在野の賢人
日本のとある山奥で一人、暮らしている男がいる。その名は一条真。真は傍から見れば孤独で、素朴な生活をしている。年端は三十もいっていない。そんな青年が、一人山奥で晴耕雨読の生活をしている。
一条真。十二歳。彼は都内でもトップと名高い名門中学を受験し、合格した。彼の両親、母は自身のアパレルブランドの社長、父はパイロットをしていた。そんな両親のもとで生活するのは、真にもプレッシャーを与えた。しかし両親は、教育熱心ではありつつ、真に勉強を押し付ける事は無かった。それもそのはず、真の成績は学年トップであった。スポーツも万能。まさに文武両道だった。両親は、真がやりたいと言った習い事は何でもさせる。真が勉強したいと言った教科は、すぐに家庭教師を雇う。そんな両親に対して、真は、深く尊敬と感謝の念を抱いていた。
それからも、ひたすら勉強をした。真は、自分の為に勉強をする、というよりも、両親を喜ばせる為に勉強していた。
ただ、笑顔が見たい。ただ、褒められたい。
ただ、認められたい。ただ、愛されたい。
そんな欲求が、真を机に向かわせていた。
-しかし運命とは残酷に、不平等に降り注ぐ-
真の成績は、学年が上がるごとに落ちていった。真は最大限の努力をしていたのにも関わらず。そんな結果に、真の精神は蝕まれていった。両親も、初めは、
『大丈夫だから、真。』
『真なら出来る。』
と声をかけていた。だがしかし、三年生になっても成績が落ち続けると、母はついに痺れを切らした。
『なんで...?』
とたった一言。母の表情は、真の脳裏に深く刻まれた。真は深く傷つき、絶望した。どんな自分でも受け入れてくれる、絶対的な存在はいないと思った。その事実を受け入れる事は、非常に困難であった。
母は、変わった。ありのままの自分は否定される。母の対応はとても冷たくなった。関係を修復しようと話しかけても、『今忙しい』であしらわれてしまう。真にとって非常に辛い事だった。
ある日の晩。真は勉強の合間に水を飲みに、リビングへ向かった。すると両親が神妙そうに会話を交わしていた。
『真はもうダメみたい...』
紛れもなく母の声だった。真はただ、声を抑えて、泣いた。母の考えは分かっていた。分かりたくなかった。目を背けていた。続けて父の声がした。
『でも真はいつも...遅くまで勉強しているだろ?』
『それは勉強しているフリよ。あんなに勉強しているなら、とっくに成績なんて上がってるわ。何度も言わせないで。もうダメなの。』
真の視界は真っ暗な闇の中だった。とてつもない絶望感、空虚感が、彼を襲った。
十一ヶ月後。弟が産まれた。純粋に喜ぶ事は出来なかった。もう母に話しかけても、父に話しかけても、無視されるようになった。両親は弟に夢中だ。以前までは食卓に並んでいた母の手料理も、もうなくなっていた。
それから二年の月日が流れた。両親が珍しくリビングで言い争っている。言い争いと言うより、怒鳴り合いだった。
『アンタの遺伝子が悪いせいよ!!あたしは名門大学を卒業したのよ!!』
『パイロットである俺に言う事か!?お前の教育のせいだろ!!』
『もうアンタなんかいい!!!アタシは自由に生きる!!アタシの人生の貴重な時間を無駄にしやがって!』
『勝手にしろ!!クソ女!!!』
それから、両親が家に帰ってくる事は無かった。真と弟と家政婦を置いて。
真は、弟だけは、自分と同じような思いをして欲しくないと思い、勉強を教えたり、一緒に遊んだり、運動をしたり、自身の思い描く『理想の親』を演じた。真は、両親のようにだけは、なりたく無かった。とにかく人に優しく接した。時間さえあれば、人道支援のボランティアも行った。そして真は、考えた。両親の思考、自分の思考、世の中の思考を追求し、物事の本質を考えた。
そして真は知った。今まで両親を、ひどく利己的な人間だと思っていたが、自分も同じである事を。
両親と真の、唯一であり最大の違いは、他者に及ぼす影響のみだ。真は、自分自身を、優しく、価値のある人間だと、他者を介して、自分自身に証明したかったのだ。真は弟に対しても、ボランティアの対象に対しても、心の底からの、純粋で尊い想いやりで自分が動いていると思っていた。しかしそれは、大きな間違いだった。ただの自己満足に過ぎなかったのだ。人間が自ら意図して行った行動は、すべて自己満足になる。
真は利己的であると自覚した瞬間、嘔吐した。両親も自分も自らの為に行動する利己的な生物である事が、この世に自分の利益を含まない全身全霊の献身がない事が、都合よく勘違いをしていた自分が、全て、気持ち悪くて仕方なくなった。
真はただ、他者との関わりを断つ事が、自分に残された最後の手段であると悟った。