愛を連れ出して、硬い殻を破り捨てて(5)
冬の日は短い。太陽が頭上に昇ったかと思えば、少し微睡んでいる間にもう地平線の彼方に沈んでしまう程度には短い。夕焼けが降り積もった雪を赤に染めて、何かに急かされているかのように海の向こう側に消えていく。するとあたりが一気に闇に包まれる代わりに、空には煌々と星が煌めき出す。肺臓を満たす冬の冷たい空気は身体の奥底から熱を奪う代償に、遠い遠い場所に在る星までの道筋を示す。
姫様が俺の部屋を訪れたのは、そんな時間のことだった。こんな時間に1人で男の部屋まで来るなんて…と苦言を呈そうとしたけれど、それよりも先に春の訪れを思わせる柔らかく朗らかな笑みを浮かべながら「ねえ、お散歩に行かない?」と言われてしまえば、小言を言う気も失せてしまった。代わりに溜息をひとつ。それから、防寒具を一式掴んで「…少しですよ。」と口にする。嬉しそうに頷く姫様の首に、俺のマフラーを巻いてやる。俺の匂いがすると言って目を細めた姫様は、やっぱり狡い人だと思った。
「ねえ、リーン。」
「なんでしょうか。」
「どうだった?」
こっそりと城を抜け出して、海へ続く道を歩く。夜の静けさに細波の音が染み渡る。少し手を伸ばせば触れることの出来る距離で、ゆったりと砂を踏みしめながら歩く姫様の背中を見詰める。自分から散歩に行きたいと誘っておいて、そのくせ此処に来るまでひとことも言葉を発しなかった姫様が徐に口を開いたかと思えばそんなことを言うものだから、一体何のことを言っているのかと一瞬考えた。けれど深く考えるまでもなく、それが何を意味するかはとうに分かり切っている。
小さな背中から視線を外す。引いては押し寄せる波を、海を、いつもより大きく浮かぶ月を見ながら、思案する。
──俺が、アイデス家を訪れてから数日が経っていた。
ヴァルシオ家との交渉の日時が決まったという連絡が入ったのは、今日のことだった。3日後の正午。母上は、22年振りに単身ヴァルシオ家を訪れる。「大丈夫、全部この天才魔術師レティシア様に任せておきなさい!」だなんて、実に母上らしい伝言だと思った。ただ、ひとつ問題があるとすれば「あ、そうそう。お礼は可愛い息子の可愛い彼女の紹介でいいぞ☆ていうかどこまでした?手繋いだ?チューした?告白はどっち?!今度根掘り葉掘り聞きに行ってやるから、顔を洗って待っとけよな!!」というふざけた一文で締められていたことだろうか。けれどそれさえも母上らしくて、少しだけ笑ってしまったのは内緒だ。……まあ、出来ることならば勘弁して欲しいが。
ローシェとの交渉の席には、俺もいた方が良いと思っていた。否、陛下や殿下を巻き込んで大事にしてしまった以上、俺も同席すべきだと思った。けれど母上はそれを良しとしなかった。あくまでも「ひょんなことから息子の現状を知った母親がそれを不憫に思い、半ば強引にアイデス家へ引き込もうとしている」図式でなければいけないと言われたからだ。深く考えるまでもなく理由はすぐに分かった。俺へのヘイト、ひいてはこの国へのあらぬ噂や風評被害を避けるためだ。貴族王族の世界というのは正しく泥沼だ。何が失脚を招くか分からない。だから、母上は自分一人が悪者になろうとしている。…俺に、未来があるから。出来てしまったから。
「……とても、明るい方でしたよ。そして、強い方でした。地獄を味わった筈なのに、それを微塵も感じさせないくらいに明るくて、真っ直ぐで。…あの人が私の母上で良かった。心の底から、そう思います。」
「リーンがべた褒めるってことは、本当にすばらしい方なのね。ぜひお会いしたいわ。」
「母上も同じことを仰っていましたよ。是非、殿下と姫様と3人でお茶を囲みたいと。」
「ふふ、嬉しい。…お母様だけじゃなくて、わたしとも仲良くして下さるかしら?仲良しになれるかしら?」
「ええ、きっと。とても楽しい方ですから。」
海から姫様の小さな背中へ視線を戻して、そう答える。心配するまでもなく、母上は姫様を気に入るだろう。何しろ姫様は殿下に本当によく似ていらっしゃる。ぼうっとしていているところ、のんびりしていているところ、独特の世界を持っているところ。それだけじゃない。従者としての贔屓目を考慮しても、姫様は実に素直で愛らしい人だ。きっと…いや、絶対に母上だって姫様を気に入るだろう。寧ろ気に入りすぎて俺の入る隙間が無くなるんじゃないかと、少しだけ不安になる。
けれどその不安さえも何処か楽しみにしている自分が居るのだから、本当に俺はこの国に来て変わったと思う。そして、俺を此処まで人間味溢れる男にして下さったのは、紛れもなく数歩先を行くあの小さな背中の人。初めて心の底から守りたいと願った人。春の海と同じ色の髪に、琥珀色の瞳。透き通った空のような肌と、子供のように純真無垢な心。何もかも受け入れる振りをして逃げていた俺とは違って、理不尽な運命さえも真正面から受け入れる強さを知っている人。あの日、初めて見たうつくしい人。
その人が、不意に足を止めた。だから俺も足を止める。頼りない背中を見詰める。細波が月明かりを運んでくる代わりに、砂浜に刻まれた小さな足跡を攫っていく。そんな幻想的な景色の中で佇む背中の美しさに見惚れる。繊細なビスクドールのような彼女に手を伸ばそうとした瞬間、波の音の中に綺麗な音が混じった。
「…ごめんなさい、リーン。」
「………主語がなくては許すことも許さないことも出来ませんよ、姫様。」
2人の距離は変わらない筈なのに、その言葉を聞いた瞬間にその背中がとても小さく見えた。俯いて、小さく縮こまった背中。一体彼女が俺に何を謝るというのか。分からないから、ついこの間彼女が言っていた言葉を真似る。その瞬間びくりと震えた肩になんだか俺が姫様を虐めているような気になってきて、気まずさから頬を掻いた。その間も、細波は俺たちの歩いた証を攫って行く。海の中に還っていく。冬の盛りを越したとはいえ、まだまだ海は冷たい。凍えた海水が足先に染みる。その間も姫様は俯き、黙り込んだまま。このままではらちが明かないし、何より風邪をひいてしまう。一先ず姫様の手を引いて波打ち際を離れようと一歩踏み出した瞬間、波の音に混じって小さな嗚咽が聞こえた。
「──わたし、あなたになにもしてあげられなかった。」
予想だにしていなかった言葉に目を見開く。驚きのあまり、一瞬呼吸を忘れそうになる。今にも消え入りそうなか細い声は震えながらも、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「お父様はアスタロトを言い負かせて、霊薬を譲ってもらったわ。お母様はたくさんいらっしゃるお友達の力を借りて、リーンのお母様にアポイントメントをとったわ。リーンのお母様はリーンの為に、矢面に立って下さる。…でも、わたしはなにもできない。あなたにしてあげられることが、ひとつもないの。わたし、それがとても悲しい。とても悔しい。わたしだって、あなたのためになにかしたいのに。でも、どれだけ探してみてもできることなんてひとつもなくて、そのたびに無力な小娘なんだって思い知らされる。」
「…姫様……。」
「……だから、ごめんなさい。なにもできないわたしで、ごめんなさい。」
きっと、この国に来る前ならば本当にその通りだと鼻で笑っただろう。なんて無能な主人なんだと心の底から軽蔑しただろう。けれど今は違う。この国に来て、姫様に出会って、彼女と共に実に多くのものに触れた。それらを通して姫様に触れた。彼女の真っすぐで純粋で、陰りひとつない無垢な明るさに触れた。そうして、最後は彼女自身に触れた。とてもうつくしい人。儚く、そして強い人。そんな人が無力である筈がない。そうして自分を卑下していい筈がない。だから彼女の背中に向けて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「………いいですか、姫様。それは違います。これ以上そんな下らないことを言ったら、流石の私も怒りますよ。」
「でも…!」
姫様が振り返る。あどけない顔と愛らしい瞳は涙に濡れていた。目尻から零れた涙は頬を伝い、空と海に浮かぶ月明かりを反射してぽたりと地に落ちる。そうして押し寄せる波に攫われて、あの海へ還っていく。忠告したにも関わらず、尚も泣きぐずりながら自分を否定しようとする姫様に「怒られたいんですか。」と声に少しばかりの怒気を込め、尚且つ感情を抑えた声色で呟くと必死に涙を拭うその手を取る。姫様が息を呑んだ。次いで、不安そうに俺を見詰める。自分でも驚く程に思っていたよりも冷たい声が出たのだ、本当に怒られるのではないかと怯えた表情を浮かべる姫様に申し訳なくなった。だから、せめてもの侘びにもう一方の手で涙を拭ってやる。「…私が姫様を怒れるわけないでしょう。」そう言って頬を撫でて、頭を撫でて、前髪を掻き分ける。露わになった狭い額に、そっと唇を落とす。それからこつんと額と額を合わせ、互いの呼吸が互いの肌を擽る程に近くなる距離で姫様を見詰める。……どうして繊細な少女の繊細な心に影を落とす不安に気付いてやれなかったのだろう。僅かに入った傷に気付いてやれなかったのだろう。そんな後悔が押し寄せる。姫様がただの気まぐれで、俺を月夜の散歩に誘う訳などないだろうに。申し訳なさに痛む胸を抑えながら、姫様に向けて言葉を紡ぐ。
「いいですか、姫様。空っぽだった男を満たしたのは、貴女の愛です。いつ死んでもいいと思っていた男に未来が欲しいと思わせたのは、貴女の愛です。貴女がいらっしゃらなければ、私は愛を知らないままでした。化け物のままでした。母上との再会など、夢のまた夢でした。だから、姫様のそれは間違いです。私という人間の始まりを創って下さった貴女が、無力な筈がないのです。」
「……ほんとうに…?」
「おや、嘘の方が宜しかったですか?」
態と意地悪な言葉を口にすれば、姫様がふるふると首を横に振る。泣き笑いの顔で「最近のリーンはいじわるだわ。」とぽつりと呟く。けれど頼りない声色と言葉とは反対にその瞳からは漸く涙が姿を消して、普段と変わらない甘い色をしていた。至近距離で見詰めるその瞳がとても愛おしい。だから「姫様が可愛らしくて、いじらしいことばかり言うのがいけないんですよ。」と冗談交じりに言葉を返して、狭い額と濡れた頬に口付けてからそっと顔を離す。けれど先程紡いだ言葉と想いは紛れもなく本心からのものであることを分かって欲しくて、姫様は無力でもなければ無能でもないと理解して欲しくて、その場に片膝をつく。半ば無理やり繋いだ小さな掌に、騎士らしく唇を落とす。1度では飽き足らずに2度3度と、以前あの憎たらしい兄がこの掌に口付けた過去を塗りつぶすようにその滑らかな肌に唇を落とす。この口付けに込められたのは従者としての想いだけではない。恋情、慕情、感謝、それと、紛れもない執着心と嫉妬。子供染みた独占欲。特に姫様の掌に口付けた時のローシェのあの嫌らしい笑みを思い出す度に燻る胸の奥に、俺は自分がこんなに嫉妬深い男だとは思いもしなかった。
「…本当ですよ。」
真剣な眼差しで姫様を見上げる。「全部、本当ですから。私の、貴女への想いも。貴女が私に下さった、たくさんのものも。」恥ずかしげもなくもう1度そう囁けば、姫様が小さく頷いた。その頬は月明かりの下でも分かる程に真っ赤だった。そんな姫様が心の底から愛おしくて、再度掌に唇を落とす。この人が甘い笑顔を浮かべてくれるなら、俺は恥も外聞もどうでもいい。どんな酷評だって謹んで受け入れよう。それ程までに俺は姫様に夢中になってるのだ。花のように可憐で、鳥のように優雅で、それでいて凛としていて。そのくせいつまで経ってもあどけない少女で、純新無垢な天使のようで、けれど時折酷く狡い乙女の顔をするこの人に。
「…ねえ、リーン。」真っ赤な頬と甘い瞳と愛らしい声で、姫様が俺の名前を呼ぶ。その瞳に俺だけが映っていることがとても誇らしくて、そして嬉しい。誰に対してでもない優越感を感じる。「なんでしょうか、姫様。」そう言って彼女の大きな瞳を見詰める。月明かりが海を照らし、月へと続く果てのない路を描く夜。何処までも歩いていけそうな眩い夜。何処までも広がる幻想的な風景の中で、じっと姫様の言葉を待つ。そのままで見詰め合うこと暫し。徐に彼女の口元が弧を描いた。
「──ふふ。呼んだだけ!」
甘い瞳と声と、それから悪戯っ子の顔。恋する少女の顔。自分が愛されていることを充分に知っている、狡い乙女の顔。そんな愛らしい顔に満面の笑みを浮かべて、思い切り抱き着いてきた姫様を受け止める。咄嗟に繋いでいた手を離す代わりに、その小さな背中を抱き締める。そうして俺の胸の中に閉じ込めてしまえば、どうしようもない程に愛しさが込み上げてくる。…本当に仕方のない人だ。思わず溜息が零れた。けれどそれは呆れ返ったが故に零れた溜息ではない。胸の奥がじんわりとあたたかいもので満たされていって、幸せな気持ちが溢れ出したが故に零れ出した、贅沢な溜息だ。
「……うそ。本当はね、あなたの名前を呼びたかったの。あなたの名前を呼べるしあわせを、確かめたかったの。」蜂蜜みたいに甘い声が耳元で囁いた言葉に頬が緩む。そうして緩んだ頬に姫様が何度も頬擦りするものだから、釣られて俺も姫様の頬に頬擦りした。
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