すべての答え
駅から地図アプリを頼りに道を進んだ。俺が前を歩き、水上がその後に続く。水上が一メートル以上空けるので、尾行されているように居心地が悪かった。
二十分ほど歩いて目的地に辿り着く。『グランド・パトリ』は低層階高級マンションのようで、三階建てと低いながらも、真新しく、立派な佇まいをしていた。石垣の向こうに商社ビルのようなガラス張りの建物が鎮座し、大理石でできたエントランスには何重もの扉が見える。いかにも芸能人が住んでいそうな装いだった。こんなところに引きこもられていたら、自力では何年掛かっても見つけられなかったに違いない。
分厚いガラス戸の横のインターフォンに手を伸ばす。『109』の番号に続いて『呼出』ボタンを押すと、ほどなくして女性の声が返ってきた。
『はい』
張りのある高い声だった。微かに警戒の色が滲んでいるように思える。
ここで追い返されたら元も子もない。俺は真剣だと伝わるように目に力を込めて、ゆっくりと喋った。
「こんにちは。突然すみません。俺は皆月優真といいます。どうしてもあなたの能力を貸してもらいたくて押しかけました」
『能力?』
「俺、記憶をなくしているようなんです。お願いします。助けてください」
しばらく沈黙が続いた。その間、俺は瞬きを堪えてじっとモニターを見つめていた。口の中に唾が溜まっていく。
やがて返ってきたのは、噴き出すような笑い声だった。
『ぷははっ。よく見つけたね、少年。いいよ、ご褒美に話を聞いてあげる。入っておいで』
「ありがとうございます」
呆気なく承諾されたことに驚いた。モニターに額を押しつけるように頭を下げる。とりあえず、第一関門は突破した。いよいよ記憶の魔女に会えると思うと、ぞわぞわと鳥肌が立った。
『そこからあと四回オートロックがあるから同じように呼び出して。顔が見えたら解錠してあげるから挨拶は要らないよ。あ、できるだけ早くしてね』
言い終わるが早いか、エントランスのガラス戸が開く。もう一度礼を告げる前に通信は切れてしまった。
神殿のようなエントランスに入り、ロビーで一回、噴水のある中庭を抜けた先で一回、長い廊下を走った先で一回、109号室の扉の前で一回、インターフォンを押した。迷わずに進んだはずなのに五分も掛かってしまった。
黒塗りの扉を開けて顔を覗かせたのは二十歳前後の若い女性だった。キャミソールにハーフパンツと、下着のような恰好をしている。細長い目と頭の上にふんわりと立つ寝ぐせのせいで猫のように見えた。
「ようこそ、少年と少女。さ、入って」
「お邪魔します」
俺と水上は会釈をしてお姉さんの後に続いた。
廊下の先には教室よりも広いリビングが広がっていた。厨房のような大きなキッチンに、外国の貴族が使うような長テーブル、八人掛けのソファ、壁を埋めるような大型液晶モニターと、あらゆるものが規格外だった。唯一親近感を覚えたのはバルコニーのそばにあるパソコンで、俺もやったことがあるFPSゲームのタイトル画面が表示されていた。
お姉さんは俺と水上をソファに座るように手で促し、その対面にどかりと腰を下ろした。無意識なのか、見もせずに電子タバコに手を伸ばす。悪いお金持ちのお手本みたいな人だ。びびっているのか、水上は借りてきた猫のように身体を縮こませていた。
「お茶とか出した方がいい? 要らないって言ってくれると嬉しいんだけど」
「じゃあ……要りません」
「うん、いい答えだ」
お姉さんは煙を吐き出して微笑む。野々村以外の魔女はみんな変な人なのだろうか。
そう思ってふと、肝心なことを訊いていなかったことに気づいた。
「あの、お姉さんが記憶の魔女なんですよね?」
「政府の人間からはそう呼ばれているね。だけど、わたしの認識は違うんだ。――そういえば自己紹介がまだだったね。わたしは石倉香織。日記の魔女だよ」
「〝日記の魔女〟?」
思わずおうむ返しをすると、石倉さんは喉を鳴らして笑った。
「消えた記憶を取り戻すことはできるから安心していいよ。その方法に日記を使うから『日記の魔女』ってだけ」
「日記がなきゃ駄目なんですか?」
水上が不安そうな顔をして訊ねる。石倉さんは勿体ぶるように時間を置いてから首を振った。
「まあ、説明を聞いてよ。小学生の頃、夏休みに絵日記の宿題ってなかった? わたしには三つ上の姉がいるんだけど、姉はずぼらな性格でさ、夏休みの最終日に絵日記の宿題があったことを思い出したんだよね。母は叱り、姉は泣いてと大騒ぎになった。で、誰かが代わりに書いてあげていたらよかったのに、って思ったときに能力が芽生えたんだ。それが、〝その人が日記を書いていたら〟という仮定を現実にして、存在しない日記を作り出す能力。この日記を共有物にして読み終えるとその記憶が頭に流れ込んでくる。読む人が関連する記憶を失っている場合はちょっと特殊で、読了と同時に日記の内容を自分視点の記憶で取り戻すことになる。本当に日記を書いていても構わないけど、その日記が手元にないと記憶をどうこうする能力は使えない。だから、本物の日記はない方が都合がいいんだ」
石倉さんは電子タバコをひと吸いして、水上に視線を送った。
「少年は記憶がないらしいし、少女から話を聞こうかな。わたしにどうしてほしいのかな?」
水上がソファに座り直す。膝の上で小さな拳がきゅっと握り締められた。
「ご挨拶が遅れてすみません。わたしは水上春香といいます。皆月のクラスメートで、野々村紗代という子の親友です。紗代は魔女で、皆月のために能力を使ったのですが、その代償で皆月から紗代の記憶が消えてしまいました。この記憶を取り戻してほしいんです」
「魔女の情報なんて言ってよかったの?」
「本当は駄目だと思いますけど……それだけ必死なんです」
煙を細く吐き出し、石倉さんは眩しそうに目を細める。
「なるほどね。それなら、魔女の子の『少年に関する日記』を作って少年に読ませれば記憶は戻るはずだよ。ちなみに、少年とその魔女の関係は?」
「付き合ってました」
「過去形なんだ?」
「別れたわけじゃないんですけど、皆月には今、別の彼女がいて……」
「だったら、その記憶は取り戻さない方がいいんじゃない?」
水上は言葉に詰まって俯いた。代わりに俺が答える。
「俺が知りたいんです。自分がどうしていたのかと……それから、野々村のことを」
瞳を覗き込むようにじっと見つめる。石倉さんが首を縦に振るまでこの場を動かないつもりだった。
石倉さんが電子タバコを置いて立ち上がる。そして、一冊のノートを持って戻ってきた。
それを俺に放り投げて、彼女は淡々と話す。
「表紙に『皆月優真日記』というタイトルと『野々村紗代』の名前を書いて、その子の顔を思い浮かべながら手を置いて。わたしがその上に手を乗せたら勝手に文字が刻まれる。記憶を取り戻すには一度も閉じず、最後まで読むことが必要になるから気をつけること。逆に、恐くなったら途中で閉じればいい。――何か質問はある?」
少し頭の中を整理してから口を開く。
「えっと、じゃあ、いくつか」
「ん。どうぞ」
「これってお金が掛かったりしますか? 今、あんまり手持ちがないんですけど……」
「ぷははっ。高校生から巻き上げたりはしないよ。それに、これはわたしを見つけ出したご褒美だからね。特別に無料にしてあげる」
「ありがとうございます」
「他には?」
「記憶の魔女は記憶を消せるって聞いたんですけど、ここでの出来事や思い出したことも消されてしまいますか?」
石倉さんは思案するように目を閉じ、鼻から溜め息を抜いた。
「消さないであげるつもりだけど、約束はできないかな。というのも、能力のデメリットで、作り出した日記を燃やしたり破いたりするとその記憶が消えるんだ。今回の場合で言えば、日記に何かあれば魔女ちゃんと少年の記憶がまとめて削除されることになる。厳重に保管させてもらうけど、そういうリスクがあることは知っておいて」
それでも覚悟はあるか、と石倉さんの目が問いかけてくる。信じなければ前には進めない。俺はその目をまっすぐと見返して頷いた。
鞄からボールペンを取り出し、言われた通りにする。字が汚くなったのは、膝の上で書きづらかったせいだけではないのかもしれない。
これで俺は記憶を取り戻せる。野々村のことを、野々村と何があって、野々村をどう想っていたのかを思い出せる。
目を瞑ると、野々村の控えめに笑った顔と、目を伏せた暗い顔が交互に浮かんだ。彼女が泣いていた理由を、俺はこれから知るのだ。
俺の手の上に冷たい手のひらが重ねられた。不思議なことに、ノートが熱を持つのが分かった。
「できたよ。読んでごらん」
降ってきた声に目を開ける。目の前には石倉さんが立っていた。ノートには何も変わったところはないが、日記の魔女ができたと言うのなら信じるしかない。
石倉さんは元の位置に戻り、思い出したように付け加えた。
「あ、トイレは扉を出てすぐ左だから」
なぜトイレ? と疑問に思ったが、今はそんなことはどうでもいい。
早鐘を打つ鼓動に急かされながら表紙を捲る。そこには野々村らしい丸っこい文字が並んでいた。
日記は五月二十日から始まっていて、中間テストのことや事故に遭った猫のこと、土曜日に俺とばったり出くわしたことや一緒にオムライスを食べに行ったことなどが書かれていた。『好き』という文字に照れくさくなり、野々村はこんなことを考えていたのかと微笑ましい気持ちになる。でも、こんな最近のことを知りたいわけじゃない。俺が知っていることを読まされても何の意味もない。
困惑しながらページを捲り、そこに昨日の日付を見つけて――息が止まった。自分の顔からすとんと表情が抜け落ちるのが分かった。
『六月八日(土)』
今日は六月九日の月曜日。なら、昨日の六月八日は日曜日であるはずだ。それが、土曜日だったことになっている。
水上の言う通りだった。ここまで示されないと気づけないなんて、俺はバカだ。救いようのない大バカだ。
バカな俺は、知らないうちに去年と同じことを繰り返していたのだ。
必死に手の震えを抑えながら、野々村の日記を読み進める。




