第2話 百回拒んでも、百一回目に
魔女に会いに行く、と言ったら、村の人間は全員俺を止めるだろう。だから誰にも言わなかった。
森の入口に立ったのは、あの日から三日後の朝だった。
体はもう動く。手首の薬草は昨夜ようやく外した。巻かれていた跡が白く残っていて、指で触れるとまだ少しだけ、あの家の匂いがした。
手には紙包み。村の菓子屋で買った焼き菓子だ。胡桃と蜂蜜の、素朴なやつ。礼を言いたい、名前を聞きたい——それだけのつもりだった。
森に入る。三日前に光で導かれた道を記憶だけで辿り直す。枝を折って目印にしながら、半刻ほど歩いた。
あの家が見えた。
そして、見えない壁にぶつかった。
正確に言えば、ぶつかる前に足が止まった。空気の質が変わるのだ。一歩先から、まるで水の底に踏み込むような圧がある。進めない。押しても、横から回り込んでも、体が弾かれる。
結界、というものだろう。魔術の知識は俺にはないが、師匠の図鑑には「魔術師の中には領域を閉ざす術を使う者がいる」とあった。
「あの——すみません!」
声を張った。家の窓は閉まっている。反応はない。
「助けていただいた礼に来ました! これ、村の菓子です!」
沈黙。
風が枝を揺らす音だけが返ってくる。
十分ほど待った。扉は開かない。
仕方なく、結界の境目——足が止まるぎりぎりの線に、紙包みを置いた。
「ここに置いておきます。……また来ます」
振り返りながら、一度だけ家を見た。窓の奥に影が動いた気がしたが、確かめる術はなかった。
◇
翌日も行った。
結界に阻まれて近づけない。同じ場所に菓子を置いた。今度は胡桃ではなく、干し杏の入ったやつにした。
「今日のは杏です。甘いのが苦手だったらすみません」
返事はない。
帰り際、昨日菓子を置いた場所を確認した。
紙包みがなくなっていた。
……動物に食べられたのかもしれない。森だ、獣はいくらでもいる。そう思うのが自然だろう。
だが紙包みの紐が、丁寧にほどかれた状態で草の上に残っていた。
獣は、紐をほどかない。
(……食べてくれた、のか?)
確信はない。でも足取りが少し軽くなったのは確かだった。
◇
三日目。
結界はまだ閉じている。だが今日は菓子だけじゃない。師匠の図鑑を持ってきていた。あの走り書きのことを聞きたかった。
いつもの場所に菓子を置こうとしゃがんだ時、結界の向こう——家の脇に、庭のようなものが見えた。
薬草園だ。
膝が止まった。
柵もない。だが区画が整然と分かれていて、それぞれに異なる薬草が植えられている。結界越しでも、葉の色と形はわかる。図鑑で何度も見た種がいくつもあった。
「……すごい」
声が出た。独り言のつもりだったが、結界の向こうに聞こえたらしい。
家の脇の木陰から、あの女が姿を見せた。銀灰色の髪が木漏れ日を弾いている。紫灰色の瞳がこちらを見ていた。表情はない。三日前と同じ、何の感情も読み取れない顔。
「また来たのか。帰れと言った」
冷たい。声に温度がない。
「あの薬草園、見えました。図鑑の百二十三頁——『銀葉草』ですよね、奥に植わっているの。あんな完璧な状態で育っているのは初めて見ました」
女の眉が、ほんの僅かに動いた。
「師匠の図鑑には、銀葉草は野生では群生しないと書いてありました。土の配合を変えて、日照を制御しないと枯れる。でもあそこのは葉脈まで綺麗に通っている。どうやって——」
「……うるさい男だ」
それだけ言って、女は木陰に引き返そうとした。
だが——足が止まった。振り返りはしない。背中のまま、低い声で。
「銀葉草の土は腐葉土と川砂を三対一で混ぜる。教本には載っていない」
それだけ言って、今度こそ消えた。
教えてくれた。
追い返しながら、教えてくれた。あの人は、いつもそうだ。
◇
その日の昼過ぎだった。
薬草園の近く——結界の境目で図鑑の記述を確認していた俺の耳に、複数の足音が届いた。
重い。革靴の、揃った足音。一人や二人じゃない。
木々の間から姿が見えた。兵士だ。革鎧に短剣、辺境伯の紋章が入った外套。十名。隊列を組んで、森の奥に向かって進んでいる。
先頭の男が声を張り上げた。
「アルデン辺境伯ヴィクトル・ロートリンゲンの名において命ずる! 森に住まう者よ、速やかに出頭せよ!」
声が木々に反響する。鳥が一斉に飛び立った。
俺は藪の陰に身を隠した。見つかったらまずい。魔女に近づいている男だと知られたら——今の村での立場がどうなるか。
兵士たちが結界に近づく。先頭の男が一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
風が、吹いた。
そう思った。ただ風が吹いただけだと。
次の瞬間、兵士たちの姿が消えていた。
比喩じゃない。十人がまとめて、音もなく消えた。立っていた場所に枯れ葉が舞っているだけだ。
(——は?)
数秒、何が起きたのか理解できなかった。
理解できたのは、遠く——森の入口のほうから、男たちのざわめく声が聞こえてきた時だった。
「何だ今のは——」「気づいたら入口にいた——」「怪我はないのか」「ない、ないが——」
弾き飛ばされたのだ。森の入口まで。数百歩の距離を一瞬で。
十人まとめて。
怪我ひとつなく。
家の脇に、あの女が立っていた。腕を組んで、結界の向こうから森の入口の方角を見ている。面倒そうに、息をひとつ吐いた。それだけだった。怒りも、苛立ちも、ない。ただ——虫を払うような、そんな仕草。
力がある。圧倒的な力がある。
なのに、あの兵士たちは誰一人怪我をしていない。
殺せたはずだ。あの力なら。それを選ばなかった。
俺は藪の陰から立ち上がった。膝についた泥を払う。心臓がまだ速く打っていた。
(この人は——人を傷つけたくないんだ)
◇
夕暮れ。
帰ろう、と思った。今日はもう十分だ。菓子は結界の境目に置いてある。薬草園のことを教えてもらえた。それだけで十分な収穫だ。
森の道を引き返しかけた時、背後から声がした。
「——ユーリ、と言ったか」
足が止まった。
振り返る。
結界の境目に、あの女が立っていた。夕日が銀灰色の髪を橙に染めている。腕は組んでいない。両手が体の横に下りて、指先がかすかに動いている。
声が、さっきと違った。
兵士に向けた声は冷たく、硬かった。石の壁のようだった。今の声は——低いのは同じだ。だが半音、柔らかい。輪郭が、ほんの少しだけ丸くなっている。
そんな違いに気づいたのは、たぶん俺だけだ。
「はい。ユーリ・ハーストです」
「明日も来るなら」
一拍、間があった。
「……その菓子を、もう一つ持ってこい」
夕日が、結界の向こうの女を染めている。表情は相変わらず読めない。だが「帰れ」とは、言わなかった。
「——はい。持ってきます」
笑ったのは、自分でもわかった。顔が勝手にそうなった。
背を向けて歩き出す。足取りが軽い。三日間、追い返され続けて、それでも通った甲斐があった。
名前を呼んでもらえた。
たったそれだけのことが、こんなに嬉しい。
(……魔女にしては穏やかな人だ)
そう思いながら、森を抜けた。
◇
同じ夕暮れ。アルデン辺境伯ヴィクトル・ロートリンゲンの執務室。
窓の外が赤く染まっている。机の上に、兵の報告書が広げられていた。
『結界により接近不能。全員が森の入口まで弾き飛ばされ、負傷者なし。魔女の姿を視認するも、対話は成立せず』
ヴィクトルは報告書を机に叩きつけた。
「力ずくでは無理か」
椅子の背に体を預ける。指が肘掛けを叩く。苛立ちを隠す気もない顔だった。
扉を叩く音。使用人が書簡を持ってきた。封蝋に押された紋章は、宮廷魔術師団のもの。
封を切る。
『辺境伯閣下
森の魔女の件、承知いたしました。結界術の突破には正面からの力押しは悪手かと存じます。別の手段をご提案いたします。近日中に弟子を一人、そちらへ向かわせます。
ガルシア・モレッティ』
ヴィクトルの指が、書簡の縁をゆっくりと撫でた。
「……別の手段、か」
窓の外で、森の稜線が夕闇に沈んでいく。




