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偉大なる師匠

 俺には人生の師として仰いでいる人がいる。それが姉ちゃんだ。なぜ姉ちゃんが人生の師なのか。理由は単純、姉ちゃんが「わたしを人生の師として仰ぎなさい」と言ったからだ。その日から姉ちゃんは俺の姉ちゃんであり、人生の師匠となった。


 姉ちゃんがそんなことを言い出したのは八年前の冬、俺が小学校三年生で、姉ちゃんが中学校一年生のときである。その日、姉ちゃんはぐずぐずに泣き腫らした顔で帰ってきた。雪が降る中を傘も差さずに歩いてきたせいで、全身で泣いているように見えた。

 涙の理由は失恋だった。しかも、片想いの相手に振られたとか、そういう可愛らしいものではない。姉ちゃんは付き合っていた三年生の先輩の浮気現場に遭遇し、大した説明もなく捨てられたのだった。

 悔しい、悔しいと姉ちゃんは恨みを込めた声で呟きつづけた。初めてを捧げた初めての彼氏に裏切られた。しかも、彼氏を取った相手は親しくしていた先輩だったという。当時の俺にはその苦しみがどれほどのものかうまく想像できなかったが、仲のいい姉ちゃんが死にそうなくらい悲しんでいる姿に胸が痛んだ。姉ちゃんを泣かせたその男をぶん殴ってやりたかった。

 このまま自殺してしまうんじゃないかと心配していたが、姉ちゃんは強い人だった。三日後に立ち直り、俺の頬をぎゅっと両手で挟んで例の台詞を口にした。


「わたしを人生の師として仰ぎなさい」


 俺はよくしっかりしているとか、大人びているとか言われる。けれど、実際はそんなことはない。姉ちゃんに人生の師として仰げと言われれば従い、オタクくんに『オタクくん』と呼んでくれと頼まれればその通りにする。流されやすいへなちょこなのだ。


 姉ちゃんの目的は俺を〝いい男〟に育てることだった。男性不信に陥ってもおかしくない状況に直面した結果、自分を保つために、すべての男がそうではないという実例を作ろうとしたのだ。

「いい男になりなさい」と姉ちゃんは言うが、〝いい男〟の定義が何なのかは知らない。具体例はと訊ねてみたところ、明智光秀の名前が挙げられた。本能寺の変で謀反を起こした裏切り者ではないかと思ったが、調べてみると大変な愛妻家だったと知った。現代で言えば、恐らく、彼女が自慢できるような彼氏であり、彼女を大切にし、彼女を満足させ、彼女を裏切ることがない、精神的に成熟した男、なのだと思う。


 姉ちゃんは母さんを説得したそうで、早速、家族総出の『皆月優真改造プログラム』が始まった。まずは見た目。焦点が当てられたのは髪型、服装、スキンケア、身長の四つ。散髪は千円カットの床屋から美容院に変更され、ファッション雑誌を読まされ、洗顔料は泡タイプのもの、洗顔後は化粧水を使うことを強要され、毎日牛乳とにぼしを摂取することを義務づけられた。小学生女子は足が速い男が好きと相場が決まっている、という理由から駆けっこのトレーニングもさせられたし、たくさんジャンプすると身長が伸びるからとバレーボールを始めさせられた。そんなことよりゲームをしていたいと思いながらも素直に従ったのは、それで姉ちゃんが元気になってくれるなら、という想いからだった。


 肉体改造の基盤が出来上がると、次は恋愛面のレッスンに進んだ。指導方針は至極単純で、とにかく女に慣れろ、というもの。そんなことに付き合ってくれる女友達はいないので、相手は姉ちゃんがしてくれた。

 週末になると姉ちゃんは俺を練習デートに連れていって、彼氏の振る舞いとは何たるかを説いた。彼氏が車道側を歩くとか、服装を褒めるとか、大きな荷物は持ってあげるとか、自然にエスコートするとか、店員さんにも礼儀正しくするとか、移動する前にはお手洗いは大丈夫か訊くとか、帰宅した後も連絡を取るとか、長文のメッセージは送らないとか。そういったどこの誰が決めたか分からない作法を、実践形式で教えてくれた。マナーの観点では、姉ちゃんと姉ちゃんの友達の愚痴を散々聞かされたことも大きな学びになっていたと思う。世の男たちが反面教師になってくれたお陰で、何をしたらいけないのかが分かるようになった。


 ときにはさすがにやりすぎだと思うこともあった。俺が小学校五年生になると、姉ちゃんは「精通した?」と訊いてきて、俺が答えられないでいるうちにUSBメモリを押しつけてきた。「絶対に外に持ち出さず、お父さんとお母さんがいないときに観なさい」などと言うから嫌な予感はしていたが、案の定、中身はアダルトビデオだった。もちろん十八禁である。データは二つ。一つは女性用AVで、がっつりとした濡れ場があるドラマのようなもの。もう一つは『早漏改善射精コントロール』という、タイトルから察せられる通りの代物だった。これを実の姉から渡される俺の気持ちも考えてほしい。


 立場が人を作ることを証明した心理学実験がある。被験者を監獄の囚人役と看守役に分けてそれぞれの役割を演じさせたところ、看守役が囚人役に見るも堪えないような残虐なことをするようになったという。会話の流れは忘れたが、オタクくんがそんなことを語っていた。


 姉ちゃんも〝師匠〟という立場によって変わったのだと思う。少し前まではおやつのプリン一つで喧嘩していたのに、師匠は弟子を可愛がるものだからとケーキですら譲ってくれるようになった。そして俺も、弟子として師匠の言うことは守ろうと思うようになっていった。


 ただ、守らなかった言いつけもある。それが「付き合えるときに付き合いなさい」というもの。

 姉ちゃんの調べによると、男が学生時代に後悔すること第一位は〝あの子は絶対俺のことが好きだったのにどうして付き合っておかなかったんだろう〟なのだそうだ。顔も身体も関係ない。いい子なら付き合っておきなさい。経験を積んで成長しなさい。それが姉ちゃんの教えだった。


 姉ちゃんの指導の甲斐あって、俺は少しだけモテた。小学校卒業のときには三人の女子から手紙を貰い、中学校時代には四人の女子にデートのお誘いを受けた。自意識過剰だとしたら恥ずかしいが、他にも、あ、この子は絶対俺のことが好きだな、と思うことが五回あった。


 それでも付き合おうと思えなかったのには理由がある。誰にも言えない、黒歴史的な理由が。

 俺には理想の女性像というものがあった。具体的に誰かというと、姉ちゃんである。立場が人を、の話の通り、俺は姉ちゃんの彼氏役を演じつづけた影響で、姉ちゃんのような人と付き合いたいと願うようになってしまっていたのだ。


 初めて付き合う相手は本当に好きになった人がいい。とりあえず付き合ってみるなんて誠実ではないし、何よりそれは〝いい男〟がすることではない。そんなガキっぽいことを考えた俺だったのだが、中学時代に〝姉ちゃんのような人〟はいなかった。強くて優しい四つ上の女性が同じ学校にいるはずもないのだから当然のことだった。


 俺が最初に付き合った人と結婚することを夢見るようになったのも姉ちゃんの思想が影響している。

 男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる生き物らしい。ちょっと欲張りな姉ちゃんはその両方を求め、恋人の最初で最後の女になろうと決意していた。平たく言うと、自分以外の女を知らない彼氏が欲しかったようだ。


 俺は師匠の弟子として、師匠の理想を体現した男になりたかった。最初に付き合った人と結婚すれば、彼女は俺の最初で最後の女になる。それこそ〝いい男〟のように思えた。


 智菜と付き合うことを決めたのも、この人となら結婚できると思ったからだ。智菜は見た目も性格も〝いい女〟だし、一緒にいて楽しい。最も許せないことが浮気という価値観も共通している。家庭を築いたら毎日笑顔でいられると思う。高校生で結婚を考えるなんて重いかもしれないが、俺にとっては譲れない条件だった。


 なお、今はもう姉ちゃんを理想とはしていない。なんというか、呆れてしまったというのが主な理由だ。姉ちゃんは恋人の最初で最後の女になることを目指し、大学に入ってからの二年間で交際経験のない七人の男と付き合い、その誰ともうまくいかなかった。その結果、『童貞キラー』や『筆下ろしの真紀』などという不名誉な二つ名を得てしまったらしい。酔っ払った姉ちゃんがそうぼやいていた。やるせない話である。


 師匠であり、かつての理想の女性像でもあるそんな姉に、俺は今日、童貞卒業が確約されたことを報告する。

 まだ実感が足りないせいなのか、それとも修行の成果か、一週間後に初体験が迫っているというのに緊張や恐怖は感じられなかった。わくわくが圧倒的に勝っている。俺にとっては姉ちゃんへの報告の方が一大イベントだった。


 夕食後、リビングのソファで横になってスマホで麻雀をしていると姉ちゃんが帰ってきた。かなり酔っているらしく、顔は赤らみ、目をしょぼしょぼとさせていた。


「姉ちゃん、話があるんだけど」


 起き上がると同時にそう切り出した。俺は姉ちゃんのことを普段は『姉ちゃん』と呼び、教えを思い出すときは『師匠』と呼ぶ。

 姉ちゃんは頭が痛そうに固く瞼を閉じた。


「なぁに、優真? 大事な話?」

「そう。大事な話」


 姉ちゃんはハンドバッグを放り投げ、自重に任せるようにどかっと俺の隣に腰を下ろした。手にしていたペットボトルを(あお)るが、どう見ても中身は入っていなかった。


「頭痛い。優真、水取ってきて」


 言われる前には立ち上がり、冷蔵庫に向かっていた。ミネラルウォーターをコップに注ぎ、姉ちゃんに手渡す。姉ちゃんはそれをひと息に飲むと、唸りながら頭を抱えた。


「弟子をこき使うなんて、わたしは師匠失格だ……」

「師匠は弟子をこき使うもんだろ」

「そう? 言われてみればそうかも」


 にへへ、と姉ちゃんが笑う。だらしない笑みだが、そんなところもちょっと可愛い。


「そういえば、〝こき使う〟って、ちょっとエッチじゃない?」


 その発言は聞かなかったことにした。


 ぐでーんと身体を倒し、で、と姉ちゃんが言う。


「大事な話って?」


 今一度周囲を見渡して両親がいないことを確認。背筋を伸ばし、真面目くさった声音を出す。


「実は、来週の月曜日、彼女の家に行くことになりました。ご両親は不在とのことです」


 てっきり祝福の言葉を貰えるものとばかり思っていたのだが、姉ちゃんの反応は淡泊だった。


「ふうん。よかったね」

「……それだけ? もっとこう、何かあるだろ?」

「あるわけないでしょ。初めてじゃあるまいし」


 まさか姉ちゃんにまでヤリチンだと勘違いされているとは思わなかった。

 咳払いを挟んで告げる。


「姉ちゃん――いや、師匠。俺、まだ童貞なんですよ」

「優真が童貞ならわたしだって処女よ」


 駄目だ。話が通じない。酔っているときに話すんじゃなかった。

 ふと、俺は知らないうちに『童貞キラー』の餌食になっているんじゃないかという恐ろしい考えが浮かんでしまった。だとしたらたしかに童貞ではない。まさかそんな、とは思うものの、恐くて訊けない。


「優真、抱っこ」


 ほら、こういうこと言ってくるし。

 言われた通りにする俺もどうかと思いながら、お姫様抱っこをして部屋へと運ぶ。昔は姉ちゃんを見上げていたのに、今では俺の方が頭一つ分以上大きくなってしまった。姉ちゃんは細くて軽い。この華奢な身体に強さと優しさがいっぱい詰まっている。強くて優しくて傷つきやすい姉ちゃんだから、幸せになってくれたらいいと思う。


 ベッドに下ろすと姉ちゃんは万歳をした。何のサインなのかは不明。


「あーあ。優真が弟じゃなかったらよかったのに」


 俺も姉ちゃんが姉ちゃんじゃなかったらよかったのにって、思ったことがあったよ。

 でも、今は彼女がいるから、冗談でもそんなことは言えないんだ。この先何があっても、初めてできた彼女を大切にしたいんだ。


 心の中だけでそう返して、俺はそっと部屋を後にした。

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