第7話 捕縛、そして千年の沈黙が破れる時
帰り道の石畳が、いつもと違う音を立てた。自分の足音ではなかった。
グリスヴァルの裏通り。マルテの店で薬を納めた帰り、近道をしようと路地に入った。日が傾き始めていて、建物の影が石畳を黒く塗りつぶしている。
背後の足音に気づいた時には、前からも来ていた。
革靴。複数。辺境伯の紋章が入った外套。四人が前を塞ぎ、三人が後ろに回っている。
「薬師ユーリ・ハーストだな」
先頭の兵が言った。抜き身の剣はない。だが腰の短剣に手がかかっている。
「アルデン辺境伯ヴィクトル・ロートリンゲン閣下がお呼びだ。同行願おう」
選択肢はなかった。
◇
連れてこられたのは、辺境伯の屋敷だった。
石造りの、重厚な建物。広間ではなく奥の書斎に通された。窓が高い位置にひとつだけあり、夕日が斜めに差し込んでいる。椅子に座らされた。手首を縄で後ろ手に縛られた。きつくはないが、解けない。
向かいに二人の男がいた。
一人は椅子に深く座った壮年の男。四十半ば。体格がよく、顎の線が鋭い。目に野心の色がある。ヴィクトル・ロートリンゲン。辺境伯。
もう一人は、窓際に立っていた。白髪の痩せた男。五十半ば。簡素な衣服だが、外套の内側に紋章が覗いている。宮廷魔術師団の紋章。目は穏やかで、学者のような静けさがある。
「初めまして、ユーリ君」
白髪の男が口を開いた。声も穏やかだった。
「宮廷魔術師団第三席、ガルシア・モレッティです。少し話を聞かせてほしい」
ガルシア・モレッティ。この名前は知らなかった。だが宮廷魔術師団の第三席——あの罠を仕掛けた組織の幹部だ。
「魔女の結界の解除方法を、君は知っているか」
「知りません」
「魔女の弱点は?」
「知りません」
「結界の中に入れてもらえているのだろう。何か——隙のようなものに気づいたことは?」
「ありません」
嘘ではなかった。セレナの結界の仕組みなど俺にはわからない。入れてもらえるのはセレナが許可しているからで、隙があるわけではない。
ヴィクトルが苛立たしげに椅子の肘掛けを叩いた。
「小僧。辺境伯の命に逆らうのがどういうことか、わかっているのか」
「辺境伯閣下」
ガルシアが穏やかに遮った。手のひらを上げて、ヴィクトルを制する仕草。
「力ずくは逆効果です。——ユーリ君、少し別の話をしよう」
ガルシアが窓際から歩み寄ってきた。椅子を引いて、俺の正面に座る。目線を合わせて。
「あの魔女は——千年の間、不死の呪いに苦しんでいる。それは君も知っているだろう」
答えなかった。
「不死の呪いの構造を解明できれば、人類の医療は革命的に進歩する。病の克服、寿命の延伸、失われた命を救う手がかり。あの魔女の体には、千年分のデータが眠っているんだ」
ガルシアの目は真剣だった。狂気ではない。純粋な確信だった。
「彼女一人の自由と、何千何万もの人間の命。どちらが重いか——君なら、わかるだろう?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、言葉に詰まった。
ガルシアの言っていることは、筋が通っている。不死の仕組みを解明できれば、確かに医療は進歩するかもしれない。何千もの命を救えるかもしれない。天秤にかければ——。
だが。
セレナの顔が浮かんだ。
庭で銀葉草の手入れをしている横顔。「まあまあだ」と言いながら俺の調合を評価する声。月夜にアーシャの話をした時の、どこか遠い目。
あの人は——天秤に載せるものじゃない。
「あの人は、研究対象じゃありません」
声が出た。思ったより、しっかりしていた。
「生きている人です。千年も——一人で、生きてきた人です。天秤にかけるとか、データがどうとか、そういう話じゃない」
ガルシアの目が細くなった。失望でも怒りでもない。値踏みするような目だった。
「……そうか。残念だ」
ガルシアが椅子から立ち上がった。ヴィクトルに目配せする。
「もう少し考える時間を差し上げましょう。一晩、ここにいてもらう」
書斎を出ていく二人の背中を見ながら、俺は縛られた手首の縄を握りしめた。
痛い。手首が痺れている。
(セレナ——)
◇
マルテの店に、一人の若い女が駆け込んできたのは、その日の夕刻だった。
二十代前半。質素な衣服。髪を布で覆い、顔を俯かせている。
「マルテさん。ユーリさんが——辺境伯に捕まりました」
マルテの顔色が変わった。
「リーズ。あんた、屋敷を辞めたんじゃ——」
「辞めました。でも元同僚から聞いたんです。森の薬師が連れてこられた、って」
リーズと名乗った女が、懐から布に包んだものを取り出した。
「これを——しかるべき人に渡してください。辺境伯の不正課税の帳簿の写しです。私が書記として勤めていた時に写しました」
マルテが包みを受け取った。中を確かめる。数字が並んだ帳簿の写し。税率が記された欄に、明らかに正規の額を超える数字がある。
「私の家族も、この課税で——」
リーズの声が震えた。拳を握りしめて、続けた。
「もう黙っていられません」
マルテは包みを棚の奥に仕舞い、すぐに紙とペンを取り出した。カルヴィス子爵家の使者に渡す緊急の手紙。書きながら、低い声で言った。
「任せな。あんたの名前は出さない。ユーリの分まで、こっちでやれることをやるよ」
◇
あの人間が帰ってこない。
日が沈んだ。台所に足音がしない。庭に声がしない。
窓の外を見た。暗い。月はまだ昇っていない。森の木々が黒い影になって重なっている。
(別に、心配しているわけではない)
町で遅くなることはある。マルテの店で話し込むこともある。ネラとかいう薬師と——。
違う。遅いだけじゃない。この時間に帰ってこなかったことは、一度もない。
立ち上がった。居間から廊下へ。玄関の扉を開けた。庭を抜けて、結界の際まで歩いた。
足音がない。気配がない。
結界の外に出た。
千年ぶりだった。この結界の外に足を踏み出すのは。
森の空気が変わった。結界の内側とは違う。湿った土の匂い。獣の気配。風の方向が変わる。世界が——広い。広くて、うるさくて、千年前に閉じた理由を思い出しそうになる。
(行かなければ)
森を抜けた。街道に出た。グリスヴァルの明かりが遠くに見える。その手前——辺境伯の屋敷の輪郭が、闇の中に浮かんでいた。
門の前に兵が二人。屋敷の窓に明かり。あの中に——いる。
(千年、一人で生きてきた。今更、一人の人間のために——)
足が動いていた。
門に向かって歩く。兵が気づいた。槍を構える。
「止まれ! 何者——」
手を翳した。
結界が広がった。俺の——私の結界が、屋敷の壁を包むように展開される。
地面が震えた。窓の硝子が鳴った。門の兵士二人が、気づいた時には門の外側に——立っていた。怪我はない。ただ、場所が変わっていた。
屋敷の扉が内側から開いた。兵士が数名飛び出してくる。槍を構え、剣を抜き——。
手を翳した。もう一度。
全員が、屋敷の庭の端まで滑るように移動した。足が地面に着いたまま、音もなく。
書斎の窓から顔を出したのは、ヴィクトルだった。隣にガルシア。
ヴィクトルの顔から血の気が引いていた。
ガルシアの目は——違った。恐怖ではなく、興味だった。学者の目で、私を見ていた。
「……」
その目が、千年前の記憶を掠めた。似たような目を、何度か見たことがある。研究者の目。対象を見る目。人を見る目ではない。
書斎に入った。扉は開けなかった。壁を通り抜けた——わけではない。扉の鍵が、結界に押されて外れただけだ。
ユーリが椅子に縛られていた。手首に縄の跡。
生きている。怪我はない。
それを確認した瞬間、膝の力が抜けそうになった。抜かなかった。
ヴィクトルとガルシアに向き直った。
「この者に手を出すな」
声は平坦だった。感情を入れなかった。入れたら、何が漏れるかわからなかった。
「次はない」
それだけ言って、ユーリの縄を結界で切った。ユーリの腕が自由になる。
「立てるか」
「——はい」
ユーリが立ち上がった。足元がふらついたが、すぐに自分で踏みしめた。
屋敷を出た。兵士たちが庭の端で固まっている。誰も動かない。動けないのか、動かないのか。どちらでもいい。
森に向かって歩いた。ユーリが隣を歩いている。少し遅れて。
月が昇り始めていた。
◇
森に帰った。結界をくぐり、庭を抜け、家の前に着いた。
「すみません、迷惑をかけました」
ユーリが言った。頭を下げている。
迷惑。
迷惑だ。本当に迷惑だ。千年ぶりに人前に出た。存在が知れた。あの学者の目に見られた。全部、この人間のせいだ。
「……迷惑だ。本当に、迷惑だ」
言いながら、ユーリの手首を取っていた。
縄の跡が赤く残っている。皮膚が擦れて、少し腫れている。
指先で跡をなぞった。
手が、震えていた。
自分の手が震えているのがわかった。止められなかった。
怒りだと思われただろう。怒っているのだと。迷惑だと言ったから、怒りで手が震えているのだと。
違う。
失うところだった。
この人間を、失うところだった。あの屋敷に閉じ込められて、あの学者に引き渡されて——。
(千年、一人で生きてきた。一人で平気だった。なのに——)
手を離した。
「……中に入れ。手当をする」
背を向けて、家に入った。
「セレナ」
背中にユーリの声。
「怒らせてしまって——すみません」
違う。怒っていない。怒っているのではない。
だが振り返れなかった。振り返って、この手の震えを見られたくなかった。
「……いいから入れ」
それだけ言って、台所に向かった。薬湯の支度をしなければ。手首の腫れに効く薬草を——。
棚を開ける手が、まだ震えていた。
◇
同じ夜。マルテの薬種問屋の裏口。
マルテが封蝋を押した手紙を、カルヴィス子爵家の使者に渡していた。
「急ぎで子爵閣下にお届けしてくれ。中に帳簿の写しも入っている。辺境伯の不正課税の証拠だ」
使者が手紙を受け取り、馬に飛び乗った。蹄の音が夜道に消えていく。
マルテが腕を組み、星のない空を見上げた。
「ユーリ。あんたの分まで——やれることはやるよ」
呟きは、誰にも届かなかった。




