「女の嫉妬って恐い」byリネアルーラ
春の名残が風に香る、ある日の宮廷晩餐会。
金細工のように繊細なティアラと、花弁のように広がる桜色のドレスに身を包んだ少女は、飴菓子のような瞳で静かに扇を揺らしていた。
メルティア・フォン・エイルバーン侯爵令嬢。
王国貴族の中でも名門と称されるエイルバーン家の一人娘にして、目を奪うほど甘美な容姿と、誰からも惜しみない賞賛を浴びて育った――まさしく“お姫様”。
けれど、その晩餐会で初めて出会った“彼”は――その彼女に、まるで興味を示さなかった。
「第二皇子殿下をご紹介いたします。シルヴェイン・ジャズ・キャルアルデーラ殿下」
家臣の声が響いた瞬間、会場の空気がわずかに引き締まった。
黒曜石のように深い濃紺の礼服、鋭利な意志を宿す切れ長の双眸。
完璧な骨格、鋭い顎、無駄のない身のこなし。そのすべてが“洗練”そのものだった。
――なんて、美しい人。
メルティアは、それまでの華やかな談笑も忘れ、心の底から見惚れた。
ただの美貌ではない。
孤高とも言えるその空気。周囲を見渡す冷ややかな眼差し。
一瞬で世界が彼の周囲に引き寄せられていくような、強烈な存在感。
彼は別世界の住人のようで、まるで夢の中の騎士。
そして、紹介された貴族たちの一団に対し、丁寧ながらもまるで感情のない声で挨拶を終えると――
メルティアの前を、まるで“そこに誰もいない”かのように、ただ歩いて通り過ぎた。
「…………っ」
まさか、自分を見ても立ち止まらない男がいるなんて。
いつでも誰かが声をかけてきた。
褒められ、笑いかけられ、微笑まれ、時には跪かれることすらあった。
美しいと言われるのは日常。どんな相手も、自分の一挙手一投足に注目してくれると、信じていた。
でも――彼は違った。
初めてだった。“欲しいもの”が、自分に目もくれず通り過ぎていくということ。
だから、その瞬間に決まったのだ。
――この人、欲しい。
どんなドレスよりも、宝石よりも。
どんな甘い言葉よりも、今はただ、あの人の視線が欲しい。
△▼△▼ △▼△▼
「メルティア? 聞いているの?」
母の声で、現実に引き戻される。
そこは侯爵家の馬車の前。今日は久しぶりに、両親が王城へ伺う日だった。
「ねえ、お母様……今日、私も一緒に行きたいわ」
「まあ、あなたを王城に? どうして? 今日は正式な謁見でもないのに」
「だって……久しぶりに、殿下にお目にかかれるかもしれないでしょ?」
「……あの方に?」
母が小さく首をかしげる。
父が横から「もう少し慎みを持ちなさい」と低く諭してくるが、メルティアはまるで聞いていない。
「いいでしょう? 私、礼装もしてるし、お行儀よくしますから。お願い……♡」
扇で口元を隠しながら、瞳だけで見上げる。甘えるように、潤んだような上目遣い。
父が困ったように唸り、母が小さく笑う。
「……仕方のない子ね。殿下にご迷惑はかけないと、約束できる?」
「ええ、もちろん♡ だって私、殿下のこと、大好きなんですもの」
メルティアはにっこりと可愛らしく笑った。
そして、馬車が王城の正門をくぐった時――
メルティアの目が、庭園の奥で微笑む“見知らぬ令嬢”の姿を見つけたのは、偶然だった。
優雅に椅子へ腰かけ、紅茶を楽しむその横顔。
……そして、彼女の隣にいるのは――シルヴェイン・ジャズ・キャルアルデーラ。
まるで誰よりも自然に、彼の傍に座っている。
ありえない。
その瞬間、メルティアの中の“何か”が、音を立てて崩れた。
◇◇◇◇◇
王城の中庭は、春の光に包まれていた。
白亜の大理石のテーブルを囲み、リネアルーラはカップを傾けながら、シルヴェインと軽やかに言葉を交わしている。
「ルー、最近は仮面舞踏会もずいぶんと穏やかになったね」
リネアルーラはくすりと笑い、蜂蜜色の瞳を細めた。
シルヴェインは肩をすくめる。
「気のせいかもしれないが、何かが動いている気がする」
「あはは、また陰謀の匂い? 私にはさっぱりわからないや」
リネアルーラは茶化すように軽く肩をすくめた。
「俺はお前の演技を見破れたがな」
彼は微かに笑みを浮かべた。
「うん、さすが私のご主人様だね」
リネアルーラはその言葉に、ほんのわずかの安堵を込めた。
その時、不意に甘く高い声が割り込んできた。
「シルヴェイン様~~♡」
声の主は、メルティア・フォン・エイルバーン。
ふわりと白いドレスを揺らしながら、まるでお姫様のように現れた。
彼女の大きな瞳は潤み、まつ毛に濡れた涙が煌めいている。
シルヴェインの視線は一瞬、面倒そうに揺れたが、動きを止めることはなかった。
「私、シルヴェイン様に会いたくて、連れてきてもらったんですぅ」
メルティアは膝を折り、甘えるように彼の腕にすり寄る。
「会えて嬉しいですぅ……もう、心がいっぱいで、どうにかなりそう……」
その媚びた声は甘く、耳元で囁くように響く。
まるで小鳥がさえずるような愛らしさだが、そこには計算された狡猾さが隠されている。
シルヴェインはわずかに眉をひそめて手を引いた。
「触らないで貰えるか」
しかし彼女はお構いなしに、涙目を潤ませながら彼を見つめる。
「だって、シルヴェイン様は私の特別な人。誰にも渡したくないんですぅ……」
一方、リネアルーラは冷ややかにその光景を眺めていた。
彼女の瞳は細く細められ、くすくすと苦笑を漏らす。
「……まるで猫がじゃれているみたいね」
メルティアはふと、リネアルーラに気づいた。
その瞬間、愛らしい笑顔が一変する。
「……あら? あなたはどなた様ですかぁ?」
甘ったるい声音で尋ねるが、鋭い視線が隠しきれない。
リネアルーラはその問いに、素の態度をひっこめて淑女の仮面を被る。
「はじめまして、メルティア様。リネアルーラと申します」
声は落ち着き払われ、礼儀正しく、まるで舞踏会の優雅な淑女そのものだった。
シルヴェインは冷ややかに二人を見比べる。
その視線の中には、「お前、誰なんだ?」といういつしかと同じ疑念がはっきりとあった。
「私はシルヴェイン様のお友達です。こうしてお茶をご一緒しているのです」
メルティアは眉をひそめるが、すぐに甘えるような口調に戻した。
「そうなんですねぇ……ふふっ、これからもっと仲良くなりましょうね、リネアルーラ様」
しかし、リネアルーラに向ける視線は敵意に満ちていた。
「……あなたが誰であれ、私の邪魔はさせませんから」
そして、メルティアは華麗に背を向け、風に舞うドレスの裾を揺らして去っていった。
リネアルーラは微かに笑みを浮かべ、シルヴェインの方へ目を戻す。
「……女の嫉妬って、ほんとに面倒だねー」
彼はそれに応えず、ただ冷たい目でメルティアの去った方向を見つめていた。
柔らかな日差しが優しく差し込むはずの私室は、いまや嵐の中心だった。
メルティアは、豪奢なドレスの裾を蹴飛ばし、椅子から立ち上がった。
額には汗がにじみ、呼吸は荒く、瞳は怒りと嫉妬で血走っている。
「なによ、あの――あの女……!」
甘く可憐な声は今や震え、怒号に近い響きを帯びていた。
鏡に映る自分の顔を見つめながら、メルティアは声を荒げた。
震える指で頬を叩き、自分の美貌を確かめるように激しく掻きむしる。
「どうして、どうして私じゃダメなのよ!!」
涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を伝い落ちる。
しかしそれでも彼女は止まらない。
「アイツ……あんな顔で……シルヴェイン様の隣なんて……!」
床に蹴ったドレスの布が乱れ、室内に響くはずのない叫びがこだまする。
手が震え、メルティアは再び自分の顔を掻きむしった。
「あんな顔、あんな……あんな完璧な顔……!!」
その言葉に呆れたような、自分自身への嫌悪が交じる。
だが次の瞬間、彼女の瞳に異様な光が灯った。
「……ふざけるな……!」
胸の中の激情が爆発し、彼女は震える声で呟いた。
「その顔を……傷つけてやればいいのよ……!」
指先が鋭く、肌を引っ掻く。痛みが彼女を狂わせるように快感となって波打つ。
声が割れ、笑みが狂気に染まる。
「そうすれば……シルヴェイン様は私だけを見てくれる……そうよ、絶対に!」
メルティアは部屋の隅に置かれた机へ歩み寄った。
手早く引き出しを開け、純白の便箋と漆黒の羽根ペンを取り出す。
震える指でペンを握ると、彼女の唇は悪魔じみた笑みを浮かべた。
「これで……動き出すの……」
吐息交じりに囁き、メルティアは一文字一文字を、苛烈な決意と嫉妬の炎で刻み始めた。