第3話 罠と、師匠の秘密
"不死の魔女"の庭は、春の匂いがした。
土の湿った匂い。若葉の青さ。根元に落ちた花弁がかすかに甘い。結界の内側に入るようになって五日目の朝、俺はもうこの匂いに馴染み始めていた。
「——この薬草、葉の切れ込みが深いほうが薬効が強いんですよね」
「……違う」
セレナが庭の隅にしゃがんだまま、こちらを見ずに言った。
「切れ込みの深さは薬効と相関しない。根の色を見ろ。白いうちは未熟、赤みが差したら採り時だ」
「根の色……師匠の図鑑には書いてなかった」
「書いてないだろうな。あの男は根を掘るのが下手だった」
あの男。トビアスのことだ。セレナは師匠の名前を出す時、いつもそう言う。「あの男」「あの老人」。名前では呼ばない。
毎朝、焼き菓子を持って結界をくぐる。最初の二日は家の外までしか入れなかったが、三日目に庭の端まで許された。「……踏むな。そこに苗がある」とだけ言われて、それが許可だと理解した。
セレナは質問に答えてくれる。素っ気なく、短く、時には呆れたような息を吐きながら。だが答えてくれる。師匠の図鑑に載っていない知識が次から次へと出てくる。根の色で採り時を見る方法。葉を乾燥させる時の風向き。同じ種でも自生地の土壌で成分が変わること。
「セレナさん、この——」
「"さん"はいらん」
「……セレナ。この薬草、図鑑の百五十頁にある『月見草』と似てるんですが、葉脈の走り方が違う気がして」
「気がするじゃない。違う。月見草の亜種で、こちらのほうが鎮痛効果が高い。名前は——」
一瞬、間があいた。
「……忘れた。昔は知っていたんだが」
言葉を探すように、セレナの視線が宙を泳いだ。すぐに戻って、「まあいい。効能がわかれば名前は要らん」と打ち切った。
千年。
あの家の壁に刻まれた正の字。あの途方もない数。千年も生きていたら、忘れることのほうが多いのかもしれない。
俺にはわからない。二十年しか生きていない俺には。
「ユーリ」
名前を呼ばれて顔を上げた。セレナが庭の東側を顎で示している。
「あの区画の銀葉草、葉先が丸まってきている。水をやりすぎたな。お前が昨日——」
「すみません、加減がわからなくて」
「明日から半分にしろ。枯らしたら承知しない」
「はい」
……こうやって、普通に会話ができるようになった。一週間前、結界に弾き返されていたのが嘘みたいだ。
俺は腰を上げて、東側の区画に向かった。銀葉草の状態を確認しよう。教えてもらった通り、土の配合は腐葉土と川砂が三対一。日照の制御はセレナが結界で——
足が、止まった。
銀葉草の根元。土の表面に、何かが刻まれている。
溝だ。浅く、細く、土に線が引かれている。円を描くように。円の内側に記号のようなものが並んでいる。文字ではない。紋様だ。
師匠の図鑑の六十二頁。
魔術罠の項。「地面に刻まれた紋様は、起動条件を満たすと術式が発動する。触媒型、拡散型、束縛型の三種に大別される」。図版として載っていた紋様のうち、拡散型のものと——酷似している。
背中が冷えた。
毒の拡散型。起動すれば、半径数歩の範囲に毒霧を撒く。師匠の図鑑には「解毒が極めて困難」と注記されていた。
こんなものが、なぜセレナの庭に。
「セレナ!」
声を張った。走って庭の西側に戻る。セレナが振り向いた。
「東の区画に——紋様がある。地面に。師匠の図鑑にあった毒の拡散型に似てる」
セレナの表情が変わった。変わった、というのは正確ではない。元々感情の読めない顔だ。だが目の奥の温度が、一段下がった気がした。
「見せろ」
短く言って、セレナが東の区画に歩いていく。俺の後をついていくのではなく、俺より先に。足取りに迷いがない。
銀葉草の根元。セレナが紋様を見下ろした。
一瞬だった。
セレナの右手の指が、一本だけ持ち上がり、紋様の上を薙いだ。それだけ。音もなかった。風も起きなかった。
地面の紋様が、砂のように崩れて消えた。
「この程度の術……」
セレナが立ち上がる。指についた土を払う仕草が、ひどく日常的だった。
「千年も生きていれば、子供の遊びに見える」
声に怒りはなかった。呆れに近い。だがその次の言葉には、温度があった。
「宮廷魔術師団の紋様だ」
紋様の構成——崩れる前の線の流れを、セレナは一目で読み取ったらしい。
「厄介な連中が嗅ぎつけたか」
宮廷魔術師団。王都の魔術機関の名前は俺でも知っている。だが、なぜセレナの庭に罠を仕掛けるのか。
「セレナ、あなたを狙って——」
「今に始まったことじゃない」
それだけ言って、セレナは家の方に歩き出した。背中が何かを閉ざしている。これ以上聞くなと言いたげな。
……だが俺には、聞かなければならないことがあった。
◇
家の中に入ったのは、これが初めてだった。
「入れ」と言われたわけではない。セレナが扉を開けたまま中に入ったので、閉じないうちについていった。振り返ったセレナが一瞬こちらを見たが、「……勝手にしろ」とだけ言った。
見覚えのある部屋。目を覚ました時に見た天井。薬草の束が吊るされた壁。古い書物の山。
テーブルの上に薬草図鑑を広げた。
「セレナ。これ、師匠の——トビアスの図鑑です。ここに走り書きがあって」
四十七頁を開く。師匠の筆跡。
『森の奥の魔女——彼女を頼れ』
セレナの目が、見開かれた。
ほんの一瞬。まばたき一つ分の時間。だが確かに、紫灰色の瞳が大きくなった。
「……トビアス。あの老人、まだ生きて——」
「半年前に亡くなりました」
沈黙。
セレナの手が、テーブルの端に触れて止まった。指が白くなるほど、木を握っている。
「……そうか」
一言。それだけだった。
表情は変わらない。声の高さも変わらない。だが手が——テーブルを握る指が、一瞬だけ、止まっていた。
「数十年前だ」
セレナが、図鑑から視線を外して言った。窓の外を見ている。
「あの男が森に迷い込んできた。足を怪我していた。薬草を分けてやった。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「それだけだ。あの男は——口の堅い人間だった。誰にも言わなかったのだろう。私のことを」
師匠。俺にも言わなかった。図鑑に走り書きを残すだけで、一度も「森に魔女がいる」とは口にしなかった。
セレナとの約束を、死ぬまで守っていたのか。
「師匠は、あなたのことを信頼していたんだと思います」
「……勝手なことを言うな。あの男は勝手に来て、勝手に帰っただけだ」
声が、少しだけ硬くなった。これ以上は聞くな、という硬さだ。
俺は図鑑を閉じかけて——手が止まった。
ずっと気になっていた頁がある。図鑑の奥のほう。師匠が別の紙を貼り込んだ、古い頁。
開いた。
『彼女の呪いについて』
見出しだけが読める。本文はほとんど掠れて消えている。「千」と「解」の文字がかろうじて見えるだけ。
呪い。
セレナに、呪い。
「……それは」
セレナの声。低い。さっきまでとは違う低さだ。
「読めないだろう。読む必要もない」
図鑑に手を伸ばしかけたセレナが、途中で手を止めた。伸ばした指を握り、下ろす。
「……あの男は、余計なことを書く」
その声は怒りではなかった。怒りにしては、少しだけ柔らかかった。
俺は図鑑を閉じた。聞けない。今はまだ。
◇
気まずさを振り払うように、薬草の整理を手伝った。
セレナの家の棚は高い。天井近くまで薬草の束や瓶が並んでいる。セレナは背伸びひとつで届くが、俺には椅子が必要だ。
「上から三段目の、青い蓋の瓶を取れ」
「はい——これですか」
椅子の上で背を伸ばす。指先が瓶に触れた。だが隣に積まれた薬草の束が崩れて、バランスが——
傾いた。
椅子の脚が浮いて、体が横に流れる。棚を掴もうとしたが手が滑り、背中から落ちる——
落ちなかった。
背中に、手のひらの感触があった。
片手。片手だけで、俺の体を支えている。セレナの左手が俺の背に当たっていた。指は長く、掌は大きい。冷たかった。だが支える力は確かで、微動だにしない。
顔が近い。
至近距離で、セレナの瞳を見た。紫灰色。薄い虹彩の中に、もっと暗い紫の環がある。こんなに近くで見たのは初めてだった。
(——きれいな、色だ)
口には出さなかった。出す余裕がなかった。心臓が、落下の恐怖とは別の理由で、速く打っていた。
セレナが手を離した。支えを失って足がもつれかけたが、なんとか椅子に手をついて立て直す。
離すのが、早かった。
俺が体勢を整えるより先に。まるで——触れている時間を、一秒でも短くしたかったように。
「……気をつけろ」
セレナは既に背を向けていた。声だけが届く。
「人間は壊れやすい」
壊れやすい。
その言葉が妙に重く聞こえた。壊れやすいことを、この人は知っている。知りすぎているほど知っている。
「すみません。ありがとうございます」
「……礼はいらん。棚を壊されるほうが困る」
セレナが棚の整理に戻る。横顔は相変わらず無表情だ。何事もなかったかのように。
だが右手——さっき俺を受け止めた左手ではなく、反対の右手が、握られているのが見えた。何かを堪えるように、きつく。
あれは何だったんだろう。
あの一瞬、セレナの瞳に何か——名前のつけられないものが走った気がした。気のせいかもしれない。
帰り道、図鑑を抱えて森を歩きながら考えた。
師匠はセレナを知っていた。セレナの呪いについて書き残そうとした。掠れて読めなくなるほど古い紙に。
宮廷魔術師団がセレナを狙っている。罠を仕掛けるほどに。
そしてセレナは——千年、一人で、あの森にいる。
壁の正の字。あの途方もない数。千年分の日数。千年分の孤独。
俺に何ができるかはわからない。わからないけれど。
明日もまた、菓子を持って行こう。今度は何がいいかな。干し無花果のやつが、まだ試してない。
足元の枯れ葉を蹴って、俺は村への道を歩いた。手首の、薬草の跡がもう消えかけている。あの丁寧な巻き方を、俺は忘れないだろうと思った。




