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千年の片恋 〜不死の魔女は一度だけ恋をする〜  作者: 秋月 もみじ


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第5話 町と、万能薬と、嫉妬の芽


グリスヴァルの市場は、朝一番が一番賑やかだ。


石畳の広場に荷車が並び、野菜売りの声と鍛冶屋の槌の音が混ざり合って、空気ごと揺れている。干し肉の匂い、焼きたてのパンの匂い、馬の匂い。全部が一緒くたになって鼻を突く。


森の中の静けさとは別の世界だ。


「ユーリ! こっちこっち!」


マルテの声が人混みの向こうから飛んでくる。薬種問屋の看板が掲げられた店の前で、恰幅のいい女が手を振っていた。五十過ぎ。日焼けした腕が逞しい。師匠トビアスの古い取引相手で、俺が村を追い出された後も薬の買い取りを続けてくれている。


「おはようございます、マルテさん。今日の分です」


革袋から薬瓶を取り出して並べる。高熱病に効く解熱剤。傷口の化膿を防ぐ塗り薬。咳止めの煎じ薬。全部、セレナに教わった処方を基に俺が調合したものだ。


「待ってたよ。解熱剤は昨日の夕方に売り切れちまった。三軒先のパン屋の奥さんが『あの薬のおかげで子供の熱が引いた』って泣いてたからね」


マルテが瓶を受け取りながら、にやりと笑った。


「あんた、最近評判だよ。『森の薬師』って呼ばれてるの知ってるかい?」


「森の薬師……」


知らなかった。いつの間にそんな呼び名が。


「それがさ」


マルテが声を落とした。カウンターに肘をつき、顔を寄せてくる。


「ちょっと面白い話があるんだけどね。上のお偉いさんが、あんたの薬を自分の手柄にしようとしたらしいよ。『我が領の薬師が作った特効薬だ』って」


上のお偉いさん。辺境伯のことだろう。


「でも町のみんなが『違いますよ、あれはユーリって青年が持ってきたんです』って言ってさ。お偉いさん、赤っ恥だったみたいだよ」


マルテが豪快に笑った。


「あんたの顔を知ってる人間が多いからね。薬を渡す時にいちいち丁寧に説明してくれるから、みんな覚えてるのさ」


……知らなかった。俺の薬が横取りされかけていたことも、町の人たちがそれを否定してくれたことも。


嬉しい、よりも先に、申し訳ない気持ちが来た。あの薬はセレナの知識がなければ作れなかったものだ。俺の手柄ですらない。


「マルテさん、あの薬の処方は俺だけの力じゃ——」


「わかってるよ。あんた一人じゃないってことくらい、商売人の目は誤魔化せないさ。でもね、誰の知恵を借りたかなんて、効く薬をもらった人間には関係ない。あんたが調合して、あんたが運んできた。それが全部だよ」


マルテが銀貨を数えて渡してくれた。薬の代金と、少し色をつけた分。


「ありがとうございます」


「礼はいいから、次もちゃんと持ってきな。在庫が切れると困るのはこっちなんだから」



薬を納めた後、市場を歩いた。調合に使う器具の補充と、セレナへの土産——焼き菓子を買うために。


もう毎日の習慣になっている。朝、森を出る前にセレナの分の菓子を置いていく。帰りに町で新しいのを買う。今日は何にしようか。干し無花果のやつはこの間好評だった——好評というか、「……悪くない」と言われただけだが、セレナの語彙ではあれは最上級の賛辞だと俺は理解している。


「あの、すみません!」


声をかけられて振り返った。


若い女性が立っていた。二十代半ば。赤みがかった茶色の髪を後ろで束ねて、腰に薬草袋を下げている。薬師だ。


「あなたがユーリさん? 森の薬師の?」


「え——はい、ユーリ・ハーストです」


「やっぱり! 私、ネラ。隣町のブレッケンで薬師をやってるの。あなたの解熱剤、うちの町でも評判なんです。処方を聞いてもいいですか?」


目が輝いている。好奇心の塊みたいな人だった。


「処方というか……基本は古い文献にある組み合わせなんですが、配合比が少し特殊で——」


「古い文献? どこの?」


「それは——ちょっと言えないんですが」


セレナの名前は出せない。出す必要もない。


「じゃあ配合比だけでも! 銀葉草を使ってますよね? あの薬効であの即効性、銀葉草じゃないと説明がつかないんです」


「よくわかりましたね。銀葉草です。根を乾燥させてから粉末にして——」


話し込んでしまった。


ネラは薬師としての知識が確かで、質問が的確だった。俺が答えると「なるほど」「そこか」と膝を打ち、自分の処方との違いを教えてくれた。同業者と薬の話ができるのが、こんなに楽しいとは思わなかった。村にいた頃は、薬の話を真剣に聞いてくれる相手が師匠以外にいなかったから。


「ありがとう、すごく勉強になりました! また会えますか?」


「この市場には十日ごとに来てます」


「じゃあ次もここで! あ、私こっちの店の人にも薬を卸してて——」


ネラが手を振って人混みに消えていった。


楽しかった。久しぶりに、同じ言葉で話せる相手がいた。


——ただ、少し長居しすぎた。日がだいぶ傾いている。急いで焼き菓子を買い、森に向かった。



森の入口に着いた時、日は沈みかけていた。


橙色の光が木々の幹を横から照らして、長い影を作っている。いつもなら結界を抜けて庭を通り、家に帰る。


だが今日は、結界に入る前に——人影があった。


セレナが、森の入口に立っていた。


木に背を預けて、腕を組んでいる。銀灰色の髪が夕日に染まっている。こちらに気づいたが、近づいてこない。


「セレナ? どうしたんですか、こんなところに」


「……薬草を探しに来ただけだ」


薬草。


周りを見た。森の入口付近に生えているのは、どこにでもある下草と蔦と苔だ。セレナの庭にある銀葉草や月見草の亜種とは比べものにならない。


(セレナが必要とするような薬草が、こんなところに生えてるかな……)


疑問が一瞬よぎったが、深く考えなかった。セレナのことだ。俺の知らない薬草があるのかもしれない。


「帰りましょうか」


「……ああ」


並んで歩いた。結界を抜け、庭を通り、家に入る。いつもの道。


だがセレナが無口だった。


いつも無口ではある。だが今日の無口は質が違った。俺が話しかけても「……ああ」「……そうか」としか返ってこない。視線が合わない。台所に入って茶の支度をしている間も、セレナは居間の隅で本を開いたまま、頁をめくる気配がなかった。


「セレナ、今日の市場でネラっていう薬師に会って——」


言いかけた瞬間、セレナの指が本の角を強く押さえた。ほんの一瞬。すぐに力が抜けて、何事もなかったように頁をめくる。


「……そうか」


それだけだった。


(今日は機嫌が悪いのかな。俺、何かしたかな)


帰りが遅かったのが悪かったのかもしれない。明日からはもう少し早く戻ろう。


「セレナ、今日の薬の調合の相談なんですが——」


「……明日にしろ」


本を閉じて、セレナが立ち上がった。部屋を出ていく背中。扉が閉まる。


俺は一人で茶を飲んだ。少しぬるかった。



翌朝。


町に出かける支度をしていると、台所からセレナの声がした。


「ユーリ」


「はい」


振り向くと、セレナが小さな瓶を持っていた。掌に収まるほどの、古い硝子の瓶。蓋は蝋で丁寧に封じてある。中に琥珀色の液体が入っている。


「……これも持っていけ」


「何ですか、これ」


「万能薬だ。高熱にも傷にも効く。量は少ないが、一滴で常人の致死量の毒を中和する」


万能薬。名前は師匠の図鑑にもあった。だが「現存する処方は極めて少なく、調合できる者はほとんどいない」と書かれていた。


「これ、セレナが作ったんですか」


「他に誰がいる」


「……すごい。ありがとうございます」


(認めてくれたのかな)


薬師として。セレナの知識を受け継いで、自分の薬を調合して、町の人に届けている。その俺を、薬師として認めてくれたから、万能薬を持たせてくれたのか。


瓶を大事に革袋に入れた。


「必ず売らずに取っておきます。いざという時のために」


「……好きにしろ」


セレナが背を向けた。窓の外を見ている。横顔は、いつもと同じ。


だが瓶を渡す時、セレナの指がほんの一瞬、瓶の表面を撫でた。名残惜しむように。


俺は気づかなかった。



セレナの家。台所。


ユーリが出かけた後。


私は棚の前に立っていた。万能薬を保管していた場所。棚の奥、布に包んで置いていた。千年で——いくつ作ったか。三つ。四つ。数えるほどだ。材料が手に入ることが稀で、調合に半年かかる。


それをあの人間に渡した。


(……あの薬師の女と楽しそうに話していた。別に、どうでもいいが)


どうでもいい。どうでもいいのだ。あの人間が町で誰と話そうが、誰に笑いかけようが。


棚の空いた場所に手を置いた。布だけが残っている。


(なぜ渡した)


薬師として認めたから? 違う。認めてはいる。あの人間の調合の腕は確かだ。教えたことを吸い込むように覚え、自分の手で形にする。トビアスが「頼れ」と書き残した理由がわかる。


だが万能薬を渡す理由にはならない。


あの人間が町で危険な目に遭った時のために。あの人間が毒に倒れた時、すぐに使えるように。


(——あの人間が、いなくなったら困るからだ)


困る。


認めたくないが、困る。朝の足音がなくなったら。庭の水やりをする気配が消えたら。茶を淹れる音が聞こえなくなったら。


昨日、あの人間の帰りが遅かった。日が傾んでも足音が聞こえなくて、気づいたら森の入口に立っていた。薬草を探しに来たと言った。嘘だ。あの入口に、私の必要な薬草など一つもない。


知っていて行った。


知っていて——。


棚を閉めた。


居間に戻ると、ユーリが置いていった焼き菓子の包みがテーブルにあった。今日は干し林檎のやつだ。


一つ手に取って、齧った。


甘い。


「……別に、どうでもいい」


誰もいない部屋で、そう言った。



同じ日の夕方。マルテの薬種問屋。


閉店間際に、見慣れない男が入ってきた。仕立てのいい外套。子爵家の紋章が刺繍された胸元。


「カルヴィス子爵家の者です。レイモン・デュプレ子爵閣下のご意向で参りました。こちらで扱っている『森の薬師』の解熱剤について、お話をうかがいたい」


マルテが目を丸くした。


「子爵家が? うちの薬を?」


「はい。子爵閣下は辺境の交易に深い関心をお持ちです。あの薬の品質と供給について、正式にお取引のご相談をさせていただきたく」


マルテの顔に、商売人の笑みが浮かんだ。


「——ユーリの奴に伝えとくよ。あんた、出世するかもね、って」

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