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しくじっちゃった(テヘペロ)

 薄紫の薔薇を象った香油紙を封筒に仕込み、丁寧に蝋を落とす。

 “M”の印が押されたその封書は、まるで恋文のような趣を漂わせていた。けれど、その中身は、決して純なる想いではない。


「……ふふっ」


 メルティアは、艶やかな爪で封書の角を撫でながら、ひとつ笑みを零した。

 甘く、ねっとりと粘るような笑い声は、上品に整えられた室内装飾と不思議に調和しながらも、どこか異質だった。


 彼女が手紙を宛てた相手――それは、ディアク・マレセリウス子爵。

 地方貴族でありながら、商会を幾つも束ね、その財と裏の人脈で“貴族らしからぬ”権勢を持つ男である。

 噂は多い。未婚の若い令嬢との不適切な関係、人妻との密会、従者の買収、競売品の横流し。

 どれも確証はないが、火のないところに煙は立たない。貴族たちは表向きには距離を保ち、裏ではその“便利さ”を利用していた。

 そしてメルティアもまた、その“裏”に触れようとしている。


 翌日。城下にあるマレセリウス家の応接間。


「いや、まさか直々にお越しいただけるとは……侯爵令嬢がこのような場所へおいでになるとは思いもせず……!」


 肉の張った頬を揺らしながら、子爵ディアクは満面の笑みで彼女を出迎えた。

 油光りする額、過剰に金で縁取られた上着、短く巻かれた髪。どこか俗っぽさを隠せない中年男。

 それでも、媚びを売るときの目は速く、ずる賢さに満ちている。

 メルティアはにっこりと微笑み、ふわりとした桜色のドレスの裾を持ち上げて、軽く一礼した。


「ご多忙の中、お時間をいただいてありがとうございます、マレセリウス子爵」

「ああいや……貴女様のためなら、いつでも……っ!」


 顔を赤らめ、口元に手を当てる様は、まるで老いた狐のよう。

 その視線が、メルティアの胸元や首筋を幾度も舐めるように滑っていたのを、彼女はよく知っていた。

 だが、あえて無視する。むしろ“利用する”。


「今日は……子爵様に、お願いしたいことがありまして……♡」


 扇をゆっくりと開き、甘ったるい声音で囁く。

 その目は伏せ気味に、頬には朱を乗せるように、唇をわずかにすぼめながら。


「お……お願い、ですと?」


 ディアクは口元を歪めたまま、椅子の背に身を預け、目を細めた。

 それは“内容を聞く気”はあるが、“代価を払わせるつもり”の表情だった。


「はい……ほんの、ささやかなこと……♡」


 彼女はふわりと近づき、テーブルを挟まず、子爵の隣に腰かける。

 香水の匂いが近づき、ディアクの鼻孔をくすぐった。


「可愛い令嬢がわざわざ頼み事に? ふむふむ、内容によっては考えてあげてもいいが――」

「……本当に?」


 メルティアは、彼の袖口に細い指をからめるようにして触れた。


「子爵様のこと、昔からずっと尊敬していたんです……お噂も、ううん、私は……信じてません♡」


 上目遣いで、涙が浮かびそうな瞳で見つめる。

 それは、今まで数多の男たちを“言いなり”にしてきた、メルティアの十八番おはこだった。


「……ぐふっ……そ、そうかね……? うん、まあ……君のためなら、少しくらいは力になってもいい、かも……しれない……」


 視線はすでに理性を手放していた。ディアクの頬は上気し、喉がわずかに鳴る。

 その変化を感じ取って、メルティアはとびきり可愛らしい笑顔を浮かべた。


「うれしい……♡」


 そう言って、首を傾げるようにして笑い、続ける。


「それでは、お願いしても……いいかしら?」

「……なんなりと。お金のことでも、物でも……ん、女性でも?」

「ふふ……ちょっと変わったお願い、なんですけど……」


 彼女は、扇子で唇を隠したまま、くるりと片目をつむった。


「“リネアルーラ”という女を……攫ってほしいのです♡」


 その瞬間、部屋の空気がぴたりと止まる。

 だが、次の瞬間には――


「……くくっ……ほぉ……」


 ディアクは声にならぬ笑いを漏らし、興味深そうに片眉を上げた。


「随分と物騒なお願いだ……これは、侯爵令嬢のお戯れ……かね?」

「ううん……私は、本気です♡」


 メルティアはにこやかに微笑みながら、唇の端にほんのりと、深い毒を滲ませた。


「とても――嫌いなんです、あの女」


 そして、薔薇のような微笑のまま、扇子の影で真紅の舌をちらりと覗かせた。

 部屋には、甘い香りと、静かな狂気が、濃密に満ちていた。



 ◇◇◇◇◇



「暇すぎて死ぬかと思った」


 誰もいない回廊で、リネアルーラは一人ぼやいた。

 シャンデリアの煌めきが映る大理石の床に、ふわりとドレスの裾が揺れる。

 それを踏まぬよう軽やかに歩きながら、リネアルーラは心の底からため息をついた。


「お茶と書簡と衣装合わせと視線と……全部にもう飽き飽きしてるんだけど」


 右手には、昨夜読んでいた詩集。左手には、退屈を絵に描いたような顔。

 それを誰に見せるわけでもなく、彼女はぽつぽつと呟く。


「……ということで、城、抜けまーす」


 ひらりと踵を返すと、彼女は衛兵の目を避けながら、迷いもなく壁際の装飾柱へと向かう。

 壁の裏には古い排水用の通気孔。以前偶然見つけていた、いわば“秘密の抜け道”。


「前前前世で培ったアスリート力、ナメんなよ。……っと」


 装飾の陰に隠れるように身をすべらせ、くるりと身体を折りたたむ。

 狭い通路でも、彼女の身体は無駄がない動きで、するすると進む。


「ま、王城の造りなんて、人間が作ったもんでしょ。抜ける気になれば抜けられるのさ! ふふっ」


 そうして、リネアルーラは見事に城の外へと出たのだった。



 ◇ ◇ ◇



「……ひゃー、天気いいじゃん」


 城下町の空は、春の陽にふわりと霞がかかり、どこまでも優しく穏やかだった。

 リネアルーラは、簡素な上着に着替え、髪もゆるくまとめていたが――


「……あー、見られてる。めっちゃ見られてる」


 振り返るつもりはないが、視線の集中に気づかないほど鈍くはない。

 街の男女がちらり、ちらりと目線を向け、すれ違いざまに囁きが聞こえてくる。


『誰だ……あの美人……』『旅芸人?いや貴族の令嬢か?』『ちょっと見惚れるな……』

(うん、うん。ありがたいけど、ちょっと照れるからやめて。いや、これ“変装”の意味ないな)


 城で過ごすうちに“外の世界”の基準が下がっていたことに、ようやく気づいた。

 そりゃあそうだ。城の中では貴族の娘たちが最高級の化粧と衣装をまとっている。

 日常的に美に囲まれていれば、彼女自身の外見がどれほど人目を惹くか、少し麻痺していた。


「いやいや、目立っちゃまずいってば。今日はお忍びなんだから」


 帽子をぐいっと被り直しながら、リネアルーラは気を取り直して歩を進めた。

 目指すのは、あの屋台。

 以前、侍女が差し入れてくれた細工飴の話を聞いて、ずっと気になっていたのだ。

 屋台の前にはすでに何人かが並んでいたが、彼女の姿を見ると自然と列が割れた。

 出店の店主が、目を丸くして「お、お嬢さん……何者だい……?」と漏らす。


「ただの飴好きの庶民でーす。これ、くださいっ」


 満面の笑みで告げると、店主は震える手で花の形の飴細工を差し出した。

 そのまま受け取ると、リネアルーラは喜々として歩き出し、しゃり、と飴を齧った。


「……ん~、天才かな?」


 うっとりするような甘さと香りに、思わず肩の力が抜ける。

 軽やかな春の空気が頬を撫で、歩くたびにスカートの裾が揺れる。


(こんな風に、なんでもない街の空気を吸えるのって……案外、幸せだよね)


 その時だった。


 ――「きゃっ!」


 小さな悲鳴が、鋭く空気を裂いた。

 リネアルーラは即座に動いた。飴をくわえたまま、音のした路地裏へと駆け込む。


「大丈夫!? 今の声、あな――」


 そこには、若い娘がひとり、路地の石畳に倒れ込んでいた。

 薄い青の外套、儚げな表情、震える肩――どう見ても“助けを求める”姿そのものだ。

 リネアルーラは迷いなく駆け寄る。


「ちょっと、しっかりして。頭打ったの?どこか怪我して――」


 しかし。

 その娘はゆっくりと顔を上げ、目の端を釣り上げるようにして笑った。


「えっ……」


 次の瞬間、娘の手に握られていた小瓶が、プシュッと音を立てた。

 鼻を刺すような強い香りとともに、リネアルーラの顔面に霧状の液体が降りかかる。


「っ……く……何、これ……?」


 視界が歪み、身体がふわりと浮いたような感覚に襲われる。

 立っていられない。足が、力を失っていく。


「なに……この……香水、まさか……!」


 呟く間もなく、意識が急速に遠のいていった。


(……うわぁー。しくったなぁ、これ)


 それが、リネアルーラの最後の思考だった。

 彼女の身体は、静かに、けれど確実に地面へと崩れ落ちた――。

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