剥がれた美しさ
公務を終えたシルヴェインはふぅっと疲労の息を吐いた。
自室のソファに沈んで、目を閉じる。
「お疲れ様でした、殿下。今日のお仕事はこれで終わりです」
「そうか……」
安堵の声を出したシルヴェインは、ふと自分のペットがどうしているか気になった。
ノクタリオンに問いかける。
「リンネは?」
「リネアルーラ殿は、たしか夫人方との茶会と書簡と衣装合わせが…………」
ノクタリオンは黙った。
シルヴェインがぽつりと言う。
「…………それは、たしか先日もあったな」
「……はい」
「……飽きるだろうな」
「……そうですね」
「……城を抜け出すかもな」
「…………………………………………………………………………」
ノクタリオンは沈黙した。
ものすごくあり得そうだった。というかやる。絶対やる。何せ規格外すぎるので。
「い、いえっ! 最近は淑女のマナーや常識を重点的に学んで頂いていますし、さすがにもう――」
「常識なんて、アイツに通用したことがあったか?」
「…………………………………………………………………………」
再び沈黙が降りたその時、ノック音が響いた。
嫌な予感を抱きつつ、シルヴェインは「入れ」と声を掛ける。
入ってきたのは侍女だった。それも確か、リネアルーラの専属侍女だ。
「お、お休み中申し訳ございません、殿下」
「構わない。なんだ」
侍女は泣きそうになりながら言った。
「リネ様が、いなくなってしまったのです!!」
「「…………………………………………………………………………………………」」
嫌な予感ほど当たるとは、このことだった。
◇◇◇◇◇
リネアルーラの自室を訪れたシルヴェインは、机の上のそれにひくひくとこめかみを動かした。
「あの……女……!」
とてつもなく怒っていた。気持ちはとてもよくわかるが。
手には一枚の手紙。そこにはリネアルーラの筆記で何か記されている。
【飽きちゃったので飴食べに行ってきます】
ムカ着火ファイヤーどころじゃなかった。
すぐさま破り捨てようとしたシルヴェインは寸前で堪えた。
ノクタリオンはそれを覗き込んで「リネアルーラ殿……」と頭を抱える。
侍女は涙声で言う。
「想定しておくべきでした。リネ様の性格は知っていたのに……」
それはそう。
その場にいた全員が深く頷いたところで、シルヴェインは気付いた。
「ん……」
ざらりとした感触の紙に、不自然な凹凸があった。
裏返して目を凝らすと、細く凹みがあった。
(インクの切れたペンで、何か書いた……?)
すぐに読み取る。これが彼女からのメッセージなら、重要な情報の可能性が高い。
そこには、驚くべきことが書かれていた。
【私が二時間以内に戻らなかった場合、メルティア嬢のせいだから】
先見の明を持っているのか、と問いたくなった。
メルティアがマレセリウス子爵を懇意にしていたのは知っていた。まさか、彼も共犯か。
もしそれが本当だとしたら――急がなければならない。
「馬車を手配してくれ」
シルヴェインは鋭く言った。
「エイルバーン侯爵邸に向かう」
△▼△▼△▼△▼
急に訪れたシルヴェインに、エイルバーン夫妻は驚きを隠せなかった。
「し、シルヴェイン殿下!? なぜ、我が家に……」
「突然すまない。メルティア嬢はいるだろうか」
「娘なら、今自室におりますが……」
「それはどこだ?」
不穏な雰囲気を纏うシルヴェインに、夫妻は慄きながら「二階の廊下の突き当たりです……」と言う。
「そうか」
短く言ったシルヴェインは、ノクタリオンを引き連れて階段を上がった。
突き当たりの扉を、ノックもせずに開ける。
音に気づいたメルティアが、ソファからシルヴェインを見た。
「なによ、ノックくらいしなさい……って、シルヴェイン様!?」
使用人ではなく、自身の想い人だったことに目を見開いたメルティアは、すぐさま立ち上がって可憐な笑みを浮かべた。
「シルヴェイン様! ど、どうしてこちらに? も、もしかして……私に会いにきてくださって……」
「……そうだな。ある意味そう言える」
頷いたシルヴェインを見て、メルティアは顔を輝かせて確信する。
――あの女がいなくなったから、私を愛しに来てくれたのね……と。
部屋にシルヴェインを招き入れたメルティアは、ノクタリオンがいることに気付いて顔を顰める。
それを無視してノクタリオンは入室した。ソファに掛けるシルヴェインの後ろに立つように佇む。
メルティアは切り替えて壁際にいた侍女に指示を出す。
「お待ちになって。今、お茶を出しますねっ」
「いや、構わない。それより、人払いをしてくれ」
一緒きょとんとしたメルティアは、すぐに理由を思い当たって頷いた。
侍女たちが一礼して退室していく。
メルティアは頬を可愛らしく赤くして、もじもじと膝を擦り合わせた。
「そ、それで、シルヴェイン様。私に何かご用……ですか? このメルティア、なんでもいたします♡」
うるんだ瞳で上目遣いをして、甘い声をあげる。
ため息が出るほど可憐なその姿は、男の欲を煽るのには十分だろうと思えた。
貴族の令嬢と第二皇子が一室にいることで、メルティアはこれからシルヴェインに寵愛を注がれるのだと思ったのだ。
だがシルヴェインは彼女の思いを容赦なく切り裂いた。
「では聞かせてくれ――リネアルーラに何をした?」
シルヴェインの言葉に、メルティアの顔から一瞬で血の気が引いた。可憐に整えられた頬が青ざめ、砂糖菓子のように甘かった瞳が不自然に揺れる。動揺を隠そうとするその姿は、まるで嵐の前の静けさだった。
「……リネアルーラ? な、なんのことでしょう、シルヴェイン様」
震える声で必死に「知らない」と繰り返しながら、メルティアは一歩、また一歩とシルヴェインに近づく。
彼女は、自身の魅力を何よりも信じていた。これまで数々の貴族の子息たちを意のままに操ってきた。うるんだ瞳、潤いを含んだ唇、そして誰からも愛される甘い声。
それらが通用しない男がいるなんて、ありえない。
そう信じて、彼女は言葉を紡いだ。
「あんな女のことよりも、私とお話ししましょう……♡ 私、シルヴェイン様のために、今日までずっと……」
しなだれかかるように、彼女はそっとシルヴェインの腕に手を伸ばす。
その細い指が、彼の服の袖口に触れた瞬間、シルヴェインはわずかに眉をひそめ、鬱陶しそうに手を振り払った。
メルティアは、その勢いに耐えきれず、床に這いつくばるようにして崩れ落ちる。
豪奢なドレスの裾が乱れ、髪に飾られた花弁の飾りが、乾いた音を立てて転がった。
呆然と顔を上げたメルティアの目に映ったのは、感情の一切を削ぎ落とされた、氷のように冷たいシルヴェインの視線だった。
その瞳は、まるで汚れた泥を見るかのように、彼女を見下していた。
「……汚らわしい」
シルヴェインが静かに、だがはっきりと呟く。
その言葉は、鋭い刃物のようにメルティアの心を深く抉った。
彼は、彼女の魅力など、最初から何とも思っていなかったのだ。
「……正直に話せ」
命令ではない。
だが、その声音には逆らうことのできない威圧感が満ちていた。
シルヴェアインの背後で、ノクタリオンが静かに一歩進み出た。
「お前が何かを隠そうとするのなら、俺はお前の背後にあるエイルバーン侯爵家が、どうなるか……知らん」
その言葉は、脅迫以外の何物でもなかった。
彼は、リネアルーラという一人の女のために、王国の名門侯爵家を潰す気だ。
メルティアは、はっと息をのんだ。
ありえない。この男は、本当にそこまでするのか?
震える膝に力を入れ、それでも床から這い上がることはできなかった。
シルヴェインは、そんな彼女に容赦なく言葉を重ねる。
「……場所を言え。今、どこにいる?」
彼女は、震える声で、その名を口にするしかなかった。
「……マレセリウス家の、所有する古い塔に……」
その言葉を聞いた瞬間、扉が乱暴に開け放たれた。
数人の騎士が部屋に乱入し、メルティアの震える腕を乱暴に掴み上げた。
彼女は悲鳴を上げ、抗おうとしたが、その力は到底騎士たちには及ばなかった。
「……お、お待ちください、シルヴェイン様!」
悲痛な叫びも、シルヴェインの耳には届かない。
彼は、拘束されたメルティアを一瞥することもなく、静かに立ち上がった。
ノクタリオンも、それに続いて部屋を出ていく。
遠ざかる二人の背中を見つめながら、メルティアは絶望に打ちひしがれた。
彼女の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。それは、純粋な悲しみではなく、自分の計画が崩れたことへの絶望と、シルヴェインの心を手に入れられなかったことへの悔しさだった。