表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千年の片恋 〜不死の魔女は一度だけ恋をする〜  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第3話 罠と、師匠の秘密


"不死の魔女"の庭は、春の匂いがした。


土の湿った匂い。若葉の青さ。根元に落ちた花弁がかすかに甘い。結界の内側に入るようになって五日目の朝、俺はもうこの匂いに馴染み始めていた。


「——この薬草、葉の切れ込みが深いほうが薬効が強いんですよね」


「……違う」


セレナが庭の隅にしゃがんだまま、こちらを見ずに言った。


「切れ込みの深さは薬効と相関しない。根の色を見ろ。白いうちは未熟、赤みが差したら採り時だ」


「根の色……師匠の図鑑には書いてなかった」


「書いてないだろうな。あの男は根を掘るのが下手だった」


あの男。トビアスのことだ。セレナは師匠の名前を出す時、いつもそう言う。「あの男」「あの老人」。名前では呼ばない。


毎朝、焼き菓子を持って結界をくぐる。最初の二日は家の外までしか入れなかったが、三日目に庭の端まで許された。「……踏むな。そこに苗がある」とだけ言われて、それが許可だと理解した。


セレナは質問に答えてくれる。素っ気なく、短く、時には呆れたような息を吐きながら。だが答えてくれる。師匠の図鑑に載っていない知識が次から次へと出てくる。根の色で採り時を見る方法。葉を乾燥させる時の風向き。同じ種でも自生地の土壌で成分が変わること。


「セレナさん、この——」


「"さん"はいらん」


「……セレナ。この薬草、図鑑の百五十頁にある『月見草』と似てるんですが、葉脈の走り方が違う気がして」


「気がするじゃない。違う。月見草の亜種で、こちらのほうが鎮痛効果が高い。名前は——」


一瞬、間があいた。


「……忘れた。昔は知っていたんだが」


言葉を探すように、セレナの視線が宙を泳いだ。すぐに戻って、「まあいい。効能がわかれば名前は要らん」と打ち切った。


千年。


あの家の壁に刻まれた正の字。あの途方もない数。千年も生きていたら、忘れることのほうが多いのかもしれない。


俺にはわからない。二十年しか生きていない俺には。


「ユーリ」


名前を呼ばれて顔を上げた。セレナが庭の東側を顎で示している。


「あの区画の銀葉草、葉先が丸まってきている。水をやりすぎたな。お前が昨日——」


「すみません、加減がわからなくて」


「明日から半分にしろ。枯らしたら承知しない」


「はい」


……こうやって、普通に会話ができるようになった。一週間前、結界に弾き返されていたのが嘘みたいだ。


俺は腰を上げて、東側の区画に向かった。銀葉草の状態を確認しよう。教えてもらった通り、土の配合は腐葉土と川砂が三対一。日照の制御はセレナが結界で——


足が、止まった。


銀葉草の根元。土の表面に、何かが刻まれている。


溝だ。浅く、細く、土に線が引かれている。円を描くように。円の内側に記号のようなものが並んでいる。文字ではない。紋様だ。


師匠の図鑑の六十二頁。


魔術罠の項。「地面に刻まれた紋様は、起動条件を満たすと術式が発動する。触媒型、拡散型、束縛型の三種に大別される」。図版として載っていた紋様のうち、拡散型のものと——酷似している。


背中が冷えた。


毒の拡散型。起動すれば、半径数歩の範囲に毒霧を撒く。師匠の図鑑には「解毒が極めて困難」と注記されていた。


こんなものが、なぜセレナの庭に。


「セレナ!」


声を張った。走って庭の西側に戻る。セレナが振り向いた。


「東の区画に——紋様がある。地面に。師匠の図鑑にあった毒の拡散型に似てる」


セレナの表情が変わった。変わった、というのは正確ではない。元々感情の読めない顔だ。だが目の奥の温度が、一段下がった気がした。


「見せろ」


短く言って、セレナが東の区画に歩いていく。俺の後をついていくのではなく、俺より先に。足取りに迷いがない。


銀葉草の根元。セレナが紋様を見下ろした。


一瞬だった。


セレナの右手の指が、一本だけ持ち上がり、紋様の上を薙いだ。それだけ。音もなかった。風も起きなかった。


地面の紋様が、砂のように崩れて消えた。


「この程度の術……」


セレナが立ち上がる。指についた土を払う仕草が、ひどく日常的だった。


「千年も生きていれば、子供の遊びに見える」


声に怒りはなかった。呆れに近い。だがその次の言葉には、温度があった。


「宮廷魔術師団の紋様だ」


紋様の構成——崩れる前の線の流れを、セレナは一目で読み取ったらしい。


「厄介な連中が嗅ぎつけたか」


宮廷魔術師団。王都の魔術機関の名前は俺でも知っている。だが、なぜセレナの庭に罠を仕掛けるのか。


「セレナ、あなたを狙って——」


「今に始まったことじゃない」


それだけ言って、セレナは家の方に歩き出した。背中が何かを閉ざしている。これ以上聞くなと言いたげな。


……だが俺には、聞かなければならないことがあった。



家の中に入ったのは、これが初めてだった。


「入れ」と言われたわけではない。セレナが扉を開けたまま中に入ったので、閉じないうちについていった。振り返ったセレナが一瞬こちらを見たが、「……勝手にしろ」とだけ言った。


見覚えのある部屋。目を覚ました時に見た天井。薬草の束が吊るされた壁。古い書物の山。


テーブルの上に薬草図鑑を広げた。


「セレナ。これ、師匠の——トビアスの図鑑です。ここに走り書きがあって」


四十七頁を開く。師匠の筆跡。


『森の奥の魔女——彼女を頼れ』


セレナの目が、見開かれた。


ほんの一瞬。まばたき一つ分の時間。だが確かに、紫灰色の瞳が大きくなった。


「……トビアス。あの老人、まだ生きて——」


「半年前に亡くなりました」


沈黙。


セレナの手が、テーブルの端に触れて止まった。指が白くなるほど、木を握っている。


「……そうか」


一言。それだけだった。


表情は変わらない。声の高さも変わらない。だが手が——テーブルを握る指が、一瞬だけ、止まっていた。


「数十年前だ」


セレナが、図鑑から視線を外して言った。窓の外を見ている。


「あの男が森に迷い込んできた。足を怪我していた。薬草を分けてやった。それだけだ」


「それだけ、ですか」


「それだけだ。あの男は——口の堅い人間だった。誰にも言わなかったのだろう。私のことを」


師匠。俺にも言わなかった。図鑑に走り書きを残すだけで、一度も「森に魔女がいる」とは口にしなかった。


セレナとの約束を、死ぬまで守っていたのか。


「師匠は、あなたのことを信頼していたんだと思います」


「……勝手なことを言うな。あの男は勝手に来て、勝手に帰っただけだ」


声が、少しだけ硬くなった。これ以上は聞くな、という硬さだ。


俺は図鑑を閉じかけて——手が止まった。


ずっと気になっていた頁がある。図鑑の奥のほう。師匠が別の紙を貼り込んだ、古い頁。


開いた。


『彼女の呪いについて』


見出しだけが読める。本文はほとんど掠れて消えている。「千」と「解」の文字がかろうじて見えるだけ。


呪い。


セレナに、呪い。


「……それは」


セレナの声。低い。さっきまでとは違う低さだ。


「読めないだろう。読む必要もない」


図鑑に手を伸ばしかけたセレナが、途中で手を止めた。伸ばした指を握り、下ろす。


「……あの男は、余計なことを書く」


その声は怒りではなかった。怒りにしては、少しだけ柔らかかった。


俺は図鑑を閉じた。聞けない。今はまだ。



気まずさを振り払うように、薬草の整理を手伝った。


セレナの家の棚は高い。天井近くまで薬草の束や瓶が並んでいる。セレナは背伸びひとつで届くが、俺には椅子が必要だ。


「上から三段目の、青い蓋の瓶を取れ」


「はい——これですか」


椅子の上で背を伸ばす。指先が瓶に触れた。だが隣に積まれた薬草の束が崩れて、バランスが——


傾いた。


椅子の脚が浮いて、体が横に流れる。棚を掴もうとしたが手が滑り、背中から落ちる——


落ちなかった。


背中に、手のひらの感触があった。


片手。片手だけで、俺の体を支えている。セレナの左手が俺の背に当たっていた。指は長く、掌は大きい。冷たかった。だが支える力は確かで、微動だにしない。


顔が近い。


至近距離で、セレナの瞳を見た。紫灰色。薄い虹彩の中に、もっと暗い紫の環がある。こんなに近くで見たのは初めてだった。


(——きれいな、色だ)


口には出さなかった。出す余裕がなかった。心臓が、落下の恐怖とは別の理由で、速く打っていた。


セレナが手を離した。支えを失って足がもつれかけたが、なんとか椅子に手をついて立て直す。


離すのが、早かった。


俺が体勢を整えるより先に。まるで——触れている時間を、一秒でも短くしたかったように。


「……気をつけろ」


セレナは既に背を向けていた。声だけが届く。


「人間は壊れやすい」


壊れやすい。


その言葉が妙に重く聞こえた。壊れやすいことを、この人は知っている。知りすぎているほど知っている。


「すみません。ありがとうございます」


「……礼はいらん。棚を壊されるほうが困る」


セレナが棚の整理に戻る。横顔は相変わらず無表情だ。何事もなかったかのように。


だが右手——さっき俺を受け止めた左手ではなく、反対の右手が、握られているのが見えた。何かを堪えるように、きつく。


あれは何だったんだろう。


あの一瞬、セレナの瞳に何か——名前のつけられないものが走った気がした。気のせいかもしれない。


帰り道、図鑑を抱えて森を歩きながら考えた。


師匠はセレナを知っていた。セレナの呪いについて書き残そうとした。掠れて読めなくなるほど古い紙に。


宮廷魔術師団がセレナを狙っている。罠を仕掛けるほどに。


そしてセレナは——千年、一人で、あの森にいる。


壁の正の字。あの途方もない数。千年分の日数。千年分の孤独。


俺に何ができるかはわからない。わからないけれど。


明日もまた、菓子を持って行こう。今度は何がいいかな。干し無花果のやつが、まだ試してない。


足元の枯れ葉を蹴って、俺は村への道を歩いた。手首の、薬草の跡がもう消えかけている。あの丁寧な巻き方を、俺は忘れないだろうと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ