番外編_姫様と私(3)
兎にも角にも、私が姫様に一目惚れしたあの日から約1か月。漸く国中のお祝いムードも収まってきて、以前と変わらない生活がゆっくりと忍び寄ろうとしていたある春の日。
籠一杯に詰め込まれた林檎に両手を塞がれながら調理場へ急ぐ私の後を、あの裏庭に勝手に住み着いた猫がつけてくるものだから困ってしまった。多分、残飯を処理する度に魚の骨だの皮だのやっていたから、私のことを召使いかなにかと思っているのだと思う。いやまあ、間違いじゃないけどさ。でもまさか猫からも下に見られるなんて夢にも思わなかったから溜息をひとつ吐く。
「お前、摘まみ出されても知らないからね。」
綺麗な亜麻色の猫にひとこと忠告するも、当然それが聞き入られることはなく。寧ろ知らん顔で悠々と場内を闊歩する様に、もう1度溜息が零れる。
けれど、そんなことをしても籠の中にぎっしり詰め込まれた林檎が軽くなるわけでもなく。それどころか私にとっては余りの重労働に遠のき始める意識の中、せめてもの近道をしようと中庭に続く道へと足を動かす。また溜息が零れる。けれど最近の私は、こういうときの対処法を決めているから平気だ。そう、何もかも嫌になってしまいそうな時は、あの日見た姫様を思い出すに限る。甘い春色の髪とあどけない顔立ちは、文字通り人形みたいだったなあ、なんてうっとりとしながら歩いていれば、不意にあの猫が駆け出して行った。
まあ、別にあの猫がどこに行こうと私には関係ないけどさ。目の前で摘まみ出されでもしたら、流石に可哀そうだから慌てて追い掛ける。心の中でこっちは荷物持ってるんだぞ、と毒づく。運動不足が祟ってすぐに荒がる息で必死に追い掛ける。すると前方で「きゃあ!」と誰かの小さな悲鳴が聞こえて、反射的に「すみません!!」と叫んだ。いや、別に私はあの猫の飼い主じゃないけどさ。でも一方的とはいえ話し掛けていた手前、やっぱり情が沸いてはいるから、恐らくあの猫が迷惑を掛けたであろう誰かへ頭を下げる。中庭の地面を見詰める。視界の端にあの猫が、目の前の人の足へじゃれているのが映り込んだ。なんだこいつ。
「本当にすみません!この猫、別に私の猫じゃないんですけど…でも最近城に住み着いててですね、あの、何卒摘まみ出すのだけは勘弁してやって下さい!こう見えても結構可愛い顔はしてますので!!」
「まあ、本当。とってもかわいい猫ちゃんね。…ねえ、わたしなら気にしていないから、顔をあげてちょうだい?」
「本当にすみません!どうもありがとうございま…す……?!」
良かった。どうやら優しい人だったみたい。お前、自分が私とこの人のおかげで命拾いしたってことを感謝しろよな、なんて思いながらゆっくりと顔を上げる。春の日差しの下、目の前の人の上質な赤いワンピースドレスが視界に映る。…こんな服着てる人居たっけ?少なくとも使用人ではないことを理解して、ますますお前はラッキーな奴だよと猫へ視線を向ける。次いで、桜色の髪が春風に合わせて揺れるのを見る。とても綺麗な色だった。……桜色の髪だなんて姫様とお揃いで、なんだか悔しい。そして妬ましくて心の中でこっそり舌打ちする。
そうして最後に目の前の人の顔を見た時、金色の瞳と目が合って思わず籠を落とした。足の上に落ちる林檎の衝撃なんて気にならないくらいに目の前のその人と、この状況が信じられなくて言葉を無くす。絶句ってこういう時のためにあるんだろうな、なんて頭の片隅で考える。
「…だいじょうぶ?」
「大丈夫だけど大丈夫じゃないです…。」
「ふふ、なあにそれ。へんな人ね。」
いきなり言葉を無くした挙句に足の上に大量の林檎が入った籠を落とし、おまけに心配も余所に訳の分からないことを口走る私を見て、その人──姫様が笑った。月みたいに綺麗な瞳がすぅっと細められて、文字通り鈴を転がすような甘い声でくすくすと笑って、可憐な笑顔を私に見せる。あの時、遠くから一目見ただけで恋に落ちてしまった相手が、今、目の前で微笑んでいる。やばい。心臓が五月蠅い。自分と同じ生き物とは思えない、目の前の愛らしい少女に頭が沸騰しそうになる。なんだこれ。1日に摂取していい幸せの規定量を超えてる。声まで可愛いとか何なの?そりゃあかみさまに連れて行かれそうにもなるわ!なんて頭の中で叫ぶ。ごめんなさい姫様、貴女の目の前の女は貴女が想像しているよりも確実に変な女です。
「りんご、落としちゃったわね。一緒に拾いましょう?」そう言ってしゃがみ込むと林檎を拾い、籠の中に入れる姫様のその一挙一動さえも可愛らしい。そして、生まれて初めて林檎になりたいと思った。私だって姫様の小さくて可愛い掌に包まれたい。暫しその様子に見惚れてしまうけれど、もとはと言えば私が勝手に落とした林檎だ。別に相手が姫様じゃなくたって自分の犯したミスである以上、手伝って貰うのは流石に気が引けた。両手と首を全力で横に振って、その申し出を断る。
「だ、大丈夫です。第一、姫様にそんなことさせられません!」
「…でも、一帯りんごだらけよ?ひとりで拾うのは大変じゃない?わたし、手伝うわ。」
「いやいやいや!本当に!大丈夫ですから!!」
「………わたしはいいのに。」
少しだけ不満そうに唇を尖らせて、むくれた表情で私を見詰める姫様に心臓がやばい。もう一生分仕事してるんじゃない?って速さで動いてる。そんな私を見てのことかどうかは分からないけれど、あの猫がにゃあんと鳴いた。それを見た姫様が「ほら、この子もわたしも手伝うべきだって主張してるわ。」と真面目な顔で言うものだから、うっかり死んでしまうところだった。咄嗟に両手で顔を覆い、だらしないどころの話じゃない顔を隠す。
すると姫様は私が泣いていると思ったらしく、「な、泣かないで?失敗は誰にでもあるってお父様が仰ってたわ。それに、わたしも手伝うからだいじょうぶよ。ね?」と少し慌てた声で語り掛けては励まそうとしてくるものだから、もしかしたら私は明日死ぬのかもしれない。きっとこれが生前最期の幸せなんだろうなぁ。良い人生だった。最早我が人生に一遍の悔いなし。そんなことを考える。
「ありがとうございます、姫様…。」
「ふふ、どういたしまして。」
何はともあれ、色んな意味でお礼を言わねばと出した声はそれなりに震えていた。なんだこれ。本当に泣いてるみたい。いや、ある意味では泣いてるけどさ。感極まって心の中は大号泣だけどさ。そりゃあ姫様じゃなくても勘違いするわと納得した。
一方で漸く手伝いの申し出を受け入れた私に満足したのか、顔を覆う両手の隙間から伺った姫様は声を弾ませては再びしゃがみ込んで林檎を拾っていた。その最中もまとわりつくあの猫に対して楽しそうに笑っては話し掛ける姿を、私は目に確りと焼き付ける。嗚呼、可愛い。そして名もない猫もありがとう。毎日魚の骨や皮を恵んでやった恩が巡り巡って、こんな形で返ってくるだなんて生きてて良かった。心底そう思った。それから、長年の徳が実を結んだこの至福の時間がすぐに終わってしまわないように、なるべくゆっくり林檎を拾う。真面目とは言い難いけれど、それなりに不真面目にもならずに生きてきたんだから、これくらいの我儘と贅沢ならきっとかみさまだって許してくれる筈。現金で都合のいい私は、今この時ばかりは思う存分かみさまを持ち上げてはそんなことを思うのだ。
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