プチデート
オタクくんに言った今日の予定とは、智菜とプチデートをすることだった。
智菜が所属しているチアリーディング部は月曜日が休養日になっている。練習はなかなかにハードなものらしく、「めっちゃ汗搔くし、前髪なくなるから部活の後は絶対に会わない」と智菜が言うので、俺が学校に残っていたとしても下校をともにできるのはこの日だけ。休養日に感謝である。
智菜との出逢いは運命的――とまでは言わないまでも、なかなかにドラマチックなものだった。端的に言うと、無茶をして死にかけたところを彼女に助けてもらったのだ。面識もなかった俺のために救急車を呼び、一緒に乗ってくれて、目覚めるまで付き添ってくれていた。まあ、そんなことをされたら好きになっちゃうわけですよ。
それがおよそ二ヶ月前、まだぎりぎり高校一年生だったときのことだ。春休み中に二回のデートを経て、俺から告白して正式に付き合うことになった。交際一ヶ月半。世間で言うところの〝一番楽しい時期〟である。実際、めっちゃ楽しい。授業中にこっそりRINEして、夜は寝落ちするまで通話して、一緒に買い物に行き、映画を観に行き、カラオケに行ったときにはハグをして、キスをする。そんなありきたりな、けれどほどほどに幸せな交際が続いていた。
智菜の休養日、つまり毎週月曜日は、隣駅の喫茶店かファストフード店でお喋りし、部活終わりの生徒と被らない時間帯を狙って帰路に着くのが恒例だ。店に行くときも別行動で、現地で合流する。一緒にいるところを見られて茶化されるのが面倒、というのもあるが、この関係は学校というコミュニティの外のもので、明確な線引きをしておきたいというのが主な理由だ。まあ、これも師匠の受け売りに過ぎないのだけど。
カフェチェーン店でアイスティーを頼んで席に着く。スマホをいじりながら待っていると、十分ほどで智菜が現れた。緑と白の縞模様の飲み物が入ったプラカップを片手にきょろきょろしている。こっちこっち、と声に出さずに手招きすると、気づくなり彼女はぱっと笑顔を咲かせた。うーん。ちょっとイラつくくらい可愛い。
「ごめーん。待った?」
「いいや。今来たとこ」
「くふふ。いいね、そういうの。彼氏っぽい」
「〝ぽい〟んじゃなくて、彼氏なんですけどね」
「知ってますー」
智菜がスツールを引いて俺の対面に腰掛ける。すぐ近くの窓からこぼれる陽光が、ちょうど俺たちだけを照らしているように見えた。
緑と白の縞模様の飲み物はメロンヨーグルンというらしい。「可愛いでしょ?」と言われたが、どこがどう可愛いのかはよく分からなかった。
「あのさ……ごめん」
メロンヨーグルンをひと口含んでから、智菜は呟くように言った。それが昼休みの一件についてであることはすぐに察しがついた。俺もいつ切り出そうか迷っていたのだ。
「優真が喧嘩嫌いなの知ってるのに、ついカッとなっちゃった」
「まあ、絡んだのは俺と仁だから、こっちが悪かったんだけどな」
「優真は悪くないじゃん」
下がっていた眉尻が引っ張られたように吊り上がった。智菜はころころ表情が変わる。
「悪いのは絶対に水上だよ。何なの、あれ。優真は仲良くしようって譲歩してるのに、一方的に突っかかってさ。ほんとムカつく」
「智菜が怒ることないだろ」
「優真が怒らないから代わりにあたしが怒ってるの。それに、彼氏を悪く言われて黙っていられるわけないじゃん」
そう言ってくれるのはありがたいが、その気持ちだけで十分だ。生きていれば誰かには好かれ、誰かには嫌われる。自分ではどうしようもないことに腹を立ててもいいことはない――と師匠が言っていた。俺は平和に暮らせればそれでいい。
「水上も誤解しているだけなんだから、放っておけばいいんだよ。そのうち普通のクラスメートになるって」
「んー、あながち誤解とも言えないけどね」
智菜がプラカップを持ち上げ、ストローをこちらに向ける。飲め、というサインだろう。「ありがとう」と断ってひと口貰う。酸味控えめのヨーグルトが口の中に広がる。微かにメロンの香りがしたが、緑色の部分に当たらなかったのか、あまり味はしなかった。飲み物というよりはシャーベットのようで、ひんやりとしたものが喉を滑り落ちていった。
「そういうとこ」
プラカップを引き戻して智菜が呟く。こちらにジト目を向けていた。そういうところ、とは、どういうところだろうか。
「何が?」
「間接キス」
「は?」
「女慣れしすぎ」
トップコートが塗られた指先がストローを撫でる。なぜか口紅の跡が濃くなったように錯覚した。
「何回もキスしておいて今さらそんなこと言われても」
「まだ四回だよ。それに、初めてキスしたときもなんか平然としてたじゃん。普通に手慣れてた。初彼女とか噓でしょ。いいんだよ、そんな噓つかなくて。あたし、優真がこれまで何人と付き合って、何人と寝てたって気にしないし。あたしだって彼氏がいたことあるんだからさ」
智菜はキスした日を一回とカウントしているらしい。俺の中では余裕で三十回は超えているんですけど。
「本当に智菜が初めての彼女だって。イメージトレーニングだけしてたんだよ」
初めてのキスは海に面したプロムナードのベンチだった。あまり外でそういうことをする気はないのだが、初めてはそこがいいと昔から決めていた。ファンデーションが乗った頬の手触りも、柔らかな唇も、微かに漏れる吐息も、全部よく憶えている。
ドキドキしていたし、ついでに軽く勃起もしていた。ただ、指摘された通り緊張や気後れはしていなかった。きれいとか、可愛いとか思っていただけ。あまりに自然にできてしまって、俺自身少し驚いていた。すべては師匠の指導のお陰である。
「ま、いいけどね。そういうことにしておいてあげる」
智菜が尖らせた唇でストローを咥える。誤解しているのは水上だけではなかったようだ。
機嫌を直してもらおうと、わざと明るい声音を作ってみる。
「じゃあ、この際だから気になっていることを言ってもらいましょうか。〝気に入っていること〟でもいいぞ」
「あ、ある。言いたかったこと」
智菜が思い出したように顔を上げる。どうやらこれは悪手だったらしい。まさか他にも不満があるとは思っていなかった。
俺は細く息を吐き出して姿勢を正した。
「何でしょうか?」
「優真がいつも一緒にいる小さい男子がいるでしょ」
「ああ、オタクくんな」
「その『オタクくん』っていう呼び方やめなよ。イジメてるみたいじゃん」
「いやいや、オタクくんがそう呼んでくれって言ってるんだよ」
「なんで?」
「なんでって言われても……なんでだろうなあ」
半笑いでごまかす。智菜が関係しているとはさすがに言えない。
オタクくんにはちょっとした夢がある。それは、ギャルに『オタクくん』と呼ばれること。「オタクに優しいギャルが実在しないのは仕方ないよ。でも、オタクを『オタクくん』と呼ぶギャルはいてもいいじゃないか」などと嘆いていた。そこでターゲットにされたのが、彼の中ではギャルらしい俺の彼女だ。彼氏の俺が『オタクくん』と呼びつづけることで、智菜もいずれ『オタクくん』と呼ぶようになる算段なのだとか。何言ってるんだこいつ、と思ったが、本人が望んでいるのであればと協力している。
しかし、肝心の智菜がこの調子だとオタクくんの〝ちょっとした夢〟が叶う日は永遠に来ないかもしれない。ドンマイ、オタクくん。
会話はそこからお悩み相談コーナーに転じた。これ幸いと聞き手に回る。
智菜の悩みはだいたいが部活のことだ。お陰で俺もチアリーディング部の事情に詳しくなってしまった。
智菜は小学校五年生から中学校二年生までダンスを習っていたという。元はダンス部に入るつもりだったそうだが、髪は黒指定、恋愛禁止、体育会系なのに地味な感じの人が多い、などの要素に「なんか違う」と感じ、同じ中学出身の樋口の誘いでチアリーディング部に路線変更した。チアリーディング部の部員は智菜を含めて十二人。先輩が熱心な人で練習はけっこう厳しい。夏の大会で三年生が引退するため、今はさらに熱が入っている、とのこと。野球部やサッカー部の応援でポンポンを振っている姿を想像していた俺には、大会が存在することも初耳だった。
「それでさ、そろそろ大技も取り入れたいって話になってるんだけど、コーチがいないからやめた方がいいってあたしは言ってるの。先輩は、『これまでも自分たちだけでやって来たんだし大丈夫、大会ならこれくらいできないと』とか言って聞いてくれなくて」
過去の俺に言ってやりたいのだが、チアリーディングがポンポンを振るだけだと思ったら大間違いだ。ダンススポーツであり、アクロバティックな組み体操もする〝魅せる競技〟なのである。
「スタンツだっけ? 手の上に乗る感じで持ち上げられるんだろ?」
「スタンツはやってる。やろうとしてるのはそこから宙返りする技なんだよね」
それはまあ、危ないでしょうね。
「先生は止めないのか?」
「顧問の先生は名前借りているだけみたいな感じだから、チアのこと全然知らないんだ。『大丈夫なんだ? じゃあ大丈夫なんだね』って言うだけ。何かあったら自分の責任になるって分かってないんだよ。ほんとにバカ」
ずぞぞ、と音を立てて智菜がメロンヨーグルンを吸い上げる。顧問に聞こえていたらいい、という態度だった。
「ねえ、優真ならなんて説得する?」
「聞く耳を持っていないんじゃ説得は無理なんじゃないか? まあ、するとしたら先生の方だな」
「だからどうやって?」
「何かあったら大変ですよ、だからコーチを探しましょうよって」
「コーチって簡単に見つかるの? お金だって掛かるんでしょ?」
「まあ、調べてみるよ」
調べても分からなかったときはオタクくんに頼ろう。クリエイターを目指しているだけあってオタクくんは博識なのだ。
「言っとくけど、エロオヤジは嫌だからね」
「はいはい」
「『はい』は一回」
時計を見れば六時の十分前。下校する生徒も少ない時間帯だ。ちょうど飲み物も空になっている。
どちらからともなく立ち上がり、店を出る。乗り換えの駅まで一緒に電車に乗り、ホームで別れるのがいつもの流れだ。
駅に向かう途中、隣を歩く智菜が指を絡めてきた。俺も智菜と手を繋ぐのは好きだが、制服のときにこういうことをするのはやめてほしい。いつも言っているのに全然聞いてくれない。
「ねえ優真、明後日の放課後は空いてる? 部長が補習になって、その日は自主練ってことになったんだよね。だからデートできるんだけど」
「悪い。明後日は予定がある」
む、と唇を曲げ、手に力を込める智菜。爪が食い込んで痛い。
「彼女よりも優先する予定って何ですかねえ?」
「仁とオタクくんと出掛けるんだよ。約束したから無理」
「あたしも行っていい?」
「いいわけないだろ」
智菜の足がぴたりと止まり、腕が後ろに引っ張られた。見れば、心なしか視線が鋭くなっている。
いつもより低い声で智菜が言う。
「女でしょ?」
どきりとした。目が泳ぎそうになり、瞬きでごまかす。
「なんでそうなるんだ? 男三人って言ってるだろ」
「女の勘。〝遊びに行く〟んじゃなくて〝出掛ける〟っていうのも変だし、なんか女絡みな気がする。何しに行くか正直に言って」
かなり迷ったが、結局白状してしまうことにした。後をつけられてもかなわない。冗談ではなく、智菜なら本当にやりそうだった。
一応、表現を変えて説明する。
「オタクくんの頼みで野々村の生態調査をすることになったんだ。俺と仁はあくまでおまけ。疚しいことは何もない」
ぴくりと智菜の眉が跳ね上がる。依然、表情は険しい。さて、どこまで補足したものか。
智菜はアスファルトを睨むように視線を逸らした。
「野々村さんに近づくのはやめてほしいんだけど」
てっきり〝生態調査〟に引っ掛かったのだと思っていたが、問題はそこではなかったらしい。どうして野々村に反応するのか。〝さん〟付けなのも気になる。
「野々村の悪い噂を聞いたのか? その真偽を確かめるためってだけだから、何も心配するようなことはないぞ」
「そうじゃなくて――」
その先を智菜は口にしなかった。俺の知らないところで二人に何かあったのだろうか。まったく接点がないと思っていたのに。
前髪を払うように頭を振って、智菜は笑みを作った。
「ごめん、何でもない。よく分からないけど頑張って。あ、でも、浮気したら別れるから」
「するわけないだろ」
「くふふ。知ってる」
再び歩き出すも、智菜の歩幅は小さい。手も握ったまま。何か言いたいことがあるのかと待っていると、彼女は背伸びして耳に顔を寄せてきた。
「本当は明後日に話そうと思ってたんだけど、今言うね。――来週の月曜日、お父さんもお母さんも帰りが遅いんだ。家に来てよ」
それが何を意味するか訊くほど俺は野暮ではない。
澄ました顔で深々と頭を下げる。
「喜んで行かせていただきます」
陽射しの温かな五月下旬、俺の卒業が約束された。