再会
『例の人物を見つけた。直接会って説明させてほしい。いつもの公園で会えないか?』
駅のトイレで顔を洗って歯を磨いた後、電車の中でメッセージを送った。『記憶の魔女』と書かなかったのは誰に履歴を見られても問題ないようにするためで、『いつもの公園』というぼかした言い回しをしたのは、『紗代』とも『野々村』とも呼ぶわけにはいかなかったからだ。記憶を取り戻したことを仄めかして警戒されてもいけないし、記憶を取り戻したからには『野々村』なんて他人行儀な呼び方はしたくない。脛の痛みが俺を冷静にしてくれていた。
そういえばRINEの最初の『友だち』を俺にしてくれるって言ってたんだよな、と思い出して、乾いた笑いがこぼれた。たくさんの約束を破って、破らせてしまった。自分でも許せないのに、紗代は許してくれるだろうか。
一分ほどで『分かった』と返事が来た。一時間後の夜七時に会う約束をした。
公園に着いた頃には辺りはすっぽりと闇に包まれていた。どこか遠くで喧嘩する猫の鳴き声が聞こえる。あれはもしかしたら紗代が先月に助けた白猫かもしれない。あるいは、一年前の黒い仔猫かもしれない。二匹とも元気でいますようにと、俺は密かに祈りを捧げた。
紗代はベンチに座ってじっと俯いていた。制服のまま、何時間もそこに座っていたように見えた。外灯が世界をそこだけ繰り抜いたように照らしている。周りには誰もいない。紗代が見ていた世界そのもののように思えて、息が苦しくなった。
自分を鼓舞するように、わざと足音を鳴らして近づいていく。外灯が作る円に入ると、水中に潜ったように猫の鳴き声が遠ざかった気がした。
「お待たせ」
俺の声に紗代が顔を上げる。瞳は暗く濁り、表情は人形のように硬く冷たい。この顔を見て今まで何も思わなかった自分が憎かった。
笑いかけようと無理やり口角を上げたら、瞼が痙攣して涙がこぼれた。鼻の奥がつんと痛い。喉がつかえたように息苦しい。泣くなよバカ。泣きたいのはお前じゃないだろ。
紗代は不安そうに眉を寄せ、躊躇いがちに口を開く。
「どうしたの……?」
自分を裏切った男の心配をするなんて優しいにもほどがある。そういうところが心配で、放っておけなくて、愛おしく思うのだ。
何から話そうか迷ったが、すぐに考えることを放棄した。別に言い訳がしたいわけじゃない。伝えたいことを伝えよう。去年の俺はそうだったじゃないか。
「紗代」
名前を呼ぶと紗代はぴくっと肩を震わせ、小さく息を吸い込んだ。
「皆月、くん……?」
「もう、下の名前で呼ぶのは難しいか?」
「え……?」
紗代の瞳が外灯を反射して揺らめいた。涙の膜の奥に、微かに、光が灯った。
「俺、記憶の魔女に会って記憶を取り戻したよ。全部思い出した。紗代と付き合っていたことも、紗代を大切に想っていたことも、紗代に身も心も捧げていたことも、全部」
その場で膝立ちになり、紗代の顔を正面から見据える。何度も触れた頬を、何度もキスした唇を、何度も覗き込んだ瞳を、取り戻したばかりの記憶と照らし合わせるように、じっと見つめた。紗代は固まったまま動かない。俺が見たいのはこんな悲しそうな表情じゃない。控えめだけど幸せそうな、あの笑顔が見たいのだ。
もう一度笑ってもらうために、俺は自分の罪を言葉にする。
「紗代、ごめん。俺は浮気をした。紗代以外の誰も好きにならないって言ったのに、紗代だけを一生大切にするって誓ったのに、それを噓にしてしまった。紗代が傷つくとも知らずにひどいこともたくさん言った。許されないことだと思うし、俺も俺自身を許せない。それでも言うよ。――紗代、どうか俺を許してほしい」
地面に額をつけるように深く頭を下げた。こんなことで許してもらえるなんて思っていない。師匠も、浮気した相手は何があっても絶対に許しちゃいけない、そいつはもう人間じゃない、感情を動かす価値のない汚らわしいゴミクズだと言っていた。その通りだと思う。それでも、俺にはこれ以外の方法を思いつくことができなかった。
長い沈黙が続いた。このまま夜が明けてしまうのではないかと思うほどの、長い長い沈黙だった。
やがて、震えた声が降ってきた。
「わ、わたしが……っ」
顔を上げると、紗代はスカートを握り締めて、静かに涙を流していた。
「わたしが許したら、優真くんは、どうするの……?」
質問の意図が読めずに戸惑っていると、紗代は過呼吸寸前の乱れた息で続けた。
「優真くんは、白崎さんのところに、行っちゃうの……?」
ああ、やっぱり俺はバカだ。伝える順番を間違えた。
「俺は紗代と一緒にいたいんだ。たとえ紗代が許してくれなくても智菜とはちゃんと別れるし、紗代以外の誰とも付き合わない。俺の彼女は紗代だけだよ」
え、という顔をして紗代が大きく瞬きをする。そのたびに涙の雫がぽろぽろと落ちた。
「白崎さんと、別れるの……?」
「付き合っちゃいけないのに付き合っちゃったんだから、そりゃ別れるよ。このままだと二股になっちゃうだろ」
「でも、白崎さんの方が、美人で、可愛くて、明るくて……おっぱいも、大きくて……」
「世界中の誰と比べても紗代が一番だよ。俺は、紗代の笑った顔が世界で一番好きだ」
「わたしのこと、何とも思ってないんじゃなかったの……?」
「信じてもらえないかもしれないけど、あれは売り言葉に買い言葉っていうか、意地を張って吐いた噓だ。本当はとっくに紗代のことを好きになっていて、どうしたらいいか分からなくなっていた。紗代以外の誰も好きにならない、っていうのは噓になっちゃったけど、記憶をなくしても、やっぱり俺は、また紗代を好きになっていたんだよ」
だから、と濡れた瞳を見つめて告げる。
「紗代。もう一度、俺を紗代の彼氏にしてほしい」
紗代は両手で顔を覆ってしまった。そのまま、ゆるゆると首を振る。
「どうして、そんなこと言うの……?」
無理か。無理だよな。でも、それでは困るんだ。
「俺のこと、嫌いになっちゃったか?」
「違うよ」
「他の人と付き合ったから、汚いとか、気持ち悪いって思うか?」
「違う」
「じゃあ、俺のことが許せないか?」
「違う。優真くんが悪いわけじゃないって、分かってる」
「それでも……やっぱり、もう一度付き合うのは難しいか?」
「無理だよ」
「どうして?」
紗代の手が顔から離れる。大粒の涙が次から次へと溢れ、白い頬を転がり落ちていく。薄い唇がわなないているが、開いては閉じてを繰り返し、一向に言葉になる気配はない。
口を噤んで待っていると、おもむろに紗代が立ち上がり、こちらに倒れ込んできた。足に力を込めて胸板だけで受け止める。思わず伸びた手が中途半端な位置で静止した。
俺の首にしがみついて、紗代は泣きながら叫んだ。
「だって、わたしっ、優真くんと別れてない……!」
自分に呆れて溜め息が漏れた。
そうだ。俺が紗代を忘れていた間も、紗代は俺を彼氏だと思ってくれていた。紗代にとって、俺が彼氏じゃなくなったときなんて存在しなかった。別れていないのだから、もう一度付き合うなんて無理に決まっている。
宙でさまよわせていた手を紗代の背中に回した。紗代は体温が高くて、ぽかぽかして気持ちがいい。それから、スズランのような優しい香りがする。懐かしい抱き心地に、ああ、紗代だ、と当たり前のことを感じた。
「紗代、ありがとう。それから、つらい思いをさせてごめん。本当にごめん」
「うん……」
「もう二度とこんな思いはさせないから。埋め合わせじゃないけど、これからたくさん笑顔にさせるから」
「うん……」
「紗代、好きだよ。愛してる」
「うんっ……!」
紗代が俺の腕の中でわんわん泣いて、俺も呼吸するたびに涙を落とした。近隣の住民が様子を見に来ても、構わずそうしていた。
互いに落ち着くのを待って、俺は立ち上がった。
「紗代、お願いだ。智菜を治してほしい。俺はもう智菜の彼氏ではなくなるけど、智菜にもちゃんと幸せになってほしいんだ」
紗代は無言で、しかし強く、頷いてくれた。
俺はこれから、してはいけなかった恋を終わらせに行く。
記憶を失くしていたとはいえ、俺は彼女がいるのに智菜と付き合ってしまった。信じてくれていた智菜を裏切った。絶対に許されない、最低なことをしてしまったのだ。
きっと智菜は怒るだろう。ブチ切れて泣き喚くだろう。その全部を受け止めるつもりでいた。
それが俺への罰だと思うから。




