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千年の片恋 〜不死の魔女は一度だけ恋をする〜  作者: 秋月 もみじ


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第1話 森の奥で、目が覚めた


薬草の匂いで目が覚めた。知らない天井だった。


木の梁が低く渡された、古い家の寝台。頬に触れる枕は麻布で、かすかに湿っている。——汗か。俺の汗だ。


体を起こそうとして、腕に力が入らなかった。


(……どうなった)


最後に覚えているのは、森の奥。図鑑の四十七頁に載っていた薬草——「星灯花」の自生地を探して、藪に手を突っ込んだところまでだ。


指先に触れた蔓の感触。ぬるり、と巻きつく冷たさ。


それから——痺れ。喉の奥が灼けるような痛み。地面に膝をつく自分の視界が暗くなって、あとは何も。


夜啼蔓だ。


師匠の図鑑にも書いてあったじゃないか。「葉の裏が青黒い蔓は夜啼蔓。触れるだけで毒が皮膚に浸透する。解毒には少なくとも三日を要する」。星灯花と自生域が重なる、と注意書きまであったのに。


半人前。


村の薬師長老に言われた言葉が、朦朧とした頭の中でぐるぐる回った。半人前のくせに一人前の薬草を探しに行って、毒草の見分けもつかず倒れた。笑い話にもならない。


——だが、俺は生きている。


体を起こした。腕は動く。痺れもない。あれだけの毒が回って、なぜ。


視線を落とすと、右の手首に薬草が巻かれていた。


見たことのない葉だった。銀がかった緑色の細い葉が、手首をぐるりと覆っている。巻き方が丁寧だった。葉と葉の重なりに隙間がなく、端が肌を擦らないように折り込んである。何度も、何度もこういう手当をしてきた人の手つきだ、と思った。


師匠の手当に似ている。いや——もっと、慣れている。


部屋を見回す。


壁際に薬草の束が幾つも吊るされている。乾燥の仕方が均一で、どれも状態がいい。棚には古い書物が積まれ、背表紙の文字はほとんど読めないほど色褪せていた。窓は小さく、外の光がわずかに差し込んでいる。


薬草の匂いが濃い。師匠の工房に似た匂い。だがもっと深くて、古い。何十年——いや、もっと長い時間をかけて沁み込んだような。


足音がした。


寝台の向こう、奥の部屋に続く扉の前に、ひとりの女が立っていた。


銀灰色の長い髪。背は俺より少し低いくらい。年は——わからない。二十代にも、もっと上にも見える。顔立ちは整っているが、表情がなかった。紫がかった灰色の瞳が、こちらを見ている。何の感情も読み取れない。


「目が覚めたか」


声は低い。言葉は短い。


「とっとと帰れ。二度と来るな」


それだけ言って、女は背を向けた。


「あの——」


声をかけた。待ってくれ、礼くらい言わせてほしい。


だが女は振り返らなかった。扉の向こうに消えて、足音が遠ざかる。追いかけようにも、体がまだ重い。寝台の縁に手をついて立ち上がるだけで息が上がった。


仕方なく、家を出ることにした。


玄関——というほど立派なものはなく、古い木の扉がひとつあるだけだ。扉を押して外に出る。振り返った時、壁が目に入った。


正。


正の字が刻まれている。


扉の右側の壁に。縦に五本、横に一本。正。正。正。正。正——数え切れない。壁の下から上まで、びっしりと。古いものは木の色に沈んで溝だけになっている。新しいものは——新しいと言っても、随分前に刻まれたもののように見えた。


何を数えていたんだろう。


誰が。どれほどの時間をかけて。


一人で。


背中がぞくりとした。寒さとは違う。この家の主が過ごしてきた時間の厚みに触れた気がして、足が止まった。


立ち尽くしていても仕方がない。森から出なければ。


だが、森の奥だ。俺はここに自分の足で来たわけじゃない。運ばれたのだ、おそらくあの女に。帰り道なんてわからない。


一歩踏み出した時、足元が光った。


地面に埋め込まれた石のような——いや、違う。石じゃない。光の筋だ。苔むした地面の上を、細い光の線が走っている。森の木々の間を縫うように、一本の道になって続いている。


あの女の魔術だ。


二度と来るなと言いながら、帰り道を照らしてくれている。


(——なんだよ、それ)


冷たい言葉と、丁寧な手当。追い出す声と、導く光。ちぐはぐだった。全部ちぐはぐだ。


光の道を辿って歩いた。枝を踏む音だけが響く。途中、一度だけ振り返った。光の向こうに、あの古い家の屋根がかすかに見えた。


森を抜けると、光は消えた。



自宅に戻ったのは日が落ちてからだった。


師匠の——トビアスの遺した小さな家。薬草の乾燥棚と、調合台と、壁にかかった使い込まれた道具。半年前に師匠が逝ってから、俺が一人で使っている。


膝に手をついて息をつく。毒は抜けていたが、体力はまだ戻り切っていない。


水を飲んで、椅子に座る。


机の上に置きっぱなしの薬草図鑑が目に入った。師匠が生涯をかけて書き溜めた、手書きの図鑑。表紙の革は手垢で黒ずんで、角が丸くなっている。


今日も、この図鑑を握って森に入った。


……半人前のまま、師匠には追いつけないのかもしれない。


そう思いながら、何気なく図鑑を開いた。四十七頁——星灯花の項を確認しようとして、指が引っかかった。頁の端が折り込まれている。師匠の癖だ。重要な箇所に折り目をつける。


だが、この頁に折り目をつけた覚えはなかった。以前は確かになかった。


開く。


星灯花の記述の下、余白に——走り書きがあった。


師匠の筆跡。間違いない。あの少し右に傾いた、力の強い文字。


『森の奥の魔女——彼女を頼れ』


一行。それだけだった。


いつ書いたんだ、師匠。俺が何度もこの頁を読んでいたのに、気づかなかった。折り目の奥に隠れていたのか。それとも——。


指が震えた。


師匠は、あの女を知っていた。


知っていて、俺に「頼れ」と書き残した。


図鑑をめくる手が止まらなくなった。他にも何か書いていないか。師匠の走り書きを探して、頁を繰る。


ずっと奥のほう——図鑑の終わり近くに、もう一箇所、見慣れない頁があった。古い。紙の色が違う。師匠が別の紙を貼り込んだらしい。


見出しだけが読めた。


『彼女の呪いについて』


本文は掠れて、ほとんど判読できない。かろうじて「千」と「解」の文字が見えたが、それ以上は——。


呪い。


あの銀灰色の髪の女に、呪い。


図鑑を閉じた。


閉じてから、もう一度、右手首の薬草に目を落とした。丁寧に巻かれた銀緑色の葉。まだかすかに、あの家の匂いがする。


——明日、もう一度行こう。


二度と来るなと言われた。でも師匠が「頼れ」と書いた。あの人は俺の毒を抜いてくれた。道を照らしてくれた。


礼も言えていない。名前も聞いていない。


俺は立ち上がった。体はまだ重いけれど、明日には動ける。師匠の図鑑を棚に戻す時、さっきは気づかなかったものが指先に触れた。図鑑の裏表紙の内側に、もうひとつ、小さな走り書き。


『ユーリ、お前ならきっと大丈夫だ』


……師匠。


泣きそうになったのを飲み込んで、図鑑を棚に戻した。


明日、森に行く。あの光の道を、今度は自分の足で。

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