昨日なにが起きたのか教えてほしい
しかし大きな城だ、とリネアルーラは飼い主の家を見上げる。
さすがは大国。そこそこ大きいユラエス王国とは比較にならない。
「……リンネ。何してる」
「いや、すごく大きいなーって思って」
「そうか……?」
不思議そうに首を傾げるシルヴェインは、感覚が麻痺しているのだろう。リネアルーラは苦笑して足を進める。
城の中には、使用人が何人も待機していた。一斉にシルヴェインに頭を下げて「「「おかえりなさいませ、シルヴェイン皇子殿下」」」と声を揃える。
訓練された動きに、おぉ、と声を漏らす。
シルヴェインは無表情のまま淡々とリネアルーラの首根っこを掴んだ。
ん? と笑顔のまま見つめてくる彼女を無視して、使用人に言う。
「こいつを風呂に入れろ。終わったら『サクラの部屋』に寝かしつけろ」
「「「かしこまりました」」」
そこからは怒涛の展開だった。
だだっ広い大浴場に連れて行かれて、特注の服を剥ぎ取られる。
何人もの手で身体の隅々まで洗われ、ぽかんとしたままの本人を無視してマッサージまで施した。
続いて放り込まれたのは、白と黒を基調としたデザインのシンプルながら優美な部屋。大きなベッドは見るからにふかふかで、そこにリネアルーラは有無を言わさず押し込まれた。
ん?? と未だに首を傾げるリネアルーラに向かって「「「おやすみなさいませ、リネアルーラ様」」」と頭を下げてから、使用人たちは去っていった。
「ん? んん?? んんんんんんんんんんっ??」
とりあえず爆睡した。
◇◇◇◇◇
どういうことやねん、と朝起きて昨日の出来事を整理していたリネアルーラはベッドの中で突っ込んだ。本人の意思は?? と飼い主の奇行に突っ込む。
確かにお風呂は気持ちよかったし、睡眠はしっかり取れた。しかしそこには本人の意思を確認していないという注意が付く。
「いや確認取ろう?? せめて予告しておこう??」
ひたすら突っ込む。そしてようやくシルヴェインが恐ろしくマイペースだと理解した。教えておいて欲しかったノクタリオン、と罵倒する。
その時、ノックもなしに扉が開いた。
「……うぉわ」
リネアルーラは思わず声を漏らす。さっきまで静まり返っていたはずの部屋に、何人もの侍女がずらりと入ってきたのだ。まるで最初から予定されていたかのような動きで、彼女をベッドから引っ張り出す。
「え? なになに、また風呂? 違う? 着替え? あー、はいはい、着替えね、はい了解です」
誰も返事はしない。けれど手つきはやけに丁寧で、なんならちょっと優しい。
素早く寝間着を脱がされ、次に着せられたのは、淡いグレーを基調にしたシンプルなドレスだった。装飾は最小限、けれど布地は上質で、動きやすそうな仕立て。リネアルーラはひと目で「これは高いやつだな」と察した。
着替え終わったところで、侍女に背中を押される。
「はいはい、わかった行きますってば。もう流れ作業すぎるでしょ……」
わかったわかったと足を動かして、侍女たちに先導してもらう。
(しかし……この廊下……どこかで……)
優雅に見えるように歩きながら、リネアルーラはもやもやとした既視感を覚えていた。
だが一向にその答えは出ず、リネアルーラは早々に諦めた。諦めも時には大事だと知っているので。
案内されたのは、やたらと立派な扉。
その向こうにいたのは、案の定、シルヴェインだった。相変わらず整った顔で、相変わらず無表情に紅茶を飲んでいる。
「おはよう」
「おはようじゃないよ、え、なに? 昨日からずっと予定詰めてるの、何なの? 私もう少し自由に生きたいんだけど?」
「そう」
「そう、じゃないよ! 昨日のお風呂もそうだし、寝かしつけもそうだし、今日の服もそうだし! 私一言も同意してないからね!?」
「……似合ってるからいい」
「何が!?」
ぎゃんっと声を荒げるリネアルーラに、シルヴェインはほんの少しだけ口元を緩めた。
その横で、ノクタリオンが肩をすくめながら口を開く。
「朝からにぎやかですね。……まあ、リネアルーラさんのお気持ちはよく分かりますけど、うちの坊っちゃんは、昔からこういう方でして」
「ちょっと、ノクタリオン! あなたもこっち側に来てくれていいのよ!? ねえ!?」
「いやぁ、できればそうしたいところなんですけどね……。残念ながら、私も最初から同じ側なんですよ、ほんとは」
「ならもっと味方してよ!!」
「してるつもりなんですけど……殿下が相手だと、なかなかに骨が折れまして」
どこか申し訳なさそうに、それでいて慣れきったように微笑むノクタリオンに、リネアルーラは思わず天を仰ぐ。
(この人も大変だ……)
リネアルーラはノクタリオンに心底同情した。
見るにシルヴェインの突然の行動は日常茶飯事なのだろう。奇怪な主人を持つと苦労する。
リネアルーラは咳払いをしてシルヴェインに向き直る。
「まあ、それはそれとして……ルー」
「ん?」
「この国について教えてくれる? 知っておきたいんだ」
おそらくこれから長く、ここに滞在することになる。ならば、知識はできるだけ多い方がいいと判断した。すでに公爵令嬢として大方の知識は詰め込まれているが、穴があるかもしれない。
リネアルーラの考えを見抜いたシルヴェインは頷いて、この国について語り出す。
「シャンデイル皇国は、いちおう“世界で最も安定している大国”と呼ばれてる。……建国は八百年前。王制から皇制に移行してからは六百年。政治体制も何度か変わったが、今は“皇帝”と“元老院”の二本柱で回ってる」
「ほうほう……で、皇帝があなたのお父上、ってわけだね?」
「そう」
「めっちゃあっさり返された……」
特に父を嫌っているわけではないのかな、とリネアルーラはシルヴェインの態度から推測する。
「経済は強い。通貨の価値も安定してる。港もいくつかあるから、海外交易も盛ん。商人は世界中から集まってるし、国としても保護政策を取ってる。……観光都市もある」
「へー……すごいな……。それ、あれでしょ。金持ちがバカみたいに金落としてくのを、国がちゃんと回収する感じのやつ」
「だいたい合ってる」
「合ってるんだ……」
「ただ、それでも貧富の差はある。都市部でも、貧困層は普通にいるし、地方に行けば今も水道も通ってない村がある」
「え、マジで? こんなに発展してるのに?」
「……まあ、広い国だから。全部が平等ってわけにはいかない」
その時、ノクタリオンが会話に割り込んできた。ゆるく微笑みながら、紅茶をリネアルーラの方に差し出す。
「でも、殿下のお父上……皇帝陛下は、その問題には真剣に取り組んでおられますよ。昨年から、新しい生活支援制度も始まっておりますし」
「へぇー……」と受け取ったティーカップに口をつけると、リネアルーラは目を丸くした。
「美味しい……何これ、バラの香りする……」
「専属の調合士がブレンドしております。お口に合ったなら何よりです」
「ノクタリオンさんの方がやさしい」
「恐縮です」
そのやり取りを黙って見ていたシルヴェインが、ややトーンを落として続ける。
「……ただ、この国にも“差別”がある」
「差別?」
「……母親の身分で、皇子の立場が変わる。俺の母は側室だ。正妃の子、第一皇子――兄の方が、待遇はいい」
一瞬だけ、室内の空気がひやりとした。
リネアルーラは言葉に詰まりかけて、けれどあえて軽い調子で返す。
「なるほどね……つまり、あれか。兄弟なのに、扱いが全然違うと」
「そういうことだ」
「……その兄上って、会ったら面倒なタイプ?」
「……自分で判断しろ」
「あー、そういうタイプだ……!」
今度はノクタリオンが苦笑を浮かべて口を挟んだ。
「第一皇子殿下は……まあ、優秀なお方ですよ。ただ、リネアルーラさんのような方を見たら、少し詮索されるかもしれませんね」
「……え、怖い」
「大丈夫ですよ。殿下がいらっしゃいますので」
「それが一番怖いわ!!」
「理不尽」
と、小さくぼやいたシルヴェインにリネアルーラは「自覚あったんかい」と思わず突っ込んだ。
「……なるほどねー。つまりこの国には、優秀なちゃんとした皇子と、破天荒なちゃんとしてない皇子がいると」
「俺は後者か?」
「言ってないけど、否定もしないかなー!」
からかうように言ってみせると、シルヴェインは紅茶をすすったまま目線だけで睨んできた。全然怖くない。
しばらくそのまま黙っていたリネアルーラだったが、ふと思いついたように口を開く。
「ところでさ、私のことって……この国では、どういう立場になってるの?」
「……ああ」
シルヴェインは短く返事をしたが、すぐには続きを口にしない。
それが逆に気になって、リネアルーラは身を乗り出した。
「まさか……まさかだけど、“猫です”とか言ってないよね?」
「言ってない」
「よかったー……! さすがにそれは洒落にならないからね!?」
安心して胸をなでおろすリネアルーラに、ノクタリオンが笑みを浮かべる。
「さすがに、殿下もそのままは言いませんよ。ただ、“とても大事な人”という言い方はされてましたね。……あとは、“客人”とか」
「……えっ」
リネアルーラはぱちぱちと瞬きをした。
「ちょ、ちょっと待って……“大事な人”? え、そんなフレーズこの人の辞書にあったんだ? え? 何その語彙力、どこで習得したの??」
「うるさい」
「びっくりしすぎて声がデカくなるわ!」
茶化すリネアルーラの言葉に、シルヴェインは特に表情を変えないが、どこか耳が赤い気がした。たぶん気のせいではない。
ノクタリオンがそのやり取りにクスリと笑い、さらに続ける。
「ですがまあ、実際……陛下も第一皇子殿下も、“貴族の令嬢が保護のために招かれた”程度の認識かと。事情を深く知っているのは、殿下のご信頼を得ている一部の者だけです」
「ふーん……じゃあ、私が猫だったことは――」
「公には内緒です」
「ですよねー!」
ひと安心、と言いたげに背もたれに寄りかかるリネアルーラだが、その顔にはどこかくすぐったいような笑みが浮かんでいた。
「……でも、そっか。“大事な人”って言ってくれてたんだ」
ぽつりと、少しだけ真面目なトーンでこぼすと、シルヴェインはごく自然に言葉を返す。
「事実だろ」
「…………」
言われたリネアルーラの方が、思わず黙り込んだ。
何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。口を開けて、閉じて、もう一度開けて……最終的には。
「…………ちょっと静かにしてくれる? 顔が熱いから冷やす時間がほしい」
「どうぞ」
静かにティーカップを差し出されて、リネアルーラは苦笑しながら受け取った。