理想的な終わり方
紗代が病院の面会時間はどうにかできると言うので、俺たちは早速病院に向かった。魔女の特権みたいなもので政府の人間が口利きをしてくれるらしい。今さらながら、俺はすごい人と付き合っていたのだと痛感した。
車も出してもらえると言われたが、それは断った。智菜と別れるなんてついさっきまで考えたこともなかったから、心を整理する時間が欲しかったのだ。
電車の中では目を瞑り、自分の内側を見つめていた。智菜と付き合って二ヶ月とちょっと。智菜といた時間は、それはもう楽しかった。すぐ拗ねたり、ばしばし身体を叩いてきたり、五回に一回は遅刻してきたり、外では駄目だと言っているのにキスしようとしてきたり、何時間も電話に付き合わされたりしたけど、それも全部嫌じゃなかった。そんなところも大好きだった。いや、過去形なんかじゃない。今も、大好きだ。俺は紗代と同じくらい、智菜のことも大好きなのだ。
きっと、智菜も俺のことを好きでいてくれている。
その智菜を、これから振りに行く。
別れるならできるだけきれいに別れるべきだと師匠は言っていた。話し合って、後腐れなく、笑って別れるのが理想だと。俺は別れたことがないからいまいち想像ができないけれど、たしかにそれが理想だと思う。
でも、智菜とは汚く別れようと決めていた。
恨まれて、憎まれて、嫌悪されて、という意味じゃない。それは俺への罰にはなるだろうけれど、智菜のためにはならない。智菜にはそんな感情を抱えたまま生きてほしくない。
智菜には俺を好きなままでいてもらいたかった。俺を好きなまま紗代に治してもらうことで、俺のことを完全に忘れ去ってほしい。智菜の人生から俺がいなかったことにしてほしい。好きな人の記憶から消えることが、俺だけがその記憶を持っていることが、本当の罰で、最大の償いだと思った。
移動中、紗代は何も喋らなかった。時々目を開けると、彼女は気遣うような、何かに祈るような眼差しで俺を見上げていた。下手な励ましよりもずっと勇気を貰えた気がした。
病院に着いた頃には夜九時を回っていた。駐車場は真っ暗で、入口や窓だけが皓々と輝いている。大きな化け物が目を開けたまま眠っているように感じて、光に近づくほど足が竦んだ。
入口に影が見えると思ったら、スーツ姿の女性がドアマンのように背筋を伸ばして立っていた。紗代が、お世話になっている異能科の職員の田辺さんだと教えてくれる。日記を思い出して、ああ、あの、と呟いたら、不思議そうな顔をされた。
「お世話になってます」
俺が挨拶すると、田辺さんは、お世話した覚えはありませんがと言いたげに瞬きをした。そっちにはなくても俺にはある。この人が賛成してくれなかったら、俺は紗代と付き合えていなかったかもしれないのだから。
田辺さんは俺たちを裏口に誘導し、毅然とした足取りで廊下を進んだ。リノリウムの床に、カ、コ、カ、コとヒールの音が響く。
「患者さんには『治療を行う』とだけ伝えてあります。隣室の患者さん方には一時的に部屋を移動してもらっていますので何を話していただいても構いません。また、治療後の処理についてはわたしどもの方で対応しますのでご心配なく」
あらかた事情は聞いているらしく、田辺さんは事務的な口調で説明した。俺は以前、他の職員さんに〝紗代の秘密を守る〟という内容の誓約書を書かされたことがある。智菜にもそれと同じようなものが渡されるのだろう。
入院病棟の502号室前に着くと、ちょんちょんと紗代が袖を引っ張ってきた。
「優真くん、わたしはしばらくどこかに行っていた方がいい?」
「紗代はどうしたい? たぶん、色々とショックなことを聞くことになると思うけど」
「優真くんがいいなら、ここで待ってる」
不安げな顔をしているが、その瞳の芯には覚悟のようなものが垣間見えた。紗代は、俺が抱えるべき罪を一緒に背負おうとしてくれているのだ。優しすぎて心配になる。
「分かった」
お礼を言うのも謝るのも違う気がして、俺はそれだけ言った。紗代は静かに頷いた。
密かに深呼吸して、扉をノックする。心の中で別の自分が、ちょっと待ってくれよ、まだ無理だって、と騒いでいた。
はい、という返事が聞こえると同時に、勢いのまま扉を開けた。
目と目が合って、智菜の肩が跳ね上がった。ただでさえ大きな瞳がさらに大きくなっている。
「優真? え、どうして? 面会時間はとっくに過ぎてるでしょ?」
智菜が逃げられないと知りながら、ゆっくりと、にじり寄るように近づいていく。智菜は寝そべったまま、片手で俺の視線から顔を守るようにした。
「ねえ待って。ほんとに無理。あたし、今ブサイクだし、シャワーも浴びれてないから臭いし、色々最悪なの。こんな姿、優真に見られたくなかった」
金曜日に会ったときと変わらず、智菜は入院着を着て、首にギプスを巻いていた。すっぴんなのも同じ。ただ、たった三日で随分とやつれたように見えた。目は赤く腫れていて、頬には涙の跡がくっきりと残っている。体力の全部を泣くことに使ったのかもしれない。
ベッドのすぐそばに立つ。手を伸ばさなくても触れられる距離。濃い汗の匂いが鼻腔を掠めた。
「ブサイクな智菜も可愛いって。あと、好きな人の汗はいい匂いがするらしいぞ」
「うるさい。バカ。ヘンタイ。そんなことを言うために来たの?」
「違う。大事な話をしに来たんだ」
智菜の手が下がり、恐る恐る俺の顔を窺う。何かを察したのか、瞳に怯えの色が混ざるのが見えた。
「嫌だ。聞きたくない」
智菜がきつく目を瞑る。耳を塞ぐんじゃなくて寝たふりをするところが智菜らしい。
「智菜も治りたいんだろ? また歩けるようになって、チアもして、色んなところに行きたいんだろ? 俺も、智菜に治ってほしいんだ。元気になって、幸せになってほしい」
「でも、だからって、治癒の魔女の能力を借りるのは嫌! 絶対に嫌! そんなことしたら――」
「俺のことを忘れる、か?」
智菜の目が驚愕に見開かれる。顔からは血の気が引き、真っ青になっていた。
震える唇が、途切れ途切れに声を発する。
「水上から、何か、聞いたの……?」
「違うよ。自分で思い出したんだ。俺が紗代と付き合っていたことも、紗代を好きだったことも、紗代が大切だってことも、全部」
「〝紗代〟……? じゃあ、本当に、優真は野々村さんと――」
「うん」
直後、智菜の瞳にカッと炎が灯った。
「なんで……? なんでよ! 誰とも付き合ってないって言ったじゃん!」
「うん」
「優真から告白してくれたんだよ? そうでしょ? ねえ!」
「うん」
「あたしのこと好きだって言ったじゃん!」
「うん」
「愛してるって言ったじゃん!」
「うん」
「あたしは初めての彼女じゃなかったの? あたしは……う、浮気相手だったって、こと?」
「うん。ごめん」
智菜との関係を浮気だなんて言いたくはなかった。智菜のことが本気で好きだったし、たぶん、本気で愛していた。智菜といられることが本当に幸せだった。
それでも、彼女がいるのに付き合ったのだから浮気としか言いようがない。どれだけ言葉で取り繕っても、俺が最低なゴミクズ野郎であることは変わらないのだ。
智菜の顔がくしゃりと歪む。その拍子に、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「あたし、去年から優真のことが好きだったんだよ? 初めて本気で好きになった人が優真なんだよ? あたしの初恋だったんだよ?」
「俺も、思い出すまではそうだったよ。今だって、智菜のことが好きだ」
「じゃあ――」
「好きだから、怪我を治して、俺なんかのことは忘れて、幸せになってほしい」
智菜は痛みに耐えるように布団を握り締めて、声も抑えずに泣きはじめた。
ひどいことをしているという自覚はある。俺が同じことをされたらきっと堪えられない。それでも、俺の結論は変わらない。
追い打ちを掛けるように、ついにその言葉を口にする。
「智菜、俺と別れてくれ」
「やだ! 嫌だよ! 優真と別れたくない! 優真のこと、忘れたくない!」
「智菜が別れたくなくても、俺は智菜を選べないんだ。紗代と同じくらい智菜のことが好きだけど、俺が愛してるのは紗代なんだよ。だから、ごめん」
スマホを取り出し、智菜に『別れよう』とメッセージを送る。記憶が消えた後にRINEを見て、俺と関係が続いていると思わないようにという予防策だった。
智菜が衰弱しきったような力のない手つきでスマホを取った。俺の画面に既読が付く。けれど、返信は来ない。
『今までありがとう』
『大好きだった』
『智菜の幸せを願ってる』
続けて三通送ると、長い逡巡を置いて智菜の指が動いた。ただひと言、『うん』と返ってくる。
俺は智菜と別れたんだ、と認識したら、智菜との想い出が脳裡をよぎって、勝手に涙が出てきた。
お互い涙でびしょびしょで、本当に汚い別れ方だった。
「智菜、ネックレスも返してほしい」
売ってもらっても、捨ててもらっても構わなかったが、もしもそうされなかったときに紗代が悲しむと思って、無意識のうちにそう言っていた。
智菜は何も言わずに頭を起こし、首の後ろに手を回した。ずっと着けてくれていたんだと知って、また涙が込み上げてきた。
ネックレスを握り締めて、智菜は囁くように言った。
「最後に、キスしてほしい」
「ごめん。紗代以外の人とそういうことはできない」
言い終わらないうちにネックレスを投げつけられた。俺の胸に当たって落ちて、ちゃり、と軽い音を立てた。
「優真のそういうところが好きだったんだよっ。なんで……なんであたしじゃないの?」
「ごめん。本当に……ごめん」
謝ることしかできない自分が惨めだった。
しばらくして外で待っていた紗代が病室に入ってきた。俺を見ないようにしながら足を運び、智菜のすぐ横に立つ。
紗代は色んな感情を呑み込むように目を伏せた。
「白崎さん、ごめん、怪我を治させてもらうね。色々と……ごめんなさい」
「許さない」
智菜は疲れた声で呟き、「でも」と続けた。
「野々村さんも、あたしのこと許さなくていいよ。知らなかったとはいえ、優真のこと取ってごめん。水上から話を聞いた後も付き合いつづけてごめん」
「じゃあ、えっと……引き分け、だね」
「それ、なんか優真っぽい。お互い、最低な男を好きになっちゃったね」
「優真くんは、最低じゃないよ」
「……うん。知ってる。ごめん」
紗代は智菜の手を握り、祈るように目を閉じた。智菜の身体が蛍のような淡い光に包まれる。
異変はすぐに現れた。ベッドの中で脚が動き、細い手が頬に触れる。
「あれ……? あたし、なんで泣いてたんだっけ?」
智菜の目が紗代を見て、続けて不思議そうに病室を見渡す。視線は俺を素通りしてさまよっている。好きな人に気づいてもらえないというのは、なんだか自分が死んだみたいで、死ぬよりも虚しいことだった。
智菜に忘れられた淋しさと智菜の怪我が治った喜びが同時に押し寄せ、種類の違う涙が混ざって流れ落ちた。
俺は床に落ちていたネックレスを拾って、ひっそりと病室を後にした。




