第6話 月夜の告白、千年の涙
千年というのは、人間が思うほど長い時間ではない。
——嘘だ。果てしなく、長い。
朝。台所から音が聞こえる。湯を沸かす音。茶器を棚から出す音。あの人間——ユーリが、毎朝同じ順番で茶を淹れる。湯を沸かし、茶葉を量り、蒸らす。その間に焼き菓子を皿に並べる。二人分。
あの人間が来るまで、茶を飲む習慣はなかった。朝に音がする習慣もなかった。千年、この家の朝は無音だった。
それがいつからか、あの足音で一日が始まるようになった。
(慣れた、と思いたい。慣れただけだ)
居間の椅子に座り、本を開く。読んでいるふりをする。頁の内容は頭に入らない。台所から「セレナ、今日の茶葉はどっちにしますか」と声が飛んでくる。
「……どちらでもいい」
「じゃあ昨日と違うほうにしますね」
足音が台所を往復する。棚を開ける音。茶葉の缶を置く音。
この人間の足音を、私はいつの間にか数えている。台所から居間まで、八歩。朝の支度にかかる時間は、湯を沸かしてから数えてちょうど四半刻。毎日同じだ。
(——いない時間が、妙に長く感じるようになった)
ユーリが町に薬を届けに行く日は、朝から夕方まで家に足音がない。千年、一人だったのに。たかだか数ヶ月一緒にいただけの人間がいないだけで、家が広く感じる。
これは、まずい。
◇
午後。
庭で、ユーリが新しい薬を調合していた。
私が教えた銀葉草の根の粉末と、月見草の亜種の抽出液。配合比は七対三。これを間違えると薬効が半減する。ユーリは二度配合を失敗し、三度目でようやく正しい比率に辿り着いた。
「セレナ! できました!」
庭の向こうから走ってくる。手に小さな瓶を持っている。中の液体は薄い緑色。正しい色だ。配合を間違えると青みが強くなる。
「これ、見てください。色も粘度も——」
息を切らしながら瓶を差し出す。目が光っている。嬉しいのだろう。子供のような顔をする。
瓶を受け取り、光に透かした。色は正確。粘度も問題ない。匂いを確かめる。銀葉草の根の匂いの奥に、月見草のかすかな甘さ。正しい調合だ。
教えたことを、こんな速さで形にする。トビアスが「頼れ」と書き残した理由が——わかる。わかりたくないが、わかる。
「……まあまあだ」
瓶を返した。
ユーリの顔が、一瞬だけ曇って、すぐに笑った。
「まあまあ、いただきました。昨日は『話にならん』だったから、昇格です」
「昇格などしていない」
「でも、まあまあですよね」
「……うるさい。次は配合を一度で合わせろ」
背を向けた。
顔を見ていられなかった。あの笑い方を見ると、胸の奥で何かがざわつく。千年、忘れていたはずの感覚。
(この人間に対して——声が、変わっている)
気づいていた。気づいていないふりをしていた。
兵士に向ける声と、ユーリに向ける声は違う。自分でもわかるほどに。半音低く、輪郭が柔らかくなる。あの兵士どもに向けた時の声は石壁だ。ユーリに向ける声は——何だろう。石壁ではない。何か、もっと脆いもの。
千年で数本しか作らなかった万能薬を、なぜあの人間に渡した。
薬師として認めたから?
——嘘だ。
あの人間がいなくなったら困るからだ。困る理由を、私はもう知っている。知っていて、認めたくない。
◇
夜。
月が明るかった。雲ひとつない空に、丸い月が浮かんでいる。
庭の縁側に座っていた。千年の習慣だ。月夜は眠れない。眠れないのではなく、眠りたくない。月を見ていると、記憶の輪郭が少しだけ鮮明になる気がする。
普段は薄れていく。強い感情を伴う記憶ほど、時間とともに霞んでいく。呪いの性質だ。覚えていたいものから順に、指の隙間からこぼれるように消える。
「眠れないんですか?」
足音。八歩。台所から居間を抜けて、庭の縁側まで。
振り返らなかった。ユーリが隣に座る気配がした。少し離れて。いつもそうだ。近すぎず、遠すぎない距離を、この人間は本能的に測る。
「……お前に、話しておくことがある」
自分で驚いた。口が勝手に動いていた。
月のせいだ。月夜は防壁が下がる。千年の経験で知っている。だから月夜は危険なのだ。こういう夜に、人は——人でない者も——言わなくていいことを言ってしまう。
「数百年前のことだ」
止まらなかった。
「一人の人間が、この森に迷い込んだ。女だった。旅の画家で——名をアーシャと言った」
月の光が庭を照らしている。銀葉草の葉が白く光る。
「追い返した。いつもそうしていた。人間は厄介だ。関わればろくなことがない。だが——あの女は、翌年もまた来た」
春が来るたびに、アーシャは大きな画板を抱えて森に来た。最初は迷惑だった。結界で弾いても、別の入口を探して入ってくる。諦めが悪い女だった。
——誰かに、似ている。
「画板を立てて、庭の花を描いた。私が何を言っても笑って『もう少しだけ』と言い、日が暮れるまで筆を動かしていた」
次第に、春が来るのが待ち遠しくなった。
「二十年。あの女は毎年春に来た。最初は若かった。髪が黒かった。年を重ねるごとに、髪に白いものが混じるようになった。筆を持つ手が震えるようになった。画板が重そうになった」
私は変わらなかった。アーシャだけが変わっていった。
「最後の春に——あの女は、こう言った。『あなたの庭は、毎年同じ花が咲くのに、毎年違う絵になるわ』」
微笑んでいた。皺の刻まれた顔で。もう画板を持ち上げる力がなくて、縁側に座ったまま、庭を見ていた。
「その冬に、息を引き取った」
声が平坦であることを確認した。震えていない。震えさせない。
「アーシャの絵を、家の奥に仕舞った」
——それだけのことに、三日かかった。
壁から外して、布で包んで、押し入れの奥に入れる。たったそれだけ。三日かかった。手が動かなくて。
「それから——もう誰とも関わらないと決めた」
月が高い。光が庭を白く染めている。
隣のユーリは、黙っていた。何も言わない。呼吸の音だけが聞こえる。
「お前にも、いずれ同じことが起きる」
振り向いた。ユーリの横顔を見た。月光に照らされた輪郭。二十歳の、若い人間の顔。
「私は老いない。お前は老いる。この距離を縮めたところで、結末は変わらない」
沈黙が降りた。
長い沈黙だった。虫の声がする。風が枝を揺らす。月が雲にかかりかけて、光が翳り、また戻る。
ユーリが口を開いた。
「……逃げる理由がないです」
短かった。それだけだった。
逃げる理由がない。千年の孤独を語った。看取る痛みを語った。結末は変わらないと告げた。それに対する答えが——逃げる理由がない。
ユーリの目がこちらを見ていた。怯えていない。哀れんでもいない。ただ——ここにいる。その目で、ここに座っている。
胸の奥で、何かが軋んだ。
千年、閉じていた場所。蓋をして、鍵をかけて、その上に石を積んで、もう開かないようにしていた場所。そこに——亀裂が走った。
アーシャは、私を描いた。
この人間は、私の隣にいる。
違うのだ。アーシャと、この人間は違う。何が違うのか、言葉にできない。できないことが——怖い。
「……もういい。寝ろ」
立ち上がった。月を見ていられなかった。
「おやすみなさい、セレナ」
背中に声が届いた。穏やかな声だった。
振り返らなかった。振り返ったら——何かが、もう一つ壊れる気がした。
◇
翌朝から、私は薬草の質問に短く答えるようになった。
以前より短く。必要なことだけ。ユーリが「あの薬草の根の色が——」と聞けば「赤」とだけ答える。「乾燥の時間は——」「三日」。それだけ。
ユーリが戸惑っているのがわかる。何か悪いことを言ったのかと、眉を寄せているのが見える。
悪いことなど何も言っていない。逃げる理由がないと言っただけだ。たったそれだけの言葉が、千年の壁に穴を開けたのだ。
これ以上、情が移る前に——。
距離を取らなければ。今のうちに。
(この人間が老いて死ぬ時に、私が壊れないように)
庭の縁側に、昨夜ユーリが座っていた跡が残っている。木の上に、体温の名残のようなものが——ない。あるわけがない。木はとっくに冷えている。
それでも、あの人間が座っていた場所を、私は見ている。
千年というのは、人間が思うほど長い時間ではない。
——本当に、そう思っていたのに。
◇
同じ日の昼。アルデン辺境伯の屋敷の門前。
馬車が止まった。車体は飾り気がなく、しかし仕立ては確かだった。御者が扉を開ける。
中から降りてきたのは、白髪の痩せた男だった。五十半ば。旅装は簡素だが、外套の裏地に宮廷魔術師団の紋章が縫い込まれている。
辺境伯ヴィクトルが自ら門まで出迎えた。
「お待ちしておりました、モレッティ殿」
「……ええ。森の魔女を、この目で確かめに参りました」
白髪の男——ガルシア・モレッティの目は穏やかだった。学者の目だ。温厚で、冷静で、好奇心に満ちている。
その目が、森の方角を見た。
「千年分のデータ。これほどの研究対象は二度と現れないでしょう」
穏やかな声で、穏やかに、そう言った。




