六月八日
<日記>
六月八日(土)
昨夜なかなか寝つけなかったせいで寝坊をしてしまいました。起きて時計を見たら十二時です。自分でも聞いたことがないような悲鳴を上げて、お母さんになんで起こしてくれなかったのと理不尽な文句を言って、泣き言を呟きながら急いで支度をして家を飛び出しました。
約束の一時にはなんとか間に合いました。予想していた通り皆月くんは既に来ていて、涼しい顔をして「俺も今来たところ」と言いました。皆月くんは噓つきなので、これも噓だと思います。
皆月くんを待たせてしまったと落ち込んでいたのですが、お気に入りのワンピースとパンプスを褒められたら嬉しくなって、落ち込む余裕もなくなりました。皆月くんといると感情があっちに行ったりこっちに行ったりととても忙しいです。皆月くんはVネックのTシャツにテーラードジャケット、下はスラックスを合わせていて、シンプルなのにすごくカッコよかったです。でも、恥ずかしくて「カッコいい」と言えませんでした。サモエドの皆月くんを相手に練習をしたら言えるようになるのでしょうか。
それから、皆月くんに連れられて近くのサッカースタジアムに行きました。皆月くんのお目当ては広場で開催されているフリーマーケットだったようです。誰か治してほしい人がいるのかな、なんて身構えていた自分を笑って、同時に、ちょっとデートみたいと思ってうきうきしました。
売店でソフトクリームを買って、一緒に食べながら、ブルーシートやテントが張られただけの出店を眺めて歩きました。溢れんばかりの人で賑わっていて、まるでお祭りのようでした。皆月くんは隙あらば商品を見てジョークを言ったり面白い話をしたりして、わたしを笑わせてくれました。どうしてあんなにぽんぽんと言葉が出てくるのか不思議です。わたしはいつもうまく喋れないのでとても尊敬します。
わたしは食べるのが下手みたいで、また「クリームが付いてる」と言われてしまいました。皆月くんがティッシュを取り出して渡そうとしてくれます。それを見て、わたしは受け取ることも拒むこともせずに立ち尽くしていました。オムライスのときのことを思い出して固まってしまったのです。噓ではありません。でも、本当でもありません。心の片隅では、あのときみたいに拭いてくれることを期待していました。
皆月くんは怒りもせず、呆れもせず、ちょっと照れくさそうに唇を曲げて、わたしの口を拭いてくれました。
好きとも言えないくせに、それどころか付き合う資格もないくせに、こんなことをさせるなんてずるくて最低だと自覚しています。それでも、自分を責める気持ちよりも皆月くんへの〝好き〟や喜びが勝ってしまいます。皆月くんを好きになる分だけ自分を嫌いになってしまいそうです。
小学生の女の子がお母さんと一緒に開いている出店で、皆月くんが猫のミニフィギュアを見かけて「これ可愛いな」と言いました。わたしがやったガチャガチャの猫バージョンのもののようです。灰色の毛のブリティッシュショートヘアで、なんだか困っている顔をしていました。皆月くんにプレゼントしたら喜んでくれるかなと思い立って、勢いで購入しました。百円を払うのにこんなに緊張したのは生まれて初めてです。でも、いざ渡そうとしたら、皆月くんが笑って「この猫、野々村に似てるよな」なんて言うので渡せなくなってしまいました。これでプレゼントしたら、わたしだと思って可愛がって、みたいな感じになってしまいます。それはちょっと恥ずかしすぎます。結局、サモエドの皆月くんの隣に並べることにしました。
皆月くんはフリーマーケットで何も買いませんでした。なんでも、欲しいものがあったわけではなく、話のタネを探すのが目的で、極端なことを言うと物ボケのようなことがしたかったそうです。お笑い芸人を目指しているのかな、と思ったら、大間違いでした。
「俺、野々村の笑った顔がめちゃくちゃ好きなんだよ。なんかこう、生きていてよかったって思うくらい幸せになる。だから、まあ、野々村に笑ってほしくて連れてきたんだ」
これはもう告白なのではないでしょうか、とあたふたしていたら、公園に戻ってきたところで改めて告白されました。燃えるような夕陽が世界を眩いオレンジ色に染めていて、わたしと皆月くんの周りでぱちぱちと光が弾けているように見えました。
「野々村のことが好きなんだ。たぶん、野々村以上に誰かのことを好きになることなんてないだろうなってくらい、好き。まずはお試しでもいいから、俺と付き合ってくれませんか?」
大好きな皆月くんに好きと言われて、びっくりして、嬉しくて、けれどどうしたらいいか分からなくて、勝手に涙がこぼれました。
皆月くんは優しくて、面白くて、カッコよくて、わたしなんかじゃ釣り合わない素敵な人です。皆月くんを好きになる人はいっぱいいると思います。春香ちゃんも皆月くんは彼女さんを取っ替え引っ替えしていると言っていましたし、そうでなくても、きっと素敵な彼女さんがいると自分に言い聞かせて諦めていました。
一方で、わたしには何もありません。誰かに好かれるような魅力もなく、自分が好きなものもはっきりしない、空っぽな人間です。
どうしてわたしなの? と訊くと、皆月くんは柔らかい口調で言いました。
「何もないなんてことはないだろ。野々村は魔女の能力でたくさんの人を救っていて、すごいと思うし、尊敬する。だから、野々村は笑うべきで、できれば俺が一番近くでその笑顔を見たいと思ったんだ」
皆月くんには以前、この公園で能力の副作用についてお話ししていました。経過日数次第でどんな怪我も治せる代わりに、その人から一番大切な人の記憶を奪ってしまう、残酷な代償を要求する能力だと。愛する人を治してほしいと頼んできた人が、完治したその人に見向きもされず、深く傷つく姿を何度も目にしてきました。後で破局や離婚という結末を聞かされたことも少なくありません。
それを知っていながら、皆月くんはわたしを尊敬すると、わたしが笑うべきだと言います。
命と引き換えに命よりも大切なものを奪うわたしが、どうして尊敬されるのでしょうか。笑っていい道理がどこにあるのでしょうか。
分からなかったので質問すると、質問を返されてしまいました。
「野々村は誰かに笑うなって言われたのか?」
他人に言われたことはありません。でも、わたしがわたしに笑うなと言ってきます。わたしがわたしを許してくれないのです。
「じゃあ、俺が野々村に笑えって言うよ。それでプラマイゼロというか、引き分けみたいなもんだろ?」
皆月くんらしい変な理屈です。でも、わたしはわたしよりも、皆月くんの言うことを信じたくなっていました。
「いつかは記憶の魔女を見つけ出して、野々村が治した人の一番大切な人の記憶を取り戻せるようにする。野々村が自分を責めないで済むようにしてみせる。ただ、俺がそれまで待てないんだ。好きな人の暗い顔なんて見てられないんだよ」
能力を使った分だけ誰かの〝好き〟を消してきたわたしが、好きな人と一緒になっていいのでしょうか。わたしだけ幸せになろうとすることを、神様は許してくれるのでしょうか。
心の中で訊ねても神様からの返事はありません。そうしている間に、「野々村はどうしたい?」と訊かれてしまいました。
答えは決まっていました。
わたしはありったけの勇気を振り絞って、わたしも皆月くんが好きだと、皆月くんとお付き合いしたいと伝えました。
嬉しい、じゃあ付き合おう、と皆月くんが強引に話を進めようとするので、慌てて待ったを掛けました。途端にしゅんとする皆月くんは、やっぱり大型犬みたいでした。
わたしが魔女であることが悪い人に知られると、わたしも、わたしの親しい人も危険に晒される可能性があります。人質に取られることがないようにと、わたしの家族には密かにボディーガードまで付いているそうです。交際するなら、皆月くんの安全のためにも異能科の職員さんに確認を取る必要がありました。
少しだけ返事を待ってほしいと告げると、皆月くんは何度も頷いて、何度も「待つよ」と言ってくれました。五十年までなら待てるそうです。さっきまで真剣に悩んでいたのに、また笑わされてしまいました。
わたしは、わたしや職員さんや神様が許してくれなくても、頑張って説得して、皆月くんとお付き合いしようと決めました。許してくれないともう能力を使いません、なんて脅し文句を言えそうなくらい強気でした。
皆月くんと別れて家に帰ると、告白されちゃったという実感が急に湧いてきて、心臓が太鼓のようにどんどんどんと鳴りはじめました。玄関で座り込んでいたらお母さんに心配されてしまいました。
明日は魔女の仕事が入っているので、その後で職員さんに交際のことを聞いてみようと思います。
皆月くんなら本当に五十年くらい待ってしまいそうなので、早くお返事をしたいです。そうして……早く皆月くんの彼女になりたいです。




