魔女の能力
野々村は図書館を出ると駅に向かい、ちょうど来た電車に乗り込んだ。一度の乗り換えを挟んで辿り着いた先はサッカースタジアムを有する賑やかな駅。いかにも高級マンションが建っていそうな気品溢れる街並みが広がっていた。
彼女の背中は丸まっていて、どこか哀愁が漂っている。引き摺るような、とぼとぼとした足取りだった。呑気に生きている俺には想像もつかないほどの大きな悩みを抱えているのかもしれない。緩やかな歩調のせいで俺たちは頻繁に立ち止まらなくてはならなかった。
「これ、家に着いちまうんじゃねえか? そこまで行ったら完全にストーカーだぞ」
仁が小声でぼやく。家まで行かなくても既にストーカーに違いないのだが、余計なことは言わないでおいた。
「いつまで続けりゃいいんだよ?」
「さあ」
「もう帰ってもいいんじゃねえか?」
「オタクくんを待とう。そろそろ追いつくだろうし」
オタクくんには地図アプリで現在地を送信していた。先ほど電車を降りたと連絡があったのであと少しの辛抱だ。
「もう野々村は魔女だったってことでいいんじゃねえか?」
仁がいい加減なことを言い出したタイミングでようやくオタクくんが追いついた。右手にはスマホ、左手にはアイスを持っている。コンビニで見かける、コーンにソフトクリームが詰められたものだ。遅いと思ったら道草を食っていたらしい。
それを見た仁が眉を吊り上げる。
「お前なあ、俺たちが真面目に尾行してるってのに、なんで一人だけアイス買ってんだよ」
「尾行は気負っちゃいけないって言ったでしょ? これが僕なりの自然体なんだ。仁も買ってきたら?」
「尾行はいいのかよ?」
「そのための複数人行動だよ」
オタクくんは悪びれる様子もなくコーンを齧る。ふてぶてしくて逆に頼もしい気がしてくる。
仁はしばらく辺りを見回していたが、やがて溜め息を吐き、あからさまに肩を落とした。既に住宅街に入っていて、コンビニもスーパーも見当たらなくなっていた。
仁は機嫌を損ねると面倒くさいところがある。気を逸らそうとオタクくんに水を向ける。
「野々村が借りた本は分かったのか?」
「もちろん」
アイスクリームを飲み込む間を置いてオタクくんが説明する。
「思った通り魔女関連の本だった。タイトルは『未だ明かされぬ超心理学法の実態』」
「あ? 心理学のどこが魔女関連なんだよ?」
「超心理学は超常現象を対象とする心理学で、第六感、心霊現象、テレパシーや透視なんかのことだよ。念じる系の超能力って言ってもいいかもね」
レイナちゃんの話を読んだ後だと魔女の情報に思えてくるから不思議だ。
「それを読めば野々村が何について調べているのかもはっきりするのか?」
「さらっと読んだけど、かなり昔の検証実験の内容を解説したもので、魔女を直接説明するような記述はなかったよ」
「読んだことがあったのか?」
「ううん。電子書籍で買って、電車の中で流し読みしたんだよ。僕が思うに、野々村紗代は目当ての本じゃなさそうだけど何かのヒントになるかもと期待して借りた、ってところだろうね」
電車に乗っていた時間なんて十分かそこらだ。その間に本一冊を読んだというのだから、やっぱり俺とは頭の出来が違うのだろう。
俺たちが通う高校は横浜では進学校に当たる。だが、トップ校というわけでもない。どうしてこんなところにオタクくんがいるかというと、女子の制服のデザインが好きなアニメのそれと似ていたから、らしい。まったく、頭がいいのか悪いのか分からない。
そのオタクくん好みの制服を着た少女は、なおも俺たちに気づかずに進んでいく。
アイスクリームコーンの先端を口の中に放り込み、オタクくんは静かに言う。
「僕の中では野々村紗代が魔女という仮説はかなり有力になったよ。どうせ魔女の証拠までは掴めないだろうし、本当に高級マンションに住んでいるか確認できたら尾行は終わりにしよう」
野々村が魔女で超能力を持っていたとして、それがレイナちゃんのような写真と話せる能力なら尾行したところで現場を押さえることはできないだろう。じゃあ何のためにこんなことをしているんだ、と思わなくもないが、オタクくんが満足したならそれでいい。バイトも増やさずに済みそうだ。
「なんだよ、つまんねえな。どうせなら何か見せてほしいぜ」
「世の中、そう都合よくはいかないよ」
ふと、こういうのを『フラグ』と呼ぶことを思い出した。『この戦争が終わったら結婚するんだ』とかのあれだ。俺にもこれくらいの知識はある。
そして、異変は突然に訪れた。
俺たちの視線の先で野々村が立ち止まる。気づかれたか、と電柱の陰で身構えたが、彼女は振り返ることなく、駆け出したかと思うと十メートルほど進んで再び足を止めた。
「どうしたんだ?」
無声音で仁が呟く。分からない、と俺は首を振った。
オタクくんの声にも緊張が滲む。
「路上で何か見つけたみたいだね。もう少し近づきたいけど、今行けば間違いなく気づかれるだろうし……」
「自然に追い越しながら、ちらっと見てみるってのはどうだ? いい考えだろ?」
「悪くはないけどリスクも大きいよ。困っているなら周囲を見回すだろうから姿を見られることになる。そのときはストーカー確定だ。それに、もし密かに超能力を使おうとしているところだったらそのチャンスを逃すことにもなりかねない。本当に偶然通りかかったと言えるような言い訳が必要なんだ」
「そんなもん適当でいいだろ?」
「野々村紗代が魔女なら後で政府に調べられる可能性もあるんだ。少なくとも本当のことを含んだ噓でないと駄目だよ」
「あ」
思いついた拍子に声が出た。二人が俺を見上げてくる。
遠くの野々村を見据えたまま考えを話す。
「ここ、智菜の家の隣駅なんだ。俺なら彼女の家に行った帰りってことにできるかもしれない」
「なるほど。ギャルなら彼氏を家に連れ込んでもおかしくないね」
ギャルじゃなくても家に呼ぶくらいするだろ。あと、智菜は見た目が派手なだけでギャルじゃない。
「それで行こう。優真、頼んだよ」
「ストーカーに間違われたときはドンマイだ」
二人に後押しされ、俺は路上に飛び出した。
野々村はまだ同じ場所に立ち尽くしたままだった。その背中を目指して歩く。
追い越すだけ、追い越すだけ、と口の中で繰り返し呟く。首は動かさず、目だけで野々村の前にあるものを確認して歩き去ればいい。難しく考えることはないのだ。
緊張を押し殺し、一歩一歩を踏み締めるように進んでいく。生唾を呑む音さえ聞こえてしまいそうな気がして、無意識のうちに息を止めていた。
やがて野々村の足元が見えてきた。白線の上に赤いものが飛んでいる。あれは……血、だろうか。
野々村の背中が迫り、そして、追い越す。――いや、追い越すはずだった。
それを目にした俺は、思わず足を止めていた。
そこにあったのは猫の死体だった。車に轢かれたのだろう、腹部と片脚が潰れ、内臓が飛び出している。赤黒い血がアスファルトを染めていた。
野々村は息を詰めて、動かない白猫をじっと見つめていた。憐れんでいるのではない。轢いた人間を恨んでいるのでもない。ただただ、自分のことのように苦しんでいるように見えた。
彼女が顔を上げる気配はない。今なら驚いて立ち止まっただけと思ってもらえるだろう。気づかれないうちに立ち去るべきだ。
自分にそう言い聞かせても身体は言うことを聞いてくれなかった。
『優真、いい男になりなさい』
師匠の声が頭の中で響く。
俺の中の〝いい男〟とは、自分が〝いい〟と思えることを迷いなくできる男だ。
ここで苦しんでいる野々村を放っておくなんて、〝いい男〟のやることではない。そんなことをしたら師匠に顔向けができなくなる。
密かに拳を握り込み、俺は暗い顔をしているクラスメートに歩み寄った。
「野々村」
「――っ」
顔を上げた野々村が俺を見るなりひゅっと息を吸い込んだ。起立するように硬直し、唇を慄かせる。黒目がちな瞳は小刻みに揺れ動いていた。
彼女は絞り出すように俺の名前を口にする。
「皆月、優真……くん」
フルネームとはよそよそしい。教室ではお隣さんなのに。まあ、認知されていただけでもありがたく思うとしよう。
「どうしてここに……?」
「ああいや、偶然通りかかったんだよ。なんか困っているみたいだったから声をかけてみただけだ」
用意していた言い訳を忘れ、適当なことを話していた。初めて口を利いてくれたことに感動していたのかもしれない。
それより、と動かなくなっている猫に視線を移す。
「その猫、どうするんだ? 埋めるなら手伝うぞ」
「この仔、まだ生きてるよ」
「え?」
しゃがみ込んで確認する。よく見ると微かに胸が上下していた。
まだ息がある。
それが分かった途端、俺の中でこの猫が〝可哀想だったもの〟から〝可哀想な生き物〟に変化した。これは過去ではなく現在進行形の問題なのだ。
指先で白猫の頭を撫でる。鳴こうとしたのか、猫は小さく口を開けた。
あれは俺が小学校一年生の頃だったか。姉ちゃんが仔猫を拾ってきて、飼いたいと駄々を捏ねたことがあった。母さんは頑として譲らず、俺は姉ちゃんに八つ当たりされた。たしか、あの猫も白い毛をしていた。
きっと、この怪我じゃ病院に連れていってもどうにもならないだろう。それでも、できることをしてあげたかった。何かしなければいけないような気がした。
「駄目元で動物病院に行ってみるか? それとも、そういう自治体に電話してみるか?」
野々村の返事はなかった。まさか猫に話しかけていると思われたのでは、と不安になって見上げると、彼女は下唇を噛んでじっと俺を見つめていた。
何か言いたそうにしている気配を察知して、無言で言葉を促す。
ややあって、野々村は唇を解き、躊躇うように言った。
「皆月くんは……この仔を助けられる力があったら助ける?」
「助けるよ」
即答した。心のどこかで、自分に力があればと妄想染みたことを願っていたから。
「そのせいでこの仔が苦しむことになるかもしれなくても、正しいことだと思う?」
難しい問いかけだ。抽象的だが、言いたいことはなんとなく分かる。
例えば、命が救われる代わりに猫は目が見えなくなってしまうとする。盲目の野良猫が生きていけるはずがない。仲間からは爪弾きにされ、餌も取れず、痩せ細って死んでいく。それなら今ここで死んだ方が楽かもしれない。その先のことを考えずに救うのは無責任な行為で、ただの自己満足に過ぎないのだろう。
でも、俺が無責任で自己満足のために生きていることなんて、今に始まったことじゃない。罵られるなら、知ってるよと言い返してやればいい。
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「助けるよ」
「この仔以外にも苦しむ誰かがいるとしても? その誰かに恨まれるとしても?」
「それでも助けるかな」
「どうして?」
助けたいという気持ちに理由なんか要るか、なんて言えたらカッコよかったのだろう。でも、そんな言葉を口にできるほど俺の性根はまっすぐじゃない。それに、野々村が求めている答えはそんなことじゃないと思えた。
だから、思ったままを言葉にする。
「そういうのは助けた後に考えたらいいんじゃないか? この猫も、この猫を救ったことで苦しむ誰かも、その後でまた助けたらいい。助けられないかもしれないけど、今死なせたらその可能性も捨てることになるだろ」
野々村に響いたのかどうかは分からない。そもそも、そんなことはどっちでもいい。
こんなところで問答をしている間にも猫の命は削れていっている。俺は野々村を無視してスマホを取り出した。『車に轢かれた猫』『見つけたら』のワードで検索を掛けてみる。息がある場合は地域の動物愛護相談センターに電話するか交番に相談するといいらしい。
早速、動物愛護相談センターとやらに電話を掛けようとする。と、頭上から声が降ってきた。
「分かった」
野々村は膝を折り、猫の頭を優しく撫でる。彼女の口が微かに動く。ごめんね、と言ったように見えたが、どういう意味なのかは分からなかった。
「電話、しなくて大丈夫だよ。わたしが助けるから」
「どうやって?」
「わたし、魔女なんだ」
野々村は目を伏せたままそう告白した。まるでそれが恥ずべきことだと思っているかのような表情だった。
魔女。その単語を聞くまで、俺は何のために野々村を尾行していたのかを忘れていた。
目の前の彼女を見ないようにしながら、とりあえずとぼけてみる。
「あー、都市伝説の超能力者ってやつか?」
「うん」
「助けられるのか?」
「うん。皆月くん、手伝ってくれる?」
「ああ。もちろん」
「じゃあ、周りの人に見えないように隠してほしい。誰にも見せちゃいけないことになってるから」
俺は野々村を信じることにした。元々魔女だと疑っていたから、だけではない。その真剣な顔と声音が、噓ではないと物語っていた。
学ランを脱ぎ、野々村の周りを囲うように広げる。自然と俺は野々村に被さるような恰好になった。傍から見たらうさぎを襲う狼のように映ったかもしれない。
野々村はスカートが汚れることも気にせず、血塗れの白猫を膝に置いた。そして、目を瞑り、祈るように指を組む。
すると、不思議なことが起きた。
白猫の身体がぼんやりと光を纏い、かと思えば見る見るうちに傷が治っていった。こぼれていた内臓が吸い込まれるように元に戻り、潰れていた腹部と脚が膨らみ、大口を開けていた傷がぴったりと閉じる。事故の負傷を逆再生しているかのようだった。
奇跡というものを初めて目にした。
驚きのあまり声も出せない。
俺が茫然としているうちに猫は目を覚まし、すっくと身体を起こした。声の調子を確かめるようににゃあと鳴く。そのまま、救ってくれた野々村を見向きもせず走り出してしまった。白い影はあっという間に見えなくなった。
夢か幻としか思えない出来事だが、野々村のスカートと路上に残る血が、紛れもなく現実に起こったことであると証明していた。
いつの間にか野々村は目を開けていた。猫が走り去った方角を心配そうに見つめている。
「今のは、いったい……?」
「わたし、たいていの怪我なら治せるんだ……治癒の魔女だから」
俺の質問になっていない質問に、彼女は溜め息混じりに答えてくれた。
治癒の魔女。もはや医者要らずのとんでもない超能力だ。口で説明されただけならそんな馬鹿なと笑い飛ばしているところだが、俺は実際にこの目で見てしまっている。信じる以外の選択肢がなかった。
「皆月くん……もう、大丈夫だから」
言われてようやく、俺は野々村に覆い被さったままであることに気づいた。慌てて身体を起こし、学ランを抱える。
野々村は俺と目を合わそうとせず、静かに頭を下げる。会釈したのだと遅れて理解した。
「じゃあ、わたしはこれで」
「待ってくれ」
野々村が俺の脇を抜けて駆け出そうとする。それを見た瞬間、咄嗟に彼女の腕を掴んでしまっていた。
野々村は硬直したように足を止めた。けれど、こちらを振り返ろうとはしない。
なぜ引き留めたのか、俺自身よく分かっていなかった。たぶん、理由なんてない。思わずそうしただけだった。
自分の中に言葉を探す。何か言いたいことがある。言わなければいけないことがある。そう思うと、自然と喉から声が滑り出した。
「野々村、ありがとう。猫を助けてくれて」
野々村は俺を見ようとしない。かといって手を振り解こうともしない。
足元を見つめたまま野々村が訊ねてくる。
「どうして、皆月くんはわたしに構おうとするの……?」
どうしてだろう、と俺も俺に訊いてみる。なぜ俺は野々村が気になるのだろう。
野々村が魔女かどうかは関係ない。オタクくんからその噂を聞くより前、あの自己紹介のときから気に掛けていた。そして、この気持ちは一昨日の震えている姿を見た瞬間に確固たるものに変わった。
あのときの野々村を思い出して、俺はようやく理解した。
「野々村が泣いているから」
涙を見せないだけで、たぶん、野々村は泣いている。ずっと、泣きつづけている。
俺は野々村に昔の姉ちゃんを重ねていた。野々村は姉ちゃんと同じく、強くて優しい人なのだと思った。そういう人の、自分を押し殺した泣き顔のように俺には見えたのだ。
俺は姉ちゃんに何もしてあげることができなかった。そのことを今でも悔やんでいる。
だから、泣いている野々村を放っておけない。野々村のためなんかじゃない。俺は野々村を通して、過去の罪滅ぼしをしようとしているのだ。
これは自己満足で、けれど、偽りのない純粋な気持ちだ。
「俺は野々村を助けたい」
「皆月くんに関係あると思うの?」
「あるよ」
「……どうして?」
「野々村、言っただろ? 猫を救ったら苦しむ人がいるって。で、俺はその後で苦しむ人をまた助けたらいいと答えた」
「うん。言ってたね」
「猫は助かったけど、今度は野々村が苦しんでいる。だったら、その野々村を助けるのは俺の役目じゃないか」
野々村が肩の力を抜くのが分かった。呆れたようにも、諦めたようにも見えた。
振り返った野々村は薄く笑った。瞳は乾いているが、やっぱり泣いているように俺には感じられた。
「本当に助けてくれるの?」
「ああ」
野々村は黒髪を撫でつけ、呟くように言った。
「わたし、記憶の魔女を探しているの。一緒に探してくれる?」