残酷で優しい問い掛け
走馬灯、というものがある。
死ぬ直前に走馬灯を見るのは、無意識に脳が今までの人生の中から、死を回避する方法を探しているという説がある。
リメイヴァには今、それが起きていた。
死と同然の状況を避けるために、彼の脳は自分の人生を振り返る――――――。
バシャッ、という水音が耳元で跳ねる。
顔を上げようとすると、髪からぽたぽたと雫が滴った。
くすくすとした嘲笑が耳に届く。
同時に数人の成人した女性の手が身体に触れ、その直接的な感覚にビクリと身体を揺らす。
「やだぁ、水が跳ねちゃったわ。ああ気持ち悪い」
「ホント、卑しい生まれの人間ってどこまでもだめねぇ。ああ、嫌だわ。どうしてあたしたちがこんなことを」
「わたし食事の様子を見たことがあるんだけど、貪るみたいに食べていて、まるで野良犬みたいだったわ」
「まあ! やっぱり平民の血が混じっているからかしらね。気持ちの悪い犬だわぁ」
「汚らしいわねぇ。はやく済ませてしまいましょう。クレアお嬢様のお怒りを買いたくないし」
そう言いながら、女たちの手は身体のあちこちを撫でる。
気色の悪い感覚だが、反抗すればぶたれてしまう。
だから自分は、グッと唇を噛んで耐えるしかない。
自分に湯浴みをさせた女たちは、今度は服を着せてくる。時折うっとりとした目で臀部や太腿を撫でてくるのは、毎日のことだ。
着替えが終われば、この屋敷のお嬢様に会いに行かなければならない。
女に腕を引かれるがままに足を進める。
辿り着いた部屋の扉をノックして、女は優しげな声を出す。
「クレアお嬢様。ハイク様をお連れしましたわ」
言うなり扉を開き、有無を言わさず入室させられた。
豪華絢爛なその部屋には、ひとりの若い女が優雅に寛いでいた。
退屈そうに髪を弄っていた彼女は、入って来たハイクに目を輝かせる。
「ハイク! やっと来てくれたのね。遅かったじゃないの」
綺麗に巻かれた美しい金髪に、大きな緑色の瞳。母親譲りの華やかな顔立ちと、発育に富んだ女性らしい姿態。
薄いネグリジェ姿の美しい女は、ハイクにとって異母姉に当たる。
だがハイクは、彼女が苦手だった。
「はぁ……あなたはいつ見ても美しいわ。まるで王子様のようね」
「……ありがとうございます、クレア様」
うっとりとした眼差しで熱い息を吐く彼女に、嫌悪感を堪えて返答する。
クレアはハイクに姉扱いされることを嫌う。だからハイクに自分を『クレア』と呼ばせているのだ。
クレアは伯爵家の令嬢だ。彼女の父親と母親の仲は冷め切っており、互いに愛人を抱えている。
その父親と愛人の間に生まれたのがハイクだ。
母親は平民の出で、数年前に病死した。
父親は5歳の彼を引き取り、その後放置している。噂では、新しい愛人に夢中らしい。
幼い頃から中性的に整った容姿をしていた彼は、戸籍上姉弟になるということで顔合わせをさせられた時、クレアに一目惚れされてしまった。
以降はこうして毎晩部屋に招かれ、したくもない相手をさせられている。
だが抵抗はできない。なぜならクレアは伯爵家のお嬢様であり、自分は妾の子でしかないからだ。
クレアは艶やかに笑って、ハイクの腕を取る。
さりげなく胸を押し当てながら顔を寄せ、悩ましげな声を出す。
「はやくベッドへ行きましょう。わたくし、相談したいことがあるのよ」
「……クレア様のためならば、いくらでも」
『ソファでいいだろう』という言葉を呑み込んで、作り笑顔を向ける。
それだけで彼女は上機嫌にさらに密着して、ハイクをベッドへ誘導する。
(……気持ち悪い……)
まだ14歳の自分に何を期待しているのか。
たった三つしか違わない彼女は、ベッドに腰掛けるように言ってくる。
言う通りにすれば、隙間がないほどぴったりと密着して隣に座られた。
しかも逃がさないと言わんばかりに、扉の方を取られた。
クレアは美しい瞳に潤ませ、物憂げな表情で言う。
「実は、学院の友人達が『婚約者とはどんなことをしているのか』と聞いてきたのよ。わたくし、何も答えられなかったわ。だって愛なんてない、政略結婚なんだもの。彼女たちだって、知っているはずなのに……」
「……それは、あまりにも酷い。あなたの美しさに嫉妬して、そんな意地の悪いことを言ったのでしょう」
心から同情するように言ってみせれば、クレアは「まあ、美しいだなんて」と恥じらって身を捩る。
興奮したように頬に朱を差し、自らの手で胸元を緩める様は、並大抵の男なら生唾を飲む代物だろう。
クレアは白魚のような指をハイクの太腿に這わせ、豊満な胸を彼の腕に押し付ける。
「嬉しいわ、ハイク……わたくし、ずっとあなたに伝えたかったことがあるの」
「……はい、なんでしょうか?」
できるだけ感情を殺して笑顔を向けると、クレアは熱に浮かされたような表情でハイクの胸に片手を当てる。
「わたくし……あなたが好きなの。初めて会った時に感じたのよ、あなたはわたくしの王子様だって……」
いつか言われると思っていた言葉だった。
つぅ、と彼女の爪先が胸元を掠めるように動く。
ハイクにできるのは、密かに奥歯を噛み締め、心にもない言葉を笑顔と共に吐くことだけだった。
「真ですか、クレア様……僕もお慕いしております。初めてお会いしたあの日から、ずっと……」
そっと頬を撫でれば、強請るように襟元を掴まれ、目を閉じて顔を近づけられた。
嫌悪感しか湧かなかった。だがどうせ抵抗なんてできない。
だったら――――。
望まれた通りに、薔薇色の唇に優しく口付けた。
目を閉じたクレアの顔を見つめて2秒。
ガリッと強く、その唇を噛んだ。
「ッ――――!」
痛みに油断が生まれたその華奢な身体を、ドン、と強く突き飛ばした。
年上とはいえ、ハイクは14歳の男だ。
箱入りのお嬢様を突き飛ばすくらい、わけなかった。
「きゃあああああ――――!」
勢いよく床に尻餅を付いたクレアが、絹を裂くような悲鳴を上げる。
その声に反応して、すぐに警備の兵士たちが部屋に駆け込んでくる。
だがもう遅い。ハイクはすでに窓から外へ飛び出し、屋敷の敷地を出ていた。
ただひたすらに走った。
走って、走って、その時の感覚を消すように唇を乱暴に拭って、走って、込み上げる吐き気を誤魔化すようにまた拭って、走って、走って、拭って、走って。
気づけば貧民街に迷い込んでいた。
周囲にはボロ臭い、家ともいえない家。糞尿と死臭が鼻腔を刺し、お前もいずれこうなるのだと言うように身体に纏わりつく。
だがそんな物は気にならなかった。
何かに取り憑かれたように、一心不乱に唇を拭う。
唇が裂けて血が流れても一向にやめないで、むしろ強く拭い取ろうとする。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
ファーストキスは甘い味と言うが。
ハイクのファーストキスは、嫌悪と血の味に塗れていた。
ほどなくしてハイクは奴隷商に攫われた。
見目も良く、身なりもいい彼は貧民街では格好の獲物だった。
攫われた先で名を訊かれた時、彼は『ハイク』という名前を捨て、名無しとなった。
――そして、オークションに出されたあの日。
「ようこそお越しくださいました皆様。ワタクシは司会を務めます、名も無き紳士です。どうぞ宜しくお願い致します!」
司会の自己紹介に、ドッと会場が湧くのを舞台裏で聞く。
舞台裏には数十人の少年少女が佇んでおり、皆一様に貧相な服に痩せぎすで、手には手錠がされている。
怯えたように身を狭くする様を見ながら、大人たちはゲラゲラと笑っている。
「今回は豊作だな。一体いくらで売れるんだろうなぁ」
「あーあ、女のガキは味見くらいしとけばよかったぜ」
「お前、こんな貧相なガキ共食ってもつまんねぇだろうが!」
少女たちがひっと微かな悲鳴を上げる。互いを守るように身を寄せ合い、涙を浮かべた目で後ずさる。
大人たちは舐め回すような視線を少女たちに向けて、下品な笑みを浮かべる。
その内の一人が、名を捨てた彼を見ていやらしくぐふっと笑った。
「俺は食うならそこの男がいいなぁ。女みてぇな顔してっし、ぶっちゃけ顔面性癖だわ」
「わかるわー! ちょっとコイツ泣かせてみてぇ」
「二重の意味で……か?」
「おっ、上手いこと言った!」
(……不快だ)
だが表情には出さない。出した瞬間、何をされるかわからないからだ。
彼は自分の見目が良いことを自覚していた。
それが中性的なものであるがゆえに、嫌悪感や恐怖心を滲ませてしまうと、相手の嗜虐心を煽ってしまう。
「――それでは、堅苦しい挨拶はここまでにして。いよいよ、オークションの開始です!」
その時、地獄の裏オークションが始まった。
少年少女たちが次々にステージに上がっては金を積み上げられていく。
買われた少女が、泣きそうな顔をしながら奥へ連れて行かれる。
買われなかった少年が、大人たちに頬を殴られている。髪を乱暴に掴まれて、「痛い、痛い」という訴えを無視して無理矢理連れて行かれた。
買われなかった者は、この裏オークションで働く奴隷となるのだ。
その時ふと――連れて行かれる少年と目が合った。
攫われた奴隷商で仲良くなった少年だった。共に質素な食事を摂りながら「必ずいつか生きて会おう」と約束した、友人。
希望の光が輝いていた目は“助けて”と懇願するように潤み、夢を語った唇は皮が剥げて忙しなく動いている。
彼はそれから――目を背けた。
順番が回って来て、スポットライトが照らすステージに歩み出る。
いくつもの粘着質な視線が身体に絡み付き、ギリッと奥歯を噛み締める。
買われた方が幸せか、それとも買われない方が幸せか。
その答えはきっとない。少年たちにだって、すぐには答えられない問いだろう。
だが名の無い彼なら、即答できる。
――奴隷として生きるくらいなら、飼い主を喰い殺してでも逃げ延びてやる。
生きるためなら、好きでもない相手とキスできる。友人を見捨てられる。
人殺しぐらい、いくらでもやってやる。
どう罵られたって構わない。地獄の底でだって笑ってやる。
「推定十二歳、髪は金、瞳は碧。持病もなく健康体。金貨二十枚から参りましょう!」
女がいい。できるだけ頭が弱くて、ちょっとした言動で勘違いできるようなおめでたい女。
自分に残された武器はこの顔だけだ。逃げ出すのなら、このオークションの帰り道しかないだろう。
次々に金貨が積まれていく。下品に着飾った女たちが、笑いながら彼を品定めする。
「さあ百五十枚! 百五十五はいませんか!」
この日の最高額に、司会が興奮気味に問いかける。
百五十もの金貨を積み上げたらしい妙齢の女は、豪華な扇の下で舌舐めずりする。
チッと誰にも聞こえないくらい小さく舌を鳴らす。
できれば若い女がよかったが、仕方ない。男でないだけマシだろう。そう思って、媚びる笑みを女に向けようとしたその時。
「二百」
どよめいた会場の視線の先を探ると、細い手を掲げる若い女がいた。
ツインテールにした桃色髪、アッシュピンクの目はぱっちりしていて、フリルの多いドレスを身に纏っている。
明らかに彼の苦手なタイプ――地雷系だった。
女は余裕そうな笑みを浮かべて、司会に落札の宣言を求める。見るからに弱そうな女だった。
仕えているらしい侍従は、穏やかな顔で何も言わない。帯剣もしておらず、細身で鍛えてもいなさそうだ。
――これなら、逃げ出せるかもしれない。
それは間違いだった。
彼はそのことを自覚していないが、彼はもう逃げ出すことはできない。彼女に目を付けられた時点で、彼の退路は塞がれていた。
そして『リメイヴァ』という名を得る彼は、近い未来にリネアルーラの――――――――。
「どうしたの? さっさと答えてよ、リメイヴァ」
冷たい声に意識が覚醒する。
過去を見せていた脳は急速に冷やされ、目の前の現実を否応なく突きつける。
「ぁ…………」
掠れた声が喉から漏れる。
リネアルーラは立ち上がり、リメイヴァの手を取った。優しく手を引き、湖の方まで歩いていく。
「あのね、リメイヴァ。私って結構我が儘なんだよ」
湖は透明度が高く、澄み切っていた。なんの濁りもなく、そよ風を受けて微かに水面を揺らす。
「私は私を認めない人間を認めない。私の機嫌を損ねるような出来損ないは側に置きたくない。愚図な足手纏いは誰であっても切り捨てる」
湖は底が見えなかった。かなり深いらしく、覗き込んでも暗闇しか見えない。縁に浮いた葉や草が、陸との境界線を隠している。
「たとえそれが生みの親であっても、命の恩人であっても、愛しい弟であっても」
澄み切った声。僅かな濁りさえない、純然とした水のような声色。
穢れない心を思わせる純真な笑みを浮かべて、天使の皮を被った悪魔は言う。
「――可愛い可愛い私のリメイヴァ。あなたは私を満足させられる?」
用済みだと言うように放された手。慈悲をも感じさせる可憐で美しい笑み。運命の問いを投げ掛ける紅い唇。無能者を残酷に突き放す瞳。
思考のままならない頭で、リメイヴァは無意識に手を伸ばした。そうしなければ、二度とその手に触れられない気がした。
勢いよく華奢な手を取らんとし――――
「何してるの? 答えてよ」
「……あ、ぇ?」
半身になって躱したリネアルーラが、問いへの答えを催促する。
だがリメイヴァは答えられなかった。勢いを殺せなかった彼の身体は止まることを知らず、その先へ投げられる。
踏ん張ろうとした足は湖の縁ギリギリを踏み締めた――筈だった。
――――バシャンッ!
耳元で跳ねる水音。息ができない。凍えるような冷たさが身を包む。空気を求めて開かれた唇から水が入り込み、口内を満たす。
どうなっている? ここはおそらく湖の中か。落ちたのか? まさか浮いていた草木で足元が隠れていたのか。
(――寒い……――)
懐かしいその感覚に抵抗できず、リメイヴァは湖の底へと沈んでいく。




