お見舞い
五、六時限目の授業をサボって先生に叱られ、放課後を迎えた。病院に行く前に智菜に連絡しようと思ったが、何を送ったらいいか分からず、結局そのまま向かうことにした。
病院の受付で見舞いであることを告げると、手続きの用紙に記入をさせられた。智菜は入院棟の502号室にいるらしい。個室と聞かされて、よくない状態なのだと察しがついた。俺は楽観的な考えを捨てた。
俺は相当ぼけていたようで、病院の廊下を歩いている途中で見舞いの品を持ってきていないことに気づいた。引き返そうかと悩んだが、やめた。今の智菜は何も望んでいないのではないかと思ったのだ。
病室の扉をノックすると控えめな声が返ってくる。久々に聞く智菜の声になぜだか涙がこぼれそうになった。
智菜は入院着姿で大きなベッドに横たわっていた。見たところ顔には何も付けられていないが、首にはギプスを巻いていて、布団からは何本かの管が床へと伸びている。見ちゃいけないもののような予感がして慌てて視線を逸らした。
「智菜」
呼びかけると智菜は薄く微笑んだ。力のない笑みだった。
「優真、来てくれたんだ」
「来るよ。来ないわけないだろ」
答えながら俺は笑みをこぼしていた。智菜が生きている。普通に話すことができる。これまで当たり前だったそんなことが、嬉しくて仕方がなかった。
傍に寄ると智菜は片手で顔を隠した。
「すっぴんだからあんまり見ないで」
「すっぴんの智菜も俺は好きだよ」
すっぴんの方が可愛い、などとは間違っても口にしてはいけないと師匠が言っていた。少しでも可愛くなろうとする女の子の努力を踏みにじる言葉だからだそうだ。でも、智菜はすっぴんでも十分可愛かった。
大丈夫なのか、とは訊けない。大丈夫じゃないから入院していることは承知している。俺は黙って智菜の言葉を待った。
智菜は長い睫毛を伏せて、ぽつぽつと話し出した。
「あたし、運動神経には自信があったからさ、初めての技でも余裕だと思ってたんだよね。調子に乗ってた。今は、水上のお姉さんにちゃんとコーチをしてもらえばよかったって後悔してる」
「俺がしっかりと説得していればよかったんだ。ごめん、智菜」
「やめてよ。優真のせいじゃないって」
智菜は言葉を切り、長い逡巡を挟んだ後で、唇を震わせた。
「頸椎をやっちゃったんだ。それで、ね……腰から下が動かなくなっちゃった」
世界から音が消えたように錯覚した。
言葉を失った。何も言えなかった。自分の顔が強張り、引き攣るのを感じた。
下半身不随。ということは、智菜はもう、大好きなチアをすることができない。大学にも行けないだろうし、社会人になって皆と同じように働くこともできない。それどころか、歩くことすら叶わない。残りの人生をずっと病院のベッドの上で過ごさなくてはならないのだ。たった一回の事故で智菜の人生は壊れてしまった。その事実を、俺は受け止めることができなかった。
「おしっこにも行けないからさ、あそこに管を挿してるんだよ。ダサすぎて笑っちゃうよね」
「笑えないだろ」
「笑ってよ。笑い飛ばしてくれないと、あたし、どうにかなっちゃいそうなの」
智菜の顔がくしゃりと歪む。そんな顔を見せられたらますます笑えなくなってしまう。
「ねえ」
躊躇いがちに智菜が口を開く。彼氏のままでいてくれるか訊こうとしたのかもしれないし、別れ話を切り出そうとしたのかもしれない。どちらかは分からないが、どちらであっても俺の答えは決まっている。
智菜が続きの言葉を発する前に、鞄から白い小箱を取り出した。
「智菜、遅れちゃったけど、誕生日おめでとう」
え、という顔をして智菜が固まる。大きく開いた瞳から音もなく涙が流れ出した。
智菜は手首で目元を拭いながら、喘ぐようにして言った。
「あたし、こんなんになっちゃったけど、優真の彼女でいいの?」
「当たり前だろ」
「もう、どこにも行けなくても、いいの?」
「いいよ」
「エッチもできないよ?」
「いいよ。智菜の写真で抜く」
「バカ」
ようやく智菜は笑ってくれた。泣きながらだったけど、それだけで救われた気がした。
泣きやむのを待って、改めて小箱を渡す。智菜は腕の力だけで上体を浮かせ、両手で包み込むようにして受け取ってくれた。
「開けていい?」
「もちろん」
これで智菜がもっと笑顔になってくれることを期待していた。
ところが、智菜は真逆の反応をした。箱を開けてネックレスを見た瞬間、その表情が凍りついた。涙まで引っ込んでしまったように見えた。
「気に入らなかったか……?」
恐る恐る訊ねると、智菜は慌てて身体を揺らした。首を動かせない代わりのようだった。
「あ、ううん。何でもない」
さっき目にした光景が噓のように智菜は顔を綻ばせた。華やかな笑みを浮かべて付け加える。
「ありがとう。一生大切にする」
「そうしてもらえると嬉しいよ」
「この宝石は?」
「アレキサンドライト。ダイヤモンドに並ぶ宝石の王様で、身を守る護石でもあるらしい」
「ええー。じゃあもっと早く貰っておけばよかった。ま、誕生日パーティーをすっぽかしたのはあたしなんだけど」
智菜は箱からネックレスを取り出し、光に翳してじっくりと眺めた。きれー、とうっとりした顔で呟く。智菜の方がきれいだよ、なんて言葉が浮かんだが、さすがに気持ち悪いと思って自粛した。
「ね、着けてくれる?」
「喜んで」
智菜の首の後ろに手を回し、ギプスの上からネックレスを着けてやる。苦戦すると思ったが、案外スムーズにこなすことができた。
大好きな彼女が、俺が贈ったネックレスを着けてくれている。智菜は俺のものだ、なんて言うつもりはないけれど、二人の繋がりが確かな形になったようで胸が震えた。
「またお見舞いに来てもいいか?」
「うん。あ、でも、連絡は欲しいかも」
「するよ。お見舞いに来ない日もする」
「ありがと」
じゃあ、と鞄を担いだところで、智菜に手を握られた。
「ほんとにありがとう、優真。実は、けっこう本気で落ち込んでたんだよね。でも、優真に会えて元気が出た」
「俺もだよ。ありがとう、智菜」
「くふふ、どういたしまして」
智菜は俺のために無理して笑ってくれているのだと分かった。たった二ヶ月とちょっとだけど、彼氏として過ごしてきた俺だからそれが理解できた。
智菜に笑ってほしい。元気になってほしい。好きなことを好きなだけできる、幸せな人生を送ってほしい。
そんな想いが溢れて、俺は無意識のうちに告げていた。
「智菜、期待せずに聞いてほしいんだけど……もしかしたらその怪我を治せるかもしれない。それができる人に心当たりがあるんだ」
智菜の手が離れた。驚いたのでも、歓喜したのでもなかった。冷たい表情をして、瞳に揺らめくような怒りを宿していた。
俺は言ってはいけないことを言ったのだと、その顔を見て悟った。
「野々村さんでしょ?」
智菜は掠れた声で、呟くように言った。
もう一度、さっきよりも強い口調で繰り返す。
「それって野々村さんのことなんでしょ? ねえ、そうでしょ?」
「……ああ」
「あたし言ったよね? 野々村さんには近づかないでって。ならどうして、野々村さんが治癒の魔女だってことを知ってるの?」
智菜の言葉に驚いて脳がフリーズしてしまった。どうして智菜が怒っているのか、どうして智菜が野々村の正体を知っているのか、どうして治癒の魔女にここまで過敏に反応するのか、何も分からない。
俺が答えられずにいると智菜は顔を覆って泣き出した。手の隙間から弱々しい声が漏れる。
「野々村さんと何かあったの?」
「ないって。あるわけないだろ」
「野々村さんのこと、好きじゃない?」
「好きじゃないよ。恋愛感情なんかない」
「本当に何とも思ってない?」
「思ってない」
智菜の口撃に反射で応じる。でも、智菜を前にしているこの瞬間はどこにも偽りがなくて、言葉にしてみるとそれが自分の本当の気持ちのように思えた。
俺の言葉を信じてくれたのかどうかは分からない。
長い沈黙の後で、智菜は大きな溜め息を吐いた。
「さっき、あたしがこんな身体でも構わないって言ってくれたよね?」
「言ったよ。でも、治るならその方がいいと思って――」
「あたしだって治りたいよ! また学校にも行きたいし、チアだってしたい! でも、治癒の魔女に頼るのだけは嫌! 絶対に嫌!」
智菜は頭から布団を被ってしまった。こうなったら俺の言葉は届かない。
「ごめん。今日は帰って」
くぐもった声に突き放され、俺は踵を返した。
あまり音を立てないよう、静かに病室の扉を開ける。
そして、目の前に現れた光景に息を呑んだ。
扉の前に、高価そうな紙袋を持った野々村が立っていた。
野々村は俺を見ようとせず、顔を伏せたまま、逃げるように駆け出した。小さくなっていく背中が泣いているように見えた。
話を聞かれていたのかもしれない。その可能性に思い至った途端、刃物で引き裂かれるように胸が痛んだ。
その夜、俺は野々村にメッセージを送った。
『話がしたい。明日の午後一時、野々村のマンションの近くの公園で会えないか? 都合が悪かったら教えてくれ』
すぐに既読が付いたが、日付が変わるまで待っても返信は来なかった。




