第8話 別離の朝、お茶の淹れ方
あの人間を助けに行った時、わかってしまった。もう、手遅れだと。
三日が経った。
ユーリの手首の縄の跡は薄くなった。薬湯が効いたのだ。腫れは引き、赤みも消えかけている。あの夜、私が調合した薬湯が。あの、手の震えが止まらないまま棚を開けて、瓶を二度取り落としながら作った薬湯が。
あの人間は「手当、ありがとうございます」と笑った。
笑うな。
笑うから——こうなる。
三日間、考えた。あの屋敷で結界を展開した瞬間から、ずっと考えていた。千年ぶりに人前に出た。不死の魔女の存在が、辺境伯にも、あの魔術師にも、屋敷の兵士たちにも知れた。
それでも行った。
あの人間がいなくなると思った瞬間、足が動いていた。千年閉じていた結界の外に、考えるより先に踏み出していた。
これは——もう、駄目だ。
情が移った、などという言葉では足りない。壁が崩れた。千年かけて積み上げた壁が、数ヶ月で。
あの部屋の毛布は、私のものだった。不死の身に毛布は要らない。寒さで死なないのだから。それでもあの人間が来ると知った時——追放されてここに来ると予感した時——棚の奥から引っ張り出して、あの部屋に置いた。
あの日、帰りが遅くて森の入口まで出た時。薬草を探しに来たと言った。森の入口に、私の必要な薬草など一つもない。知っていて行った。
全部、わかっている。自分が何をしているか。何を感じているか。千年生きて——こんなことは、初めてではないのに。
初めてではないのに。アーシャの時とは、違う。
アーシャは二十年で去った。穏やかに老いて、穏やかに死んだ。悲しかった。三日かけて絵を仕舞った。だが——壊れはしなかった。
この人間が死んだら、壊れる。
それがわかるから——今のうちに、離さなければならない。
◇
朝。
ユーリが庭の水やりを終えて戻ってきた。桶を井戸の脇に置き、手を拭きながら台所に入ってくる。いつもの足音。八歩。
「セレナ、今日の——」
「ユーリ」
遮った。
台所のテーブルを挟んで向かい合う。ユーリが動きを止めた。私の声のトーンが違うことに気づいたのだろう。
「お前は、もうここにいる必要はない」
「——え?」
「町で薬師として暮らせるだろう。マルテがいる。薬の評判も立っている。カルヴィス子爵家との取引もある」
言葉を並べた。合理的な理由を。全部本当のことだ。
「森にいれば、また狙われる。辺境伯も、あの魔術師も、お前を利用してこちらに手を伸ばそうとする。ここにいるほうが危険だ」
ユーリの顔が強張った。
「それは——セレナのために俺が出ていったほうがいい、ということですか」
「お前のためだ」
嘘ではない。嘘では——ない。
「私の隣にいれば不幸になる」
これは本当だ。千年の真実だ。私の隣にいた者は、全員——。
ユーリが口を開きかけた。何か言おうとしていた。反論か、懇願か。
だが——私の目を見て、止まった。
私の目に何が映っていたのかはわからない。拒絶か、恐怖か、懇願か。自分でもわからない。千年、感情を出さない訓練をしてきた。それでもこの瞬間、何かが漏れたのかもしれない。
ユーリは、ゆっくりと口を閉じた。
「……わかりました」
静かだった。
「お世話になりました」
頭を下げた。短く。それから部屋に戻り、荷物をまとめた。
時間はかからなかった。あの人間の持ち物は少ない。薬草図鑑。調合道具。替えの衣類。来た時と同じだ。
玄関の扉を開けて、庭に出た。私は窓から見ていた。見ていないふりをして、窓から。
ユーリが庭を横切る。銀葉草の区画の脇を通る。結界の際まで歩く。
振り返らなかった。
一度も。
結界を抜けて、森の木々の間に消えていった。背中が小さくなって、枝の向こうに見えなくなった。
……振り返らなかった。
(正しい判断だ。あの人間は——聡い。こちらの意思を理解して、受け入れた。未練なく去った)
正しい判断だった。
正しい。
窓枠を握る手に力が入った。木が軋んだ。
(正しかったのだ。これで——この感情は、収まる。千年待てば忘れる。いつものように)
窓の外は、午後の日差しに満ちていた。薬草園の緑が目に痛いほど鮮やかだった。
◇
夜。
家が静かだった。
当たり前だ。千年、静かだったのだから。元に戻っただけだ。
居間に座った。本を開いた。読めなかった。閉じた。
台所に立った。
棚の上に、茶葉の缶がある。ユーリが使っていた缶。中にはまだ茶葉が残っている。あの人間が「セレナの分も」と言って、町で多めに買ってきていたものだ。
茶を淹れよう。
湯を沸かした。これはできる。竈に火を入れて、鍋に水を張って、沸くまで待つ。ここまでは問題ない。
茶葉の缶を開けた。匂いがした。乾いた、少し甘い匂い。毎朝この匂いがしていた。ユーリが缶を開ける音と一緒に。
茶葉を茶器に入れる。
——どのくらい入れればいい。
ユーリは指三本で摘んでいた。それくらいの量だった気がする。だが茶器の大きさは。湯の量は。
湯を注いだ。
——どのくらい待てばいい。
蒸らす。ユーリがそう言っていた。「蒸らすんです、少し待つんです」と。少しとはどのくらいだ。一分か。二分か。
待った。どのくらい待ったかわからない。茶器の蓋を開けた。色が濃い。濃すぎる。茶葉を入れすぎたのだ。
口をつけた。苦い。渋い。飲めなくはないが——こんな味ではなかった。ユーリが淹れた茶は、苦みの奥に甘さがあった。温度もちょうどよかった。
千年、生きてきた。
結界魔術を極め、薬草学を体系化し、古代の王令を暗記し、何百種もの薬を調合した。
茶の淹れ方を、知らない。
千年、一人で飲む必要がなかった。ユーリが来るまで、茶を飲む習慣がなかった。あの人間が毎朝淹れてくれたものを、当たり前のように受け取っていた。
茶器を置いた。
手が止まった。
台所は暗かった。蝋燭を一本だけ灯している。影が壁に揺れている。窓の外は新月の夜で、何も見えない。
あの人間がいた時間は、ほんの数ヶ月だ。千年に比べたら、瞬きのようなもの。
なのに。
「……寂しい」
声に出ていた。
口にしたのは、千年で初めてだった。千年の間、一度も。一人でいることを寂しいと思ったことはなかった。寂しいという感情が、もう錆びついて動かないと思っていた。
あの人間が来て——動いてしまった。
茶葉の缶を両手で持った。蓋を閉めて、棚に戻そうとして——戻せなかった。
手の中に持ったまま、台所の椅子に座った。
缶を抱えたまま、朝まで座っていた。
◇
翌朝。
目の前が明るくなって、顔を上げた。窓から朝日が差し込んでいる。椅子の上で夜を明かしたらしい。茶葉の缶がまだ手の中にある。
立ち上がった。体は痛まない。不死の身だ。疲労はない。
玄関の扉を開けて、庭に出た。朝の空気が冷たい。銀葉草の葉に朝露が光っている。
足を止めた。
家の前——玄関のすぐ脇の地面に、紙包みが置いてあった。
小さな包み。紐で結んである。見覚えがある。何度も見た。あの人間が毎日持ってきていた——焼き菓子の包みと、同じ結び方。
しゃがんで、包みに手を伸ばした。
持ち上げた。軽い。中に菓子が二つ。干し林檎のやつだ。
結界の内側には入っていない。包みは結界の外側——森の入口に近い、結界の境目のすぐ外に置かれていた。あの人間は、結界の中に入らなかった。入ろうとしなかった。
だがここまで来ていた。
去ったのではない。去ったのではなく——距離を保ちながら、ここにいる。
包みを持って、家に入った。
テーブルの上に置いた。紐をほどいた。菓子を一つ手に取って、齧った。
甘かった。
干し林檎の、素朴な甘さ。いつもと同じ味。
何も言わなかった。何も思わないようにした。
菓子を食べて、茶葉の缶を棚に戻して、庭に出て、銀葉草の水やりをした。
いつもと同じ朝。
——いつもと同じではない。足音がない。声がない。「セレナ、今日の茶葉はどっちにしますか」が聞こえない。
だが菓子は、あった。
◇
同じ日の夕刻。アルデン辺境伯ヴィクトル・ロートリンゲンの執務室。
使者が届けた書簡の封蝋を見て、ヴィクトルの顔が強張った。王都の紋章。
封を切る。読む。顔色が変わっていく。
「査察官が——来る」
呟いた。椅子から立ち上がり、窓際のガルシアに向き直る。
「王都から査察官が派遣される。臨時の領主会議を召集するとのことだ。モレッティ殿、どう対処する」
ガルシアの表情は変わらなかった。穏やかな目。学者の目。だが口元が、僅かに引き締まった。
「私はあくまで学術調査として辺境を訪れただけです。領主の政務には関知しておりません」
ヴィクトルの目が冷たくなった。
「……そういうことですか」
「誤解しないでいただきたい。私は辺境伯閣下の敵ではありません。ただ——それぞれの立場がございます」
ガルシアが外套を整え、書斎の扉に向かった。
「私は弟子とともに宿に戻ります。査察の件は、閣下のご手腕にお任せいたしましょう」
扉が閉まった。
ヴィクトルは一人、書簡を握りしめたまま立っていた。紙が皺になっていく。
窓の外で、森の稜線が夕闇に沈んでいく。




