がどう違うのか、何がどう変わるのかなんて微塵も分からないけれど。でも、そう言ってとても幸せそうに微笑む人が目の前にいるから。私が惚れ込んだあの日の笑顔以上に照れくさそうに、そして恥ずかしそうに。それでいて、美しい春の日差しのように飛び切りの笑顔を見せるから、「良かったですね」と言葉を返す。姫様がそうして下さったように、私も目の前の桜色の髪と頭を撫でる。
すると目を細めて、まるでステンドグラスに描かれた宗教画のように綺麗に微笑む姫様に、とても非常に悔しいけれど私はヴァルシオ家のお坊ちゃま──訂正。アイデス家のお坊ちゃまには、どう足掻いても勝てないみたい。あーあ、告白する前に失恋かぁ。そんなことを考える私の頬に、柔らかい何かが触れる。鼻先を擽るのは甘い香り。顔に掛かる春色の髪と、さっきよりもずっと近い姫様と私の距離。…え、何?私今姫様に何された?私が幻覚を見た訳じゃなければ、姫様にキスされた?えっ?何?私死ぬよ?そんなことされたら軽率に死んじゃうよ?いったいどういう風の吹き回しですかと姫様を見遣ると、其処には飛び切り甘い笑顔を浮かべるその人が居た。少しだけ得意げな顔に心臓が五月蠅い。
「この1年、私と仲良くして下さったお礼よ。初めのころはみんな珍しがって話し掛けてくれたけれど、いつまでも私を気にかけてくれたのはお姉さんぐらいだもの。………だから、ね?」
「────姫様、」
「なあに?」
「私、殺されます…!!」
「えっ、誰に?!どうして!?」
とても感激だけれど。嬉しいけれど。幸せだけれど。姫様から頬にキスして貰えたなんて、万が一にでもあの男の耳に入ってしまったら最後、多分私は殺される。それだけは確実に分かる。震える声でそう口にすれば、姫様は大変慌てた様子で声を上げた。その様子も大変可愛らしくていいですけどね、あの、まさか貴女がさっきから幸せそうに微笑んでいる理由のその人だなんてことは口が裂けようが四肢をもがれようが絶対に絶対に言えやしないんですよ。そんなことしたら本気で殺されちゃうからね。それに、私の人生には新たな目標が出来たのだ。だから死ぬわけにはいかない。無気力で堕落した私とはもう今日限りでお別れだ。
私の人生の目標そのイチは姫様に恋し続けること。失恋はしたけれど、でも、勝手に恋をし続けるだけなら罰は当たらないでしょう?そのニは、もっと姫様にキスして貰えるように頑張ること。だって最高だった。何がとは言わないし、敢えて明言も避けるけれど、控えめに言って最高だった。だから私は生きなければいけない。死ぬわけにはいかないのだ。見ていて下さいね姫様!!そんな思いを込めて姫様の手を固く握る。決意も新たにそう勝手に姫様と自分の胸に誓った冬の日の午後、春はもうすぐそこだった。
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