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走れ

 日記を読み終えた瞬間、フラッシュバックのように様々な光景が脳に溢れ返った。記憶の濁流に溺れ、強烈な目眩(めまい)に襲われる。脳も視界もぐらぐらし、焼けるように熱くて酸っぱいものが喉を駆け上がってきた。


 俺は日記を放り投げて廊下に飛び出した。リビングを出てすぐ左にある扉を開け、便器に顔を突っ込む。その勢いのまま嘔吐した。


 膨大な記憶を取り戻したことによる酔いのようなものもあったと思う。けれど、そんなことよりも、自分がしたことの事実に身体が拒否反応を起こしていたのだった。


 俺が紗代にした仕打ちを思うと、罪悪感で頭がおかしくなりそうだった。


 俺はすべてを思い出していた。俺が紗代の彼氏だったことも、初めてのキスも初めてのセックスも紗代とだったことも、そのときの温もりも、そのときに紗代を生涯を懸けて愛すると誓い、紗代と結婚したいと願ったことも、紗代以外の誰も好きにならないと約束したことも、記憶をなくしてもまた紗代を好きになると告げたことも、全部。


 なのに、俺はそれを忘れて紗代を裏切った。俺の命を救ってくれた人を、誰よりも深く愛していた人を、この手で傷つけつづけていた。


 吐き気は止まらず、胃液が逆流し、喉をひりひりと溶かしていった。臭くて酸っぱいものが口からこぼれ、便器の中に溜まっていく。つんとする臭いに目が沁みて、視界がぐにゃりと歪んで、それでようやく、自分が泣いていることに気がついた。


 俺に泣く権利なんてないのに、涙が止まらない。


 自分のことが許せなかった。

 殺したいほど憎いと思った。

 死ねよ。死ね。死んじまえ。


『誰とも親しくするつもりはありません。わたしのことは放っておいてください』


 自己紹介のあの発言の意味がようやく分かった。紗代はあれを俺に向けて言っていたのだ。


 何が『視力は2.0です』だ、ふざけんな。へらへらしてんじゃねえよ。その隣で紗代がどんな顔をしていたと思ってんだ。


『笑っていた方がいい』? 『野々村が笑ってくれたら嬉しい』? お前が笑えなくさせたんだろ。お前のせいで紗代が笑えなくなったんだろ。


 紗代が泣いている間、何をしていたか分かってるのか? 別の彼女を作って、キスして、セックスしてたんだぞ。紗代がいなかったことにするように、全部を上書きするように、同じ場所でファーストキスをして、同じ場所で待ち合わせして、同じものを贈っていたんだぞ。


 お前は智菜に紗代のことを好きじゃないのかと訊かれて、『好きじゃないよ。恋愛感情なんかない』と答えたんだ。『何とも思ってない』と明言したんだ。


 初めての彼女である紗代に、智菜が『初めての彼女』であると、智菜を『一生大切にしたい』と、智菜と『結婚したい』と伝えたんだ。


 それだけは言っちゃいけない言葉を、真剣な顔をして、何の躊躇(ためら)いもなく紗代にぶつけたんだ。


 そんなの、許せるわけないだろ。許されるわけないだろ。


 自分のバカさ加減に嫌気が差す。


 持ち歩いている財布が誰から貰ったものか考えれば違和感に気づけたのに。スマホの電話帳や着信履歴を見れば『野々村紗代』の名前があったのに。机の引き出しの奥に紗代から貰った手紙が入っていたのに。


 水上が俺を遠ざけようとしていたことも、姉ちゃんの言葉も、診断の魔女が俺を仁と同じように扱ったことも、全部ヒントになっていたのに、何も気づかず、気づこうとすらせず、のうのうと生活していた。


 バカで、無神経で、最低な俺に、紗代の彼氏を名乗る資格はないのかもしれない。


 それでも……俺は紗代に会いたかった。紗代のことが好きで、大切だから、その気持ちを思い出したから、会いたいと望まずにはいられなかった。


 口を拭って水を流し、トイレを出た。空腹感でふらふらしていたが、意識だけはやけにはっきりしていた。


 リビングに戻ると水上と石倉さんが気の毒そうな顔で俺を出迎えた。


「トイレで吐かせてもらいました。汚してすみません」


 俺が頭を下げると、石倉さんは鼻で笑って手を振った。


「若いね。大学生になったら分かると思うけど、ゲロなんて全然普通のことだから。スッキリした?」

「まあ……はい」

「それはよかった。記憶を流し込まれるとさ、まともなやつほどまともじゃいられなくなるんだよね。壊れなかっただけ上出来だよ」


 俺が壊れていないと言えるのかは分からない。姉ちゃんがしたようなつらい思いを紗代にさせたのだ。また笑うことができるのか、自信がなかった。


「一応訊くけど、記憶は消さなくていい?」

「消さないでください」


 即答した。紗代との想い出はもちろん、紗代を傷つけたことも、俺はこの胸に刻まなければいけない。それが俺なりのけじめだった。


 そう、と石倉さんはどこか満足そうに頷いた。


「わたしの役目は終わったね。ほら、さっさと帰りな」

「……本当に、ありがとうございました」


 鞄を持ち、水上とともにリビングを出ようとする。その寸前で思い出し、俺は慌てて声を投げた。


「あの、また来てもいいですか?」


 石倉さんは明らかに迷惑そうな顔をした。


「何をしに?」

「もちろん、記憶を取り戻してもらいに」

「誰の?」

「俺と同じような人です。元はそのためにあなたを探していました」

「めんどいなあ」


 石倉さんは電子タバコを吸って、溜め息とともに煙を吐き出した。けれど、嫌とは言わなかった。


 俺はもう一度頭を下げて部屋を後にした。


 外に出ると夕陽には暗い色が(にじ)んでいた。防音に優れているのか、マンションの廊下は何の音も聞こえず、しんと静まり返っている。水上も何も喋らない。影のようにぴったりと俺の背後に付いてくる。

 中庭に入ったところで、俺は水上を振り返った。


「水上、ありがとう」

「……何が?」


 ぶっきら棒な声が返ってきた。彼女の視線は噴水に注がれている。

 俺は前に向き直り、独り言のように続けた。


「紗代を守ってくれたことだよ。記憶の魔女を餌にして思い留まらせてくれた。紗代から俺の記憶を消すつもりなんてなくて、紗代より先に記憶の魔女を見つけて、俺の記憶を取り戻させるつもりだったんだろ?」

「少しはバカじゃなくなったみたいね」

「水上がいなかったら、俺は紗代に記憶の魔女の居場所を教えていたところだった」

「紗代は白崎の怪我を治したら、記憶の魔女に白崎の記憶を戻してもらって、自分からは皆月の記憶を消すつもりだったんだと思う」

「うん、俺もそう思う。それで、俺はそのうち紗代から貰った手紙を見つけて、死ぬほど後悔していた」


 死ぬほど、というのは大袈裟かもしれない。記憶がないままだったら、え、なんで、で終わっていた可能性もある。俺が今、ちゃんと〝死にたい〟と思えるのは、記憶が戻ったお陰なのだ。


 俺は立ち止まって、今度はきちんと頭を下げた。


「水上、本当にありがとう。水上は俺の恩人だ」

「そういうのいいって言ってるでしょ。うざい」


 顔を上げて見てみれば、水上はそっぽを向いて前髪をいじっていた。本当に素直じゃない。

 そのまま、水上は口を開く。


「訊いてもいい?」

「ああ。何でも答える」

「紗代のことはどうするの?」

「会って謝る。謝っても許されないことをしたってのは分かってるけど、許してもらえるまで謝るよ」

「復縁するってこと?」

「してもらえるように頑張る」

「白崎は?」

「別れるよ」


 自分でも驚くくらい自然にその言葉が出た。


 師匠は『先に付き合っていた方を優先する』と俺に言った。俺が先に付き合っていたのは紗代で、最初の彼女も紗代だ。だから、紗代を選ぶのは当然のこと。


 でも、それだけではなくて、そんな理屈なんかじゃなくて、本当の理由は俺が紗代を愛しているからだった。高校生の分際で愛なんて語ったら笑われてしまいそうだけど、誰に笑われたって構わないと思えるくらい、俺は紗代を愛していた。積み重ねて形になった愛を感じていた。


 智菜のことも好きだし、愛おしいと思ったのは紛れもない事実だけど、何の抵抗もなく「愛してる」と言えるのは紗代の方なのだ。紗代は俺の心と身体の一部になっていて、切り離すことができない。だから、俺は紗代がいないと生きていけない。紗代もたぶん、俺がいないと生きていけない。でも、智菜ならきっと誰とでもうまくやっていける。そういうほんの少しの、それでいて決定的な差がそこにはあった。


「もう一つ質問」


 水上はまっすぐと、試すような目で俺を見上げた。


「紗代が『一緒に死のう』って言ったらどうする?」


 それは願ってもない話だ。俺もちょうど死にたいくらい自分を責めている。一緒に死んでくれたら許してあげる、なんて言われたら、喜んで死ねる。


 でも、それじゃ駄目なんだ。それは〝いい男〟のすることじゃないし、〝紗代の彼氏〟が取るべき行動でもない。


 俺は穏やかな気持ちで答えた。


()めるよ。もう二度とそんなこと言わせないくらい幸せにするって約束して、止める」

「合格」


 言葉と同時に蹴りが飛んできた。脛にクリーンヒット。電流が走り抜けて身体が硬直する。悲鳴は歯を食い縛って(こら)えた。


「分かってるなら紗代にそんな暗い顔見せないでよね」

「わ、分かった」

「〝分かった〟? だったら、なんでこんなところでぐずぐずしてるのよ! さっさと行け、バカ!」


 水上にもう一度同じところを蹴られ、俺は片脚でぴょんぴょん跳ねながら中庭を飛び出した。


 ロビーのガラス戸に反射する不恰好な自分を見たら笑えてきた。そうだよな、俺が笑わないで紗代を笑わせられるかよ、と思えるようになった。


 鞄を担ぎ直し、紗代のもとへ駆け出した。

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