番外編_姫様と私(6)
「猫ちゃんの飼い主さん!」
姫様と林檎という名の落葉を拾い集めてから数日後、今日も今日とて私は下働き。具体的には花瓶の水を替えていくという地味なことこの上ない作業だ。しかも重い。誰だよ廊下に花なんて置こうって言った奴は。誰が見るんだよ。ちなみに私は見ない。それから猫、少しは手伝う素振りくらい見せなさい。誰が餌をやってると思ってるんだ。
…なんていつもの通り内心毒づいていると、背後から数日前の沈んだ声とは一変、蕾が弾けるような華やかな声が私を呼んだ。ただ私を呼んだだけの筈なのに、こんなにも甘い声の持ち主なんて振り返って確認するまでもなくひとりしかいない。
「姫様!!…と、リーン様……。」
「ふふ、こんにちは。…お仕事中に迷惑だったかしら?」
うーん、あのお坊ちゃま付きかあ。嫌だなあ、ツイてないなあと思いながらも、お坊ちゃまの手を引きながら此方に駆け出してくる姫様が可愛いから今回は特別に不問としよう。だからそんなに睨むなって!効果の有無は兎も角、誰が姫様を励ましてやったと思ってるんだ。大体、そんなに睨みつけてくるくらいなら片時も姫様のそばを離れるなよな!全く、こんなにも可愛い姫様を泣かせて落ち込ませるだなんてとんだ男だ。姫様、やっぱりそいつ止めといた方がいいですよ。…って言えたらどんなに幸せか。
でもまあ、それはそれとして姫様の方からこうして声を掛けて貰えるなんて、姫様に恋してやまない私としてはもう最高オブ最高なわけで。しかも申し訳なさそうに私を上目遣いで見上げてくる姫様の威力ときたら、我ながらよく心停止しなかったと思う。何?お坊ちゃまは毎日毎日こんな幸せな気持ちを味わってるわけ?狡くない?分けろよ。私にもっと分けろよ!!
「いえいえ滅相もない!寧ろ姫様の方からお声がけ頂けるなんて、もう末代まで語り継いでいくレベルの光栄です!!」
「……そんなに?」
「そんなにです!!」
「ふふ、相変わらずへんな人。」
素直な気持ちをオブラートに50回くらい包んで言葉にすると、姫様はその大きな瞳が零れそうなくらいに目を見開いた。えっなに可愛い。驚いた顔さえ可愛い。もうさ、姫様自体が精巧なビスクドールみたいに綺麗で可愛いのに、瞳まで宝石みたいにきらきらしてるとかやばくない?そんな人から声を掛けて貰えたら、私じゃなくたってそりゃ末代まで語り継ぐでしょ。
ああ…自信満々で返した言葉に対して、ふにゃりと微笑むその顔さえも可愛い。やばい。語彙力が消えていく。こんな幸せを毎日味わってるとか、やっぱりお坊ちゃまは狡いなあ。まあ、その本人はあんまり私と関わりたくないのか、冷たい目で見下ろすだけでひとこともしゃべりもしないけどね!おいお前親からどういう教育されたんだよ?!
そんなことを頭の片隅で考えていた時、不意に猫がにゃおう、と鳴いた。「猫ちゃんもこんにちは!」と無邪気に話し掛ける姫様も大変可愛らしくてよろしいですけれど、あの、なんだその甘えた声は。お前、私に対してそんな声出したことあったか?こんなにも可愛くて優しい姫様が動物からも好かれるのはモチのロンとしても、誰が餌をやってると思ってるんだこの猫は。ちったあ私に向けてもその媚びた声を出さんかい!!とイラっとした時だった。何を思ったかは知らない。もしや私の怒りを感じ取ったのか?いや知らんけど。とまあ、兎にも角にも、身軽に私の肩に飛び乗ってきた猫は大きな花瓶を持つ私の手目掛けていきなりパンチしてきた。
痛いわ!なんでさ!なんて言葉を発するよりも先に花瓶が揺れる。中の水が零れる。よりにもよって、恐ろしいまでに綺麗に姫様の胸に掛かる。…あ、終わった。私の人生、マジで終了だわ。ありがとうございました、さようなら。いや、姫様は快く許してくれるに違いない。「猫ちゃんだってわざとじゃないもの。それに、落として割らなくてよかったわ」的なことを言って許してくれると思う。だって姫様だし。でも姫様の後ろで私を睨み付けてくる男は絶対に許してくれない。悲しいまでに確固たる確信がある。具体的には死ぬ。私は殺される。
「─────。」
「…バカ女……。」
「す、ッ…すみません姫様ぁーーー!!!!!」
一瞬でびしょ濡れになったワンピースドレスを見下ろして茫然とするその表情も最高に良いけど、そんな姫様の後ろで心底イラついたように前髪を掻き毟っては溜息交じりに恐らく確実に絶対に私に対してそう吐き捨てるお坊ちゃまに血の気が引く。やったのは私じゃないよ。猫だよ。でもなし崩し的に私の猫だから、それってつまりはやっぱり私の責任なのかな?いやもうこの際私の責任でいい。甘んじて受け入れます。私の監督不行届で誠に申し訳ございませんでした。だから殺さないで。もう少し生きていたい。私はもっともっと姫様を摂取してから死にたいし、なんなら死ぬときは姫様の手で殺して欲しい。
って違う違う、死ぬのはいいけど今はそれどころじゃない。いや、死ぬのも良くないけど!とりあえずはもう秋も随分深いのだから、今すべきは姫様が風邪を引かないように着替えをですね。いや、その前にまずは滴る水を拭いてですね!「失礼します…!」と一声掛けてから、持っていた布でそっとワンピースドレスを抑える。あああ、私今姫様に触れてる!姫様のお召し物越しに、姫様のお身体に触れてる!!姫様のお身体に触れた水に触れてる!!って私は変態か!!いや、でも姫様に罵って貰えるなら変態でいい。その際は是非とも無邪気な笑顔と共に辛辣に罵って頂きたいものです。
「ううん、いいの。だいじょうぶ。猫ちゃんのやったことだもの、怒ったりしないわ。花瓶が割れたり、けがをしたりしなくてよかった。」
「うう…すみません……。」
「もう、いいのよ。…きっと、私がお姉さんと仲良くしすぎて猫ちゃんが妬いちゃったのね。きっとそうだわ。」
「おっ、お姉さん…!?」
いや、多分逆です姫様。というか確実に逆です。だってこの猫、雄ですよ?そして聞きましたかさっきのあの媚びた声!どー考えたって私に妬いてるに違いない。姫様、貴女結構魔性の女ですよね?猫に私にお坊ちゃまにさあ!でも姫様は至って真面目で、おまけに無自覚なのが末恐ろしい。うーん、純粋って怖いなあ。まあそんなところも含めて姫様だし、私はそんな姫様に絶賛恋してるんですけどね。
というかひ、姫様が私のことをお姉さんって!はあ?何?私を殺したいんですか姫様は?!こんなのヴァルシオ家のお坊ちゃまに手を下される前に余裕で死ねるわ!!なんて余韻に浸る私に、そのお坊ちゃまが「…もういい。」だなんて言って私の手から布を取り上げる。いやダメです私は良くない。もう少し姫様のお身体に触れてたい。もう変態でもなんでもいいからもっと触らせろ。…と言えたら人生楽しいんでしょうね、はい。諦めて素直に大人しく、布を取り上げられる。
「姫様、お風邪を引くといけませんから着替えましょう。お部屋までお運びしますから、掴まって下さい。」
「…リーン。わたし、自分で歩けるわ。」
「ダメです。掴まって下さい。」
「……リーンも濡れちゃうわ。」
「姫様の為なら濡れるくらい平気ですよ。それと、そういうことはご自分の姿をきちんと見てから言って下さいね。」
はあ?いや、普通に意味わからん。何?なんで?いや、姫様が濡れちゃったから着替えさせるのは分かる。でもなんで抱き上げようとする?お前姫様の恋人か???膝をついて姫様を抱き上げようとする仕草が無駄に決まってるのがまた腹立たしい。腐っても騎士なんだなあ。そしてお坊ちゃまに言われて、改めて自分が濡れ鼠なことに気が付いて頬を染める姫様のなんと可愛らしいことか!眼福ってこういうことなんだろうなあ。幸せだなあ。いや、この後何を言われるか想像するとそんなことも行っていられないけれども!
ていうかさあ、女同士だからこそこの後「姫様、私のお洋服で良ければ…」的な展開があるんじゃないのか?!お約束じゃないのか!?堂々と姫様のお着替えを手伝えれるんじゃないのか!?こちらとて真面目に生きてるっていうのに、なんでその機会はおろかきっかけさえ奪われなくちゃいけないんですか?なんて理不尽な世の中なんだ…。やはりお金も地位も潤沢なお坊ちゃまには適わないことなんですかね。でもでも、姫様への愛に関してはまるで負ける気がしないから安心して欲しい。
「──わかったわ。おねがい、リーン。…それとごめんなさい、お姉さん。……また、お話して下さる?」
「はい、勿論です!姫様さえ宜しければ、いつでもどこでも!!」
「…よかった。ありがとう。」
不安そうな姫様に食い気味にそう返せば、安心感に緩んだ頬になんだか私までつられて微笑む。ああ、姫様のこの怯えた小動物みたいな表情も、飼い主に褒めて貰えた小型犬みたいな表情も、全てが尊い。最早国宝なのでは?デレデレと頬が緩んで仕方がない。でも仕方がないよね、姫様が可愛いのが悪いんだもの。あ、勿論変な意味じゃないよ。さっきはもう変態でもいいって言ったけれど私は至ってノーマルな人間ですので。ん?女の癖に女に惚れるのはノーマルじゃない?いやだなあ、今時性別なんて細かいものを気にしてたら世界に置いて行かれるぞ!それにほら、私の姫様への愛はノンセクシャルだし?だから大丈夫、ヘーキヘーキ!!あ、そこの男は知らないけどね。どうせいいとこのお坊ちゃんだ、姫様をそういう目で見てるんだろう、この不埒者め!!
とまあ、1人で内心悶々としつつも相応に盛り上がる私を冷たい瞳で一瞥した後、いいとこのお坊ちゃんことリーン・ヴァルシオという男は私に容赦なく姫様を抱き上げた。て、手慣れてやがる…!さては貴様、普段から姫様のこと抱っこしてるんだろう!おまけにそこそこに絵になるんだからくそ、この美男子め。悔しいけれど私じゃとてもじゃないけれど敵わない。でも、姫様がいつまでも私に向けて手を振ってくれたから、今回だけは特別に不問にしてやろうかな。嫌味も言われなかったしね!
但し猫、お前はダメだ。
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