愛を連れ出して、硬い殻を破り捨てて(3)
石畳の僅かな段差に合わせてがたり、ごとりと馬車が揺れる。その度に感じる一瞬の浮遊感には慣れている筈なのに、何故かその度に心が騒ぐ。心臓は痛い程熱心に拍動し、それに合わせて呼吸が乱れる。酸素は指の先々まで充分に行き渡っているのに、窓の外の景色を眺める余裕すらないせいか視界が白む。俯いて目を閉じると、嫌な汗が肌を伝うのを感じた。
どうにか気を落ち着かせようと前髪を掻き毟ると、その手をそっと絡め取られる。思わず顔を上げて、俺の横に座るその人を見る。「だいじょうぶ、大丈夫。…ね?」そう言って目を細め、何処かあどけなさを感じさせる笑みを浮かべる殿下を見詰める。子供をあやすような優しい言葉、強張った緊張を解す甘い声。姫様を思わせるそのひとつひとつにぎこちなくだけれど頷くと、殿下は花が咲いたような笑顔を浮かべた。
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「さて、残る問題はヴァルシオ家についてだが…僕は元々、只の商人にしか過ぎない身だ。だから貴族間の決まり事や暗黙の了解、そういうものには滅法疎い。赤子同然と言ってもいい。」
テーブルの上には小さな小瓶がひとつ。硝子でもなければ金銀の類でもない、恐らくは未だ人間の知らない──或いは、人の手には決して与えられることのない物質に、繊細な模様が描かれたそれは照明を反射させ、まるで流星群のように輝きをばらまく。それを見下ろしながら陛下はひとこと、俺に「済まないね。」と申し訳なさそうに謝った。此方が感謝することはあれど、謝られる理由も筋合いもないだけに慌ててその言葉を否定すると陛下は僅かに口角を上げ、真っ直ぐに此方を見詰めると優しい声で俺を真面目な男だと言って下さった。思わず恐縮する。陛下はそんな俺を見て明るい声で笑うと次いで隣で静かに耳を傾ける殿下を見詰めて、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。
「……だから、ベロニカ。君に聞きたい。どうすれば波風を立たせずに、なるべく穏便に済ませることが出来る?」
「まあ!ヨシュア様がわたくしを頼ってくださるなんて…。ええ、ええ。そうですね。ひとつ、とても簡単な方法がありますわ。」
「本当かい?流石は美人で賢くて気立てが良い僕のベロニカだ。」
「もう、ヨシュア様ったら。嬉しいけれど、でも、恥ずかしいですわ…。」
姫様と同じ、とてもゆったりとした口調。間延びした平和な語り口。暖かい春の日に牛が草を食みながらのんびり転寝するような、おっとりとした声。それでいて陛下を見詰めるその瞳は、誰がどう見ても一目で分かるほどに喜色と愛情で満ち溢れているのだから、確かにこれではあの女神の付け入る隙などあるまい。互いを讃え合い、認め合い、仲睦まじい両陛下を見れば見る程に姫様が姫様で在られる理由がわかってくる。そして、少しだけ胸が苦しいような気がして目を逸らす。すると陛下は流石に気まずそうに咳ばらいをひとつした。咄嗟に違うのだと口にしようとするも、それよりも先に陛下が殿下を促したからついに否定するタイミングを失ってしまった。殿下は気まずそうな陛下と、恐らくは困った顔をしているであろう俺を見て小首を傾げ、陛下を見詰めること暫し。何拍か置いて漸くこの状況に追いつくと、姫様と同じ眩しい笑みを浮かべてこう言った。
「リーン。あなたの生家を──ヴァルシオ家を、捨ててしまえば良いのです。」
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馬車が止まる。相変わらずの間延びした声で「あら、着いたみたいね。」と殿下が呟く。逸る鼓動を押さえて馬車を下りる。殿下の側のドアを開けて、手を差し伸べる。「ふふ、どうもありがとう。」朗らかな笑みと共に感謝の言葉を口にするこの人が本当に眩しい。本当は俺の方こそ何か言葉にすべきなのだろうけれど、何と言えばよいのかわからないから黙って首を横に振ってから眼前に聳える豪華で豪奢、それでいて繊細で緻密屋敷を見上げる。
──アイデス家。世界でも5本指に入る魔術師の大家。俺の中に流れる、もう半分の血。名前はおろか、顔さも知らない母親の生家。いざ目の前にすると緊張のあまり、胸の内が言葉にならない感情で溢れ返るものだから思い切りシャツの胸元を握り締めた。「ごきげんよう。ご連絡、いっているかしら?」殿下が門番に、にこやかに話し掛ける。頭上で輝く王冠に門番が慌ててはすぐさま門を開ける様を、のんびりとした殿下は矢張り小首を傾げて眺めていた。
「───あなたのお母様とお友達になったのはね、まだ小さな子供だった頃のお話。田舎の貧乏貴族に変わりはなかったけれど、まだ幾らか裕福だった頃の思い出。小瓶に詰めて、窓辺に並べて、いつまでも眺めていられるような小さな幸せでした。」
すぐさま屋敷内に通され、彼女の半歩後ろを歩くこと暫し。徐に殿下が口を開いた。
「貴族の世界というものは、とても悲しいものです。物心つかないうちから、自己が確立する前から、まだ子供にも関わらず、大人の都合で対立し合う。…だから、貴族の令嬢ばかりを集めた女学校は、正直言って苦手でした。その…ほら、わたくしって、のんびりしているでしょう?どうにも、そういうことについていけなくて。」
殿下の斜め後ろを歩きながら、ちらりとその表情を伺う。眉尻を下げ、心底困った様子のその顔は姫様が時折浮かべるものと一緒だった。
「だから、いつも独りでした。誰かの悪口を言って、無意味に争うよりはずっといいのだと自分に言い聞かせていたけれど…本当は、とても寂しかった。お友達が欲しかった。──そんな時です。あなたのお母様が、お友達になりましょうと言って下さったの。」
「───母上、が。」
「ええ。男ばかり5人兄妹の中育ったせいか、言葉こそ『あたしの家来にしてあげる』なんて、少し乱暴なものだったけれど。でも、そう言ってわたくしの手を引いてくれた彼女の掌は、とても優しかった。嬉しくて嬉しくて、わたくしは本当の家来のように彼女の後を着いて歩きましたわ。……だから、家の都合で女学校を辞めることになってしまった時、一晩中泣いて別れを惜しんでくれた彼女を見て、とても不謹慎だけれど…とてもとてもとても嬉しかったのを、今でも覚えているのです。」
先頭を歩いていた案内役が足を止め、1枚の扉を指す。それに合わせて足を止める。……この扉の向こうに、自分を産んだ人がいる。名前も顔も知らない誰か。けれど確かに血の繋がっている、もうひとりの親。
──もし、拒まれたらどうしようかと考える。幼少期、女学校以来の再会となる殿下のことは、きっと無条件で喜ぶだろう。…でも、俺は?父と母は陛下と殿下のように、愛し合って結婚したわけじゃない。父は母の類稀なる魔術の才が欲しかっただけ。母は…分からないけれど、貴族という身分を考えれば自ずと答えは出てくる。大方、母にとっての父──つまりは、自分にとっての祖父にあたる人物の命令だろう。ヴァルシオ家という、大陸でも有数の大貴族が婚姻関係を結びたがっているのだ。余程の人格者でない限り、喜んでサインしない道理はない。──だから、きっと。もしかしたら、俺の顔を見て出て行けと詰るかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。そもそも自分といういのちの始まりは体外受精。ポットの中で上手く育たなかったから俺を見た父が、母の腹を借りて産ませただけの存在なのだ。だからきっと、きっと──。
そんなことばかりをつい考えてしまう頭を、真っ白な掌が撫でる。視線を上げると殿下と目が合った。「…わたくしはね、あなたのお母様がアイデス家の人間と聞いて、運命を感じたのです。とても良い運命を。だから、だいじょうぶ。」そう言って慈しむように何度か俺の頭を撫でた後、そっと扉を叩く。
──コン、コン。
小さく、控えめな音が空中に溶けていく。一方で、俺の心臓はどくりどくりと早鐘を打つ。いっそうのこと、このまま永遠に返事がなければいいのにという思いと、早く会ってみたいという思いが混ざり合い、どろどろに溶けて五臓六腑に染み込む。「──どうぞ。」扉の向こうから聞こえてきた声に、息を呑む。「わたくしが呼ぶまで、少しだけここで待っていて。」そう言ってノブに手を掛ける殿下へ、静かに頷く。否、それだけしか出来なかった。きぃ、とか細い悲鳴を上げながらゆっくりと開いていく扉に、今度は唾を飲む。……そうして、扉が開かれた。
「ごきげんよう、ミス・アイデス。子供の頃、女学校でほんの少しの間だけあなたに仕えた家来を覚えていらっしゃるかしら?」
「………ええ、勿論。とろくって、鈍くって、マイペースで、独特の世界を持っていて、お陰様で何を考えてるのかまるで分からない不思議ちゃん。あたしが着いていてあげないと、何をしでかすか分からないトラブルメーカー。───久しぶり、ベロニカ。家来の癖にすっかり遠い人になっちゃってさぁ、この!」
「ふふ。お久しぶりね、レティシアちゃん。…突然のこと、それも30年以上途絶えていた縁なのに、会ってくれてありがとう。」
「いいのいいの。今は…というか、もうずっと暇だからさ。……で、何?早速で悪いけどさ、この30年ばかしの間にちょっといろいろあってね。ベロニカに頼って貰えるのは嬉しいけど、多分、あたしが女王様の役に立てることなんて──」
扉の向こうから聞こえてくる会話に耳を立てる。のんびりとした陛下の声の次に聞こえてくるのは、自信に満ちた快活な声。けれど僅かに暗い影が落ちているように思えるのは、きっと気のせいじゃない筈。…レティシア。初めて知った母の名前を、心の中で呟く。何故だろう。初めて知った名前を初めて心の中で反復しただけなのに、何故だか泣きたくなるくらいに懐かしい気がした。
「いいえ、あるのです。レティシアちゃん、あなたにしかできないことが。あなたにしか頼めないことが。………どうか、彼に会って貰えますか?」
「彼………?」
訝しげな声など気にも留めずに、殿下が俺を呼ぶ。唾を飲み込んで、何度か深呼吸して、今にも口から飛び出そうな心臓を押し込む。一向に収まらない鼓動を静めるのはもう諦めた。ノブを握る。ほんの少し、力を込めて傾ける。か細い声を上げて扉が開いた。室内に一歩足を踏み入れて、うやうやしく頭を下げる。そうしてゆっくりと頭を上げるけれど、視線は下げたまま。視界には殿下ともうひとり…レティシアと呼ばれた、俺の母親で在ろう人の靴先だけが映り込む。
…好奇心はある。どんな人なのだろう。どんな顔をしているのだろう。どんな表情をする人なのだろう。けれど、それ以上を瞳に映す勇気がない。知る勇気がない。だから息を殺して、その時を待つ。
「彼の名前は、リーン・ヴァルシオ。…これ以上の言葉は、必要ありませんよね?」
「───────」
ごくりと、彼女もまた俺と同じように息を呑んだのが、空気を通じて伝わった。肌に刺さる視線が痛い。それが歓喜なのか、無関心なのか。はたまた思い出したくもない過去に打ちひしがれているのか。呼吸音のひとつも感じない程に緊張した身ではなにひとつとて分からない。あまりにも何もわからない不安に、いっそ顔を上げてしまおうかと考えて、やめた。万が一、母であるこの人が失望や絶望、嫌悪や憤怒。そういったものを俺に感じて、抱いて、憎しみの籠った目で見詰めていたら?ただの他人ならばいざ知れず、どうであれ俺をこの世に産み落とした人なのだ。その人にまで父がそうしたように俺の存在を、存在する理由を、否定されたら。道具の癖にと言われてしまったら。とてもじゃないけれど立ち直れない気がした。情けない程の防衛本能に、彼女の靴先ひとつ視界に映すのもつらくて目を瞑る。
「………ねえ。」不意に、言葉が投げ掛けられる。「………なんでしょう。」視界は伏せたまま、そう答える。震える声、しぼんでいく言葉。でも、それは彼女も同じだった。
「…顔、上げてよ。」
彼女の掌が、俺の頬に触れる。殿下のものとも姫様のものとも違う熱を持った掌。小さいのにあたたかくて、はじめてなのにやけに懐かしい。その掌は、そう紡いだ声と言葉と同じくらい震えていた。
「……22年振りなんだからさ。」
床ばかり見詰めていた目を、そっと上げていく。深い落ち着いた色のドレスの裾が目に入る。もう視線を少し上げていくと、袖口のアラベスク文様が目に入ってきた。
「………この22年間、ずぅっと忘れたことなんてなかったんだからさ。」
俺と同じ、亜麻色の髪を視界に認める。諦めかけていた、欲しかった言葉を口にする彼女を、ごく自然に真っすぐ見詰める。…なんだ。何も怖がる必要なんてなかったじゃないか。──亜麻色の髪と、青い瞳。毎朝鏡で見ている自身の顔かと勘違いするくらいに自分にそっくりな目の前の人を見詰める。次第にぼやけていく視界でも、彼女が泣きながらもとびきり明るく笑ったのは分かった。
「─────はじめまして。それから、久し振り。そっちがなんて言おうが、あたしはずーっとずぅーっと会いたかったぞ、この放蕩息子!!」
そう口にするや否や、目の前の人──母上が、俺を思い切り抱き締めた。姫様と抱き合うのとは違う感触。心の何処かで求めていた、母親のぬくもり。姫様を見て、街行く親子を見て、密かに感じていた羨ましさ。ずっとずっと焦がれていた誰か。その誰かが今、確かに俺に会いたかったと言ってくれた。その言葉が嘘じゃないことは俺を抱き締める腕と、子供のようにわんわんと泣き叫ぶ声が充分過ぎる程に証明してくれていた。だから俺も、ぎこちなくだけれど母上を抱き締め返す。そうして暫く親子揃って子供のように泣きじゃくるのを、殿下は何も言わずにただ静かに頭を撫でて見守って下さった。
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