第9話 法廷の朝、涙の夜
「臨時領主会議を開廷する」
査察官の声が、石造りの広間に響いた。
グリスヴァルの領主館。天井の高い大広間に長机が据えられ、出席者が着席している。正面に査察官ヘルマン・ヴァイス。五十代の痩せた男で、王都直属の官吏だ。黒い外套に王家の紋章。目は冷静で、声には一切の感情がない。
左手にアルデン辺境伯ヴィクトル・ロートリンゲン。いつもの堂々とした姿勢だが、目の下に隈がある。右手にカルヴィス子爵レイモン・デュプレ。四十代の実務家で、帳簿を前に置いて背筋を伸ばしている。書記官が羽根ペンを構え、近隣の騎士領主が二名、傍聴席に座っていた。
ガルシア・モレッティは広間の隅にいた。出席者ではなく、参考人として呼ばれた形だ。穏やかな顔。学者の目。だがあの夜のような余裕は、薄れて見えた。
俺は証人席にいた。
レイモン子爵の推薦だった。二週間前、マルテを通じて子爵から連絡があった。「辺境伯の不正に関する証拠を持っているなら、領主会議で証言してほしい」と。マルテが帳簿の写しを送ったのと合わせて、俺の名前も伝わっていたらしい。
手元に三つの書類がある。
この二週間で準備した。セレナの森を出てからの二週間。マルテの店の裏部屋を借りて、毎日書類をまとめた。毎朝、森の入口に菓子を置いてから。
「証人ユーリ・ハースト。証拠の提出を許可する」
査察官の声。
立ち上がった。
「一つ目の証拠です」
帳簿の写しを机に置いた。
「辺境伯家の元書記リーズ殿が保管していた、不正課税の帳簿の写しです。正規の税率と実際の徴収額に、最大で三倍の乖離があります」
書記官が帳簿を受け取り、査察官に渡す。ヴァイスが頁をめくる。目が数字を追っている。表情は変わらない。
ヴィクトルの指が、机の下で膝を叩いていた。上機嫌の時の癖ではない。
「二つ目の証拠です」
古い文書を置いた。紙が変色して、端が脆くなっている。
「セレナ殿の書庫に保管されていた告発状です。宮廷魔術師団第三席ガルシア・モレッティ殿が、過去に別の魔術的少数者を研究の名目で拘束した際、被害者の親族が書いたものです」
広間の隅で、ガルシアの目が細くなった。穏やかな表情は変わらない。だが手が——外套の裾を握っていた。
「三つ目の証拠です」
最後の書類を置いた。
「森林管轄権の法的根拠に関する資料です。セレナ殿が記憶していた古い王令の内容を私が文書化し、王都の法務官が原文と照合して確認済みです。レイモン・デュプレ子爵閣下の仲介により、法務官の確認書も添付してあります」
三つ。これで全部だ。
俺がやることは、これだけだ。証拠を出す。事実を述べる。それ以上のことはしない。
査察官が三つの書類を順に確認した。時間がかかった。広間に紙をめくる音だけが響く。
「辺境伯閣下」
ヴァイスが顔を上げた。
「弁明をどうぞ」
ヴィクトルが立ち上がった。声は落ち着いていた。演説が巧いという評判は本当だった。
「森林管轄権は祖父の代から認められているものであり、正当な権利です。課税については辺境防衛のための措置であり、辺境の安全を守るために必要な経費として——」
「百年前の王令第372号について、ご存じですか」
査察官が遮った。
ヴィクトルの言葉が止まった。
「王令第372号第43条。王国直轄林に指定された森林地帯については、それ以前に付与された管轄権は失効する。アルデン辺境伯領に隣接する森林地帯は、八十年前の直轄林指定により、本条の適用対象です」
静かだった。査察官の声には抑揚がない。法を読み上げているだけだ。それだけのことが、ヴィクトルの弁明を根本から崩していた。
「さらに」
ヴァイスが手元の紙を取り上げた。
「辺境伯閣下の過去のご発言を引用いたします。三年前の辺境防衛会議でのご演説——『私は法を遵守する領主であると、神と民の前に誓う』」
広間が凍った。
騎士領主の一人が目を逸らした。もう一人は腕を組んで、机を見つめていた。
ヴィクトルの顔から表情が消えた。演説の巧みさが、ここでは何の役にも立たなかった。自分の言葉だ。自分が民の前で誓った言葉が、不正課税の証拠と並んでいる。
反論が、出てこなかった。
「続いて、ガルシア・モレッティ殿について」
査察官がガルシアに向き直った。
「辺境伯との共謀を示す書簡が証拠として提出されています。書簡の一節を読み上げます——」
ヴァイスが紙を広げた。
「『結界の解除には強制的な手段も止むを得ない。魔女の身柄を確保できれば、研究は飛躍的に進む』」
ガルシアが口を開いた。声は穏やかだった。まだ。
「あれは学術調査の一環としての助言であり、違法行為を指示したものではありません」
「『強制的な手段』とは、具体的に何を指しますか」
沈黙。
「令状なしの身柄拘束を示唆するものと解釈できますが——モレッティ殿のご見解は」
ガルシアの穏やかな表情に、初めて亀裂が走った。目の奥の冷静さが揺れている。
「宮廷魔術師団本部に、正式な調査を申請いたします」
査察官が宣言した。
◇
判決は簡潔だった。
ヴィクトル・ロートリンゲン辺境伯。森林管轄権の剥奪。不正課税の返還命令。爵位は維持されるが、辺境伯としての実質的権限は大幅に縮小。
ガルシア・モレッティ。現場での拘束はなし。王都での正式な審問が決定。事実上の魔術師団除名が確定的。
俺は証人席で判決を聞いた。何も言わなかった。嘲笑も、断罪の言葉も、口にしなかった。
求めていたのは、これだけだ。セレナが狙われなくなること。森が安全になること。それだけでいい。
◇
領主館の前庭。
日が傾き始めていた。石畳に長い影が落ちている。
「ユーリ君」
振り返ると、レイモン子爵が立っていた。四十代の実務家。穏やかな目。
「よくやった」
肩に手を置かれた。重い手だった。
「この辺境は、君の薬で随分助かっている。これからも頼む」
「……ありがとうございます、子爵閣下」
頭を下げた。下げながら、考えていた。
もう終わった。ヴィクトルの管轄権は剥奪された。ガルシアは審問にかけられる。セレナを狙う者は、もういない。
行かなければ。
森に。
◇
走った。
領主館からグリスヴァルの町を抜け、街道を外れて森に入った。日が沈みかけている。木々の間を駆ける。枝が顔を掠める。息が切れる。構わなかった。
森の入口。結界の境目。
二週間、毎朝ここに来ていた。菓子を置いて帰った。結界の中には入らなかった。入る資格がないと思っていた。セレナが出ていけと言ったのだから。
だが今日は違う。
「セレナ!」
声を張った。結界の外から。
「セレナ——聞こえますか!」
木々の間に声が消えていく。風が枝を揺らす。返事はない。
「もう——狙われることはなくなりました」
息を整えて、続けた。
「辺境伯の管轄権は剥奪されました。ガルシアは王都で審問にかけられます。もう、誰もセレナを捕まえに来ません」
沈黙。
森が静かだった。虫の声。風。遠くで鳥が鳴いている。
木々の間に、影が動いた。
セレナが姿を現した。結界の内側——木の幹に背を預けて立っている。銀灰色の髪が夕日に染まっている。紫灰色の瞳がこちらを見ている。
二週間ぶりだった。
セレナの顔は変わらなかった。表情がない。声もない。ただ立って、こちらを見ている。
結界が、二人の間にある。
俺は結界の外にいる。セレナは内側にいる。
長い沈黙があった。
「俺の時間は、あと何十年かしかないです」
口を開いた。声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。
「千年に比べたら、瞬きみたいなものだと思います」
セレナの目が、僅かに揺れた。
「でも、その時間を、あなたの隣で過ごしたい」
夕日が沈んでいく。木々の影が長くなる。
「あなたが俺を忘れても構わない。俺が今、ここにいることは本当だから」
三つ。三つだけだ。これ以上の言葉は要らない。
◇
頬を、何かが伝った。
冷たくはなかった。温かかった。
千年、流れなかったものが——止まらなくなった。
視界が滲む。目の前のあの人間の輪郭がぼやける。泣いているのだと理解するまでに、数秒かかった。泣き方を忘れていた。千年、泣いていなかったから。
涙というのは、こんなに温かかっただろうか。
忘れていた。何もかも忘れていた。泣くことも、寂しいと思うことも、誰かの隣にいたいと願うことも。
この人間が——全部、思い出させた。
あと何十年かしかない、とあの人間は言った。千年に比べたら瞬きだと。
そうだ。瞬きだ。瞬きの間に老いて、皺が増えて、髪が白くなって、いつか——。
忘れても構わないと言った。
構わないわけがない。
「……忘れたくない」
声が出た。掠れていた。涙で喉が詰まっている。千年ぶりの涙が、こんなに声を奪うものだとは知らなかった。
「お前のことだけは」
ユーリが笑った。
泣いている私を見て、笑った。泣き笑いのような、不格好な笑い方だった。目の端が光っている。あの人間も泣いているのかもしれない。
「なら——忘れないくらい、毎日隣にいます」
馬鹿だ。
千年で出会った人間の中で、一番の馬鹿だ。
結界に手を伸ばした。
私の結界だ。千年、他者を拒むために張り続けた結界。指先が触れると、光が揺れた。境界線が——開いた。
ユーリの手を取った。
冷たい私の手と、温かいあの人間の手。
「……中に、入れ」
手を引いた。ユーリが結界を越えた。一歩。二歩。境界線が閉じる。結界が二人を包む。
森が夕暮れに染まっていた。
木々の梢が橙色に光って、足元の苔が影に沈んで、空の端に一番星が見えた。
手を繋いだまま、家に向かって歩いた。
何も言わなかった。何も言わなくてよかった。
◇
同じ夜。領主館の執務室。
ヴィクトルが執務机に座っていた。机の上に、森林管轄権の剥奪通知。
「たかが薬師の小僧と、森の魔女。あれだけの証拠を、いつの間に——」
窓の外を見た。
屋敷の廊下を歩く人影が少ない。部下の姿が減っている。判決が出てから、挨拶に来る者が目に見えて減った。利益で繋がっていた関係が、利益を失って綻び始めている。
「……私は、何を間違えたのだ」
呟きは、誰にも届かなかった。




