『桜』の部屋
王位継承式が終わって、はや数日。
ルークレスは、新たな国王として日々の公務に追われていた。ルートヴィヒは、そんな弟を献身的に支え、公私にわたって助言を与えていた。
しかし、そんな穏やかな日々にも、一つの課題が持ち上がった。
「さて……そろそろ婚約者を見つけないと、だな」
ルートヴィヒが、何気ない口調で呟いた。
その言葉を聞いたルークレスは、手に持っていた書類を床に落とした。
「……兄様、今、なんておっしゃいました?」
ルークレスの声には、怒りと焦りが混じっていた。
「だから、婚約者を見つけないとな、って言ったんだよ」
ルートヴィヒは、落とされた書類を拾い上げ、ルークレスに手渡す。
ルークレスは、その書類を受け取ることもなく、ルートヴィヒをじっと見つめていた。
「……冗談ですよね? 兄様は、僕の右腕として、ずっと僕のそばにいてくださるんじゃ……」
ルークレスの瞳は、不安で揺れていた。
ルートヴィヒは、そんな弟の頭を優しく撫でる。
「それは、これからも変わらないさ。でも、おれももういい歳なんだ。いつまでも独身でいるわけにはいかないだろう?」
「……そんなこと、ない! 兄様は、僕のものです!」
ルークレスは、ルートヴィヒの腕を掴み、必死に訴えかけた。
ルートヴィヒは、困ったように眉を下げた。
「ルーク……おれは、お前の兄だ。そして、お前の右腕だ。だが……おれには、おれの人生があるんだ」
ルークレスは、その言葉に、絶望的な表情になった。
彼の心の中は、怒りと悲しみで満たされていた。
兄は、自分だけのものだと思っていた。
兄は、ずっと自分のそばにいてくれると思っていた。
「……兄様……」
ルークレスの声は、震えていた。
ルートヴィヒは、そんな弟を見て、静かに言った。
「ルーク……」
その時、扉がノックされる音がした。
「陛下、そろそろお時間です」
侍従の声が聞こえ、ルークレスは、ルートヴィヒの腕を離した。
彼は、何も言わずに、謁見の間へと向かっていく。
ルートヴィヒは、その小さな背中を、ただ見つめていた。
◇◇◇◇◇
その夜ルートヴィヒは疲労を感じながら、ベッドに倒れ込んだ。
ぽすん、と実に柔らかい枕が彼を優しく受け止めてくれる。
「ルーク……なんであんなに怒ったんだ……?」
心の底からの疑問だった。
弟が自分を慕ってくれているのは知っている。
それが一般的な兄弟愛とは比べ物にならないほど大きいこともわかっている。
それでもルートヴィヒには理解できなかった。
その理由が挙げらるとしたら……
「おれ皇子だし、独身はマズイ……よな?」
鈍感なことだろうか。
この男、弟の愛が大きいことはわかっても、それがどんな影響を及ぼすのか理解していないポンコツだった。
加えてこのポンコツ、恋愛経験がまるでなかった。
今世はもちろん、今までの人生全てにおいて、である。よって恋愛ジャンルはからっきし。
こうしてご令嬢方の熱烈アピールすら『懐いてくれてる』としか思えない、ダメダメ皇子が誕生した。
「……桜が見たいなぁ」
ぽつりと溢れた言葉は、自室に広がってすぐに消えた。
ルートヴィヒは前世でクイズプレイヤーをしていたとき、相棒がいた。
『桜』という名の幼馴染兼親友で、ふたりでタッグを組んでクイズ界を無双していたものだ。
『桜』は自分と同じ名前の桜が大好きで、なにかと相棒に桜の良さを語っていた。
『おい見ろ我が相棒よ! この新種の桜は花弁の先端が濃いピンク色を帯びたうっすらとした淡いピンク色で、葉が開くよりも早く花が咲くから、花の観賞価値が非常に高いんだ。それに全国的な桜のシーズンよりも早く開花し、野生種であるため地域によって開花時期に幅があるものの――』
『うんうんそっかそっか。もうそれ四十回目ね? それよか早く出かける準備しろ。十分後には世界大会なんですけど??』
今思うと桜狂いだったと思わんでもない。
だがそんな彼の熱心なスピーチのおかげで、桜はまあ嫌いではなかったし、見つければ足を止めるくらいには好きだった。
あの頃は煩わしかったが、今となっては懐かしい。
「………………」
前世を回想していると、思わず呟いていた。
「【『桜』にあいたい】」
「……にいさま?」
聞こえるはずのない声が聞こえて、急いで身体を起こす。
扉の前には、ルークレスが不思議そうな表情で立っていた。
「兄様、今のは……何語ですか? マアール語では、ないですよね……?」
先程のルートヴィヒは、世界共通言語であるマアール語ではなく、前世で慣れ親しんだ『ニホン語』だった。
聞かれていたか、と舌打ちしたくなるのを堪えて、ルートヴィヒは笑みを作った。
「どうしたんだ、ルーク。明日も早いんだろう? 何かあったのか?」
「サクラ、とはなんですか?」
「…………………………………………え」
ルートヴィヒは呆然とした。
なぜルークレスが、この世界にないはずの桜の名を口にしている?
「先程の、兄様の言葉。サクラという部分だけ理解できました」
きゅっと眉を寄せて、どこか泣きそうな声でルークレスは続ける。
「兄様は、何が欲しいのですか? それを得られれば、ずっと僕だけ見ていてくれますか……?」
彼の問いかけは、悲痛な叫びだった。
兄の気持ちが理解できず、愛する兄が自分から離れていくかもしれないという恐怖に、ルークレスは耐えられなかったのだ。
ルートヴィヒは、そんなルークレスの姿を見て、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
彼は何も言わずに、ルークレスの元へと歩み寄った。
「ルーク……」
彼の喉から漏れた声は、愛おしさと、どうしようもない切なさに満ちていた。
ルートヴィヒは、ルークレスを強く抱きしめる。
「サクラ、は……桜のことだ」
ルートヴィヒは、ルークレスの耳元で囁いた。
「昔、おれがすごく大事にしていた、親友の名前だ」
ルークレスの体が、ぴくりと震える。
兄が、自分以外の誰かを「大事な親友」と呼んだことに、ルークレスは戸惑っていた。
「……そいつに、会いたいのですか?」
ルークレスの声は、震えていた。
ルートヴィヒは、静かに頷く。
「……うん。すごく会いたい」
その言葉が、ルークレスの心臓をナイフのように貫いた。
兄は、自分以外の誰かに心を奪われている。
その事実に、ルークレスは全身の血が冷えていくのを感じた。
心臓が握り潰されるような痛みに耐えきれず、彼の瞳から、熱い涙が一筋、また一筋と溢れ出した
「……そんな……」
ルークレスの声は、もはや悲鳴だった。
ルートヴィヒは、そんなルークレスの涙を拭い、優しく微笑む。
「……大丈夫だよ。ルーク。おれは、ずっとお前のそばにいるから」
その言葉が、ルークレスの心を、さらに深く傷つけた。
兄は、自分を慰めている。
まるで、自分は子供で、兄は大人であるかのように。
ルークレスの心の中で、何かが音を立てて壊れた。
だから気付かなかった。気付けなかった。
兄の口元を染める、その真紅に――。
△▼△▼ △▼△▼
ルートヴィヒは、生まれつき病弱だった。
少し走るだけで喘息が起きて、最悪の場合血を吐く。
それくらい身体が弱かった。
だが五歳の時、生まれてきた弟を見て思った。
――この子は、自分が守らないと。
ルートヴィヒは、ルークレスに自身の病を隠し通すため、巧みに日常を偽っていた。
朝は早めに起きて、顔色を誤魔化す化粧をする。そしてもう一度ベッドに入って、ルークレスが起こしてくれるのを待った。
朝食の席では、食欲がないのを悟られないよう、わざとパンを多めに齧り、グラスの水を飲み干した。
「兄様、今日は外の庭で読書をしませんか?」
ルークレスが、きらきらと目を輝かせながら提案する。
ルートヴィヒは、一瞬、戸惑いの色を浮かべた。
日光を浴びると、病が進行する。それは、医師から厳しく言い渡されていたことだった。
しかし、弟の期待に満ちた瞳を見て、ルートヴィヒは静かに頷いた。
「ああ、いいな」
庭に出ると、ルークレスはルートヴィヒの隣に座り、楽しそうに話しかけてきた。
「兄様は、本当にすごいですね。僕には、まだ兄様のようにはいきません」
「そんなことはないさ。ルークは、おれよりも優れている」
「そんなことありません!」
ルークレスは、不満げに頬を膨らませた。
その姿を見て、ルートヴィヒは、苦笑を浮かべた。
(……これが、おれにできる最後の贈り物だ)
彼は、そう心の中で呟いた。
ルークレスは、ルートヴィヒの病を知らない。だから、彼の笑顔は、偽りのない、本当の笑顔だった。
太陽の光が、容赦なくルートヴィヒの肌を焼いていく。
彼は、体調が悪化するのを感じていた。
しかし、ルートヴィヒは、そのことを悟られないよう、必死に平静を装った。
(……この時間が、いつまでも続けばいいのに)
彼は、そう心の中で願った。
しかし、そんな願いが叶うことはないと、ルートヴィヒは知っていた。
彼の残された時間は、刻一刻と、確実に減っていた。
ルークレスが他国との外交のために旅立ったその日、ルートヴィヒの病状は急速に悪化していた。
彼は、自室のベッドに横たわり、窓の外の青空をただじっと見つめていた。
そばに控えていたのは、長年彼に仕えてきた老侍従だけだった。
侍従は、ルートヴィヒの手を握り、涙をこらえていた。
「……殿下、陛下は必ずお戻りになられます」
ルートヴィヒは、侍従の言葉に静かに首を横に振った。
「……いや、もう……おれには時間がない」
その声は、掠れていた。
ルートヴィヒは、静かに目を閉じる。
彼の脳裏に浮かんだのは、――今世ではなく、遠い前世の記憶だった。
クイズプレイヤーとして世界を駆け回っていた日々。
そして、いつも自分のそばにいた、幼馴染の姿。
『おい見ろ我が相棒よ!』
その声が、鮮明に蘇る。
彼は、いつも自分の部屋で、楽しそうに話していた。
煩わしいと思っていたその時間が、今となっては、何よりも愛おしかった。
(……『桜』……)
もう一度、彼の顔が見たかった。
もう一度、彼の声が聞きたかった。
「……なぁ、侍従」
ルートヴィヒは、か細い声で侍従に語りかけた。
侍従は、彼の顔を覗き込む。
「この部屋は……『桜』の部屋だ」
侍従は、その言葉の意味を理解できなかった。
しかし、その言葉の響きは、不思議と心に響いた。
ルートヴィヒは、侍従の顔を見て、静かに微笑んだ。
「……アイツが……いつもここに……」
その言葉を最後に、ルートヴィヒは、ゆっくりと息を引き取った。
侍従は、慟哭した。
彼の悲痛な叫び声が、静かな部屋に響き渡る。
侍従たちは、涙を流しながら、ルートヴィヒの遺言通り、彼の自室を『サクラの部屋』と命名した。
それは、病で早世した皇子を偲ぶ、ささやかな追悼の証だった。
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