交換条件
朝になってスマホを確認すると野々村から返事が届いていた。ひと言、『いいよ』とだけ記されている。もし返事がなかったら陽が暮れるまでベンチに座っているところだったので、これには盛大に安堵した。
俺は野々村に、智菜のことを治してほしいと頼むつもりでいた。智菜は嫌がっていたけれど、智菜のこれからの人生を思うと納得なんてできなかった。病室にこっそり忍び込んででも治してやる。そう決意していた。
電話ではなく会うことを選んだのは、たぶん、自分の気持ちにけじめをつけるためなのだと思う。
智菜という彼女がいることをきちんと話して、野々村を好きでいることをやめたかった。彼女以外の誰かを好きになるなんて許されない。俺は姉ちゃんを裏切った男のようにはならない。智菜が怪我をしたのだって、俺が野々村を好きになってしまったから神様が試すようなことをしたのかもしれない。そんな考えがしこりのように胸に居座っていた。
余裕を持って家を出たら二十分も早く公園に到着してしまった。幼稚園児くらいの小さな子ども三人が砂場で遊んでいて、そのすぐ傍では母親と思しき女性たちが会話に花を咲かせている。ベンチでは小学生の男の子たちがカードゲームに興じていた。俺の存在だけが浮いている。ここはお前が来る場所じゃない、と言われているような気分だった。仕方なく、木陰に入って約束の時間が来るのを待った。
二十分前は早すぎたな、と密かに反省していると、五分経った頃に野々村が現れた。セーラーカラーが付いたワンピース姿だった。視界に入った瞬間に野々村だと気づいて、ああ、やっぱり俺は野々村のことが好きなんだな、と分からされた。
野々村は身体を引きずるような重たい足取りで近づいてきて、俺の目の前で立ち止まった。木の葉の影が俺と野々村の間に境界線を作っていた。
「早いな。まだ十五分前だぞ」
軽い調子で声をかけると、野々村はちらと俺を見上げて、すぐに俯いてしまった。その目が赤く腫れているように見えたのは気のせいだったのかもしれない。見間違いか、ただの寝不足であることを願った。
平坦な口調で仕切り直す。
「来てくれてありがとう、野々村」
野々村は返事をせず、十秒も経ってから足元に言葉を落とした。
「話って、何……?」
俺は決意を固めるように拳を握った。
野々村の旋毛を見つめながら、ゆっくりと語る。
「俺さ、同じクラスの白崎……智菜と付き合ってるんだ。まだ二ヶ月とちょっとだけど、俺の初めての彼女なんだ。俺には最初に付き合った人と結婚したいっていうガキみたいな夢があって、だから、智菜のことを一生大切にしたいと思ってるし、智菜のためなら何だってできる気がするし、結婚したいとも考えてる。――その智菜が部活中の事故で怪我をした。下半身が動かなくなって、一生寝たきりかもしれない。たぶん、普通の医療技術じゃ治せない。だから……お願いだ、野々村。魔女の能力で智菜を治してほしい」
目を瞑って深く頭を下げた。神様にだってこんなには下げないだろうというくらい、深く。
長い沈黙が続いた。閉ざした視界の向こうから、子どもたちのはしゃいだ声やお母さんたちの会話が聞こえてくる。いつの間にか、そこにすすり泣きのようなものが重なっていた。
やがて返ってきた野々村の声は、痛ましいくらいに震えていた。
「……ごめん」
「どうしてだ?」
顔を上げて再び野々村を見つめる。彼女は下を向いたまま。その視線の先を追うように足元を見ると、地面にはぽつぽつと水滴が落ちていた。
ゆるゆると野々村は頭を振った。
「白崎さんが望んでいないなら、わたしには治せない……」
「でも、猫のときは本人の意思なんて関係なかっただろ。やろうと思えばできるんじゃないのか?」
「ごめん……わたしがしたくないの」
「じゃあ智菜を説得する。能力の副作用を教えてくれ。智菜は何に苦しむことになるんだ?」
「それは、言えない。ごめん……」
突然野々村が身を翻し、公園の外へと駆け出す。俺は咄嗟にその手を掴んで引き留めていた。
「待ってくれ。お願いだ。俺にできることなら何でもする。どうしたら智菜を治してくれる?」
野々村は絞り出すような声で答えた。
「記憶の魔女を、見つけてくれたら……」
野々村はずっと記憶の魔女を探していた。交換条件にそれを要求するのは当然のことかもしれない。
でも、実在するかも分からない魔女をどうやって探せというのか。
茫然としているうちに、野々村は俺の手を振り払って走り出してしまった。
俺に残された道はただ一つ、記憶の魔女を見つけ出すことだけだった。
◇
帰宅後、俺は失せものの魔女に『記憶の魔女』と打って送信してみた。
一時間後に返ってきたメールは『人物を探すことはできません』という素っ気ないもの。『記憶を消せる人』、『記憶の魔女の場所』、『記憶の魔女を知っている人物の位置情報』などと言葉を変えて繰り返してみたが、結果はどれも似たようなものだった。
ふと、なんだかかぐや姫みたいだなと思った。かぐや姫が無理な注文をして、結婚を申し込んできた相手を諦めさせるあれだ。野々村は俺に、遠回しに諦めろと言っているのではないだろうか。だったら俺はどうしたらいいのだろう。偽物でも用意しろというのか。
溜め息ばかり吐いているうちに一日が終わってしまった。
これを含めてあと2章+エピローグで完結です。
最後までお付き合いください。




