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千年の片恋 〜不死の魔女は一度だけ恋をする〜  作者: 秋月 もみじ


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第7話 捕縛、そして千年の沈黙が破れる時


帰り道の石畳が、いつもと違う音を立てた。自分の足音ではなかった。


グリスヴァルの裏通り。マルテの店で薬を納めた帰り、近道をしようと路地に入った。日が傾き始めていて、建物の影が石畳を黒く塗りつぶしている。


背後の足音に気づいた時には、前からも来ていた。


革靴。複数。辺境伯の紋章が入った外套。四人が前を塞ぎ、三人が後ろに回っている。


「薬師ユーリ・ハーストだな」


先頭の兵が言った。抜き身の剣はない。だが腰の短剣に手がかかっている。


「アルデン辺境伯ヴィクトル・ロートリンゲン閣下がお呼びだ。同行願おう」


選択肢はなかった。



連れてこられたのは、辺境伯の屋敷だった。


石造りの、重厚な建物。広間ではなく奥の書斎に通された。窓が高い位置にひとつだけあり、夕日が斜めに差し込んでいる。椅子に座らされた。手首を縄で後ろ手に縛られた。きつくはないが、解けない。


向かいに二人の男がいた。


一人は椅子に深く座った壮年の男。四十半ば。体格がよく、顎の線が鋭い。目に野心の色がある。ヴィクトル・ロートリンゲン。辺境伯。


もう一人は、窓際に立っていた。白髪の痩せた男。五十半ば。簡素な衣服だが、外套の内側に紋章が覗いている。宮廷魔術師団の紋章。目は穏やかで、学者のような静けさがある。


「初めまして、ユーリ君」


白髪の男が口を開いた。声も穏やかだった。


「宮廷魔術師団第三席、ガルシア・モレッティです。少し話を聞かせてほしい」


ガルシア・モレッティ。この名前は知らなかった。だが宮廷魔術師団の第三席——あの罠を仕掛けた組織の幹部だ。


「魔女の結界の解除方法を、君は知っているか」


「知りません」


「魔女の弱点は?」


「知りません」


「結界の中に入れてもらえているのだろう。何か——隙のようなものに気づいたことは?」


「ありません」


嘘ではなかった。セレナの結界の仕組みなど俺にはわからない。入れてもらえるのはセレナが許可しているからで、隙があるわけではない。


ヴィクトルが苛立たしげに椅子の肘掛けを叩いた。


「小僧。辺境伯の命に逆らうのがどういうことか、わかっているのか」


「辺境伯閣下」


ガルシアが穏やかに遮った。手のひらを上げて、ヴィクトルを制する仕草。


「力ずくは逆効果です。——ユーリ君、少し別の話をしよう」


ガルシアが窓際から歩み寄ってきた。椅子を引いて、俺の正面に座る。目線を合わせて。


「あの魔女は——千年の間、不死の呪いに苦しんでいる。それは君も知っているだろう」


答えなかった。


「不死の呪いの構造を解明できれば、人類の医療は革命的に進歩する。病の克服、寿命の延伸、失われた命を救う手がかり。あの魔女の体には、千年分のデータが眠っているんだ」


ガルシアの目は真剣だった。狂気ではない。純粋な確信だった。


「彼女一人の自由と、何千何万もの人間の命。どちらが重いか——君なら、わかるだろう?」


一瞬。


ほんの一瞬だけ、言葉に詰まった。


ガルシアの言っていることは、筋が通っている。不死の仕組みを解明できれば、確かに医療は進歩するかもしれない。何千もの命を救えるかもしれない。天秤にかければ——。


だが。


セレナの顔が浮かんだ。


庭で銀葉草の手入れをしている横顔。「まあまあだ」と言いながら俺の調合を評価する声。月夜にアーシャの話をした時の、どこか遠い目。


あの人は——天秤に載せるものじゃない。


「あの人は、研究対象じゃありません」


声が出た。思ったより、しっかりしていた。


「生きている人です。千年も——一人で、生きてきた人です。天秤にかけるとか、データがどうとか、そういう話じゃない」


ガルシアの目が細くなった。失望でも怒りでもない。値踏みするような目だった。


「……そうか。残念だ」


ガルシアが椅子から立ち上がった。ヴィクトルに目配せする。


「もう少し考える時間を差し上げましょう。一晩、ここにいてもらう」


書斎を出ていく二人の背中を見ながら、俺は縛られた手首の縄を握りしめた。


痛い。手首が痺れている。


(セレナ——)



マルテの店に、一人の若い女が駆け込んできたのは、その日の夕刻だった。


二十代前半。質素な衣服。髪を布で覆い、顔を俯かせている。


「マルテさん。ユーリさんが——辺境伯に捕まりました」


マルテの顔色が変わった。


「リーズ。あんた、屋敷を辞めたんじゃ——」


「辞めました。でも元同僚から聞いたんです。森の薬師が連れてこられた、って」


リーズと名乗った女が、懐から布に包んだものを取り出した。


「これを——しかるべき人に渡してください。辺境伯の不正課税の帳簿の写しです。私が書記として勤めていた時に写しました」


マルテが包みを受け取った。中を確かめる。数字が並んだ帳簿の写し。税率が記された欄に、明らかに正規の額を超える数字がある。


「私の家族も、この課税で——」


リーズの声が震えた。拳を握りしめて、続けた。


「もう黙っていられません」


マルテは包みを棚の奥に仕舞い、すぐに紙とペンを取り出した。カルヴィス子爵家の使者に渡す緊急の手紙。書きながら、低い声で言った。


「任せな。あんたの名前は出さない。ユーリの分まで、こっちでやれることをやるよ」



あの人間が帰ってこない。


日が沈んだ。台所に足音がしない。庭に声がしない。


窓の外を見た。暗い。月はまだ昇っていない。森の木々が黒い影になって重なっている。


(別に、心配しているわけではない)


町で遅くなることはある。マルテの店で話し込むこともある。ネラとかいう薬師と——。


違う。遅いだけじゃない。この時間に帰ってこなかったことは、一度もない。


立ち上がった。居間から廊下へ。玄関の扉を開けた。庭を抜けて、結界の際まで歩いた。


足音がない。気配がない。


結界の外に出た。


千年ぶりだった。この結界の外に足を踏み出すのは。


森の空気が変わった。結界の内側とは違う。湿った土の匂い。獣の気配。風の方向が変わる。世界が——広い。広くて、うるさくて、千年前に閉じた理由を思い出しそうになる。


(行かなければ)


森を抜けた。街道に出た。グリスヴァルの明かりが遠くに見える。その手前——辺境伯の屋敷の輪郭が、闇の中に浮かんでいた。


門の前に兵が二人。屋敷の窓に明かり。あの中に——いる。


(千年、一人で生きてきた。今更、一人の人間のために——)


足が動いていた。


門に向かって歩く。兵が気づいた。槍を構える。


「止まれ! 何者——」


手を翳した。


結界が広がった。俺の——私の結界が、屋敷の壁を包むように展開される。


地面が震えた。窓の硝子が鳴った。門の兵士二人が、気づいた時には門の外側に——立っていた。怪我はない。ただ、場所が変わっていた。


屋敷の扉が内側から開いた。兵士が数名飛び出してくる。槍を構え、剣を抜き——。


手を翳した。もう一度。


全員が、屋敷の庭の端まで滑るように移動した。足が地面に着いたまま、音もなく。


書斎の窓から顔を出したのは、ヴィクトルだった。隣にガルシア。


ヴィクトルの顔から血の気が引いていた。


ガルシアの目は——違った。恐怖ではなく、興味だった。学者の目で、私を見ていた。


「……」


その目が、千年前の記憶を掠めた。似たような目を、何度か見たことがある。研究者の目。対象を見る目。人を見る目ではない。


書斎に入った。扉は開けなかった。壁を通り抜けた——わけではない。扉の鍵が、結界に押されて外れただけだ。


ユーリが椅子に縛られていた。手首に縄の跡。


生きている。怪我はない。


それを確認した瞬間、膝の力が抜けそうになった。抜かなかった。


ヴィクトルとガルシアに向き直った。


「この者に手を出すな」


声は平坦だった。感情を入れなかった。入れたら、何が漏れるかわからなかった。


「次はない」


それだけ言って、ユーリの縄を結界で切った。ユーリの腕が自由になる。


「立てるか」


「——はい」


ユーリが立ち上がった。足元がふらついたが、すぐに自分で踏みしめた。


屋敷を出た。兵士たちが庭の端で固まっている。誰も動かない。動けないのか、動かないのか。どちらでもいい。


森に向かって歩いた。ユーリが隣を歩いている。少し遅れて。


月が昇り始めていた。



森に帰った。結界をくぐり、庭を抜け、家の前に着いた。


「すみません、迷惑をかけました」


ユーリが言った。頭を下げている。


迷惑。


迷惑だ。本当に迷惑だ。千年ぶりに人前に出た。存在が知れた。あの学者の目に見られた。全部、この人間のせいだ。


「……迷惑だ。本当に、迷惑だ」


言いながら、ユーリの手首を取っていた。


縄の跡が赤く残っている。皮膚が擦れて、少し腫れている。


指先で跡をなぞった。


手が、震えていた。


自分の手が震えているのがわかった。止められなかった。


怒りだと思われただろう。怒っているのだと。迷惑だと言ったから、怒りで手が震えているのだと。


違う。


失うところだった。


この人間を、失うところだった。あの屋敷に閉じ込められて、あの学者に引き渡されて——。


(千年、一人で生きてきた。一人で平気だった。なのに——)


手を離した。


「……中に入れ。手当をする」


背を向けて、家に入った。


「セレナ」


背中にユーリの声。


「怒らせてしまって——すみません」


違う。怒っていない。怒っているのではない。


だが振り返れなかった。振り返って、この手の震えを見られたくなかった。


「……いいから入れ」


それだけ言って、台所に向かった。薬湯の支度をしなければ。手首の腫れに効く薬草を——。


棚を開ける手が、まだ震えていた。



同じ夜。マルテの薬種問屋の裏口。


マルテが封蝋を押した手紙を、カルヴィス子爵家の使者に渡していた。


「急ぎで子爵閣下にお届けしてくれ。中に帳簿の写しも入っている。辺境伯の不正課税の証拠だ」


使者が手紙を受け取り、馬に飛び乗った。蹄の音が夜道に消えていく。


マルテが腕を組み、星のない空を見上げた。


「ユーリ。あんたの分まで——やれることはやるよ」


呟きは、誰にも届かなかった。

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