女子の喧嘩はおっかない
教室に戻ると、俺の席には水上が座っていた。隣の野々村と席をくっ付けてお喋りしている。いつもの見慣れた光景だった。
自己紹介の後に席替えが実施されたのだが、どんな因果か、俺と野々村の二人はそのまま最後列に移動するだけという結果になった。俺たちを引き剝がしたかったらしい水上にとっては面白くない展開だ。席替え? ああ、いいよいいよ、やろうよ。ま、どうせ無駄だけどな。野々村は俺から逃げられないんだよ、と俺が煽っているように見えたのかもしれない。水上は俺を目の敵にし、昼休みのたびにこちらに来ては俺に退けと言ってくる。俺のことは嫌いだが、俺の席は使わせろと。解せない話である。
俺は仁かオタクくんの席に行くだけなので特に困ったことはない。気にしていないと言えば噓になるが、それで野々村が孤立しないで済むのなら安い犠牲だと思えた。
俺は、困っている人は放っておけない、という立派な人間ではない。困っている人は放っておかない方がいい、それが〝いい男〟じゃないか――そんな理念によって動くだけの偽善者だ。せっかくの青春にイジメや争いなんていう暗いものは必要ない。そういう影すら見たくない。だから、みんなが笑っていられるように行動し、自分が楽しく生きられる環境を作る。自己満足のために、俺は野々村にも笑っていてほしいのだ。
そんなわけで、自己紹介の場で友人拒否発言をした彼女を心配していた。しかし、どうもこれは杞憂のようだった。野々村には水上という友達がいる。声を出して笑うことはなくとも、控えめな笑みを浮かべているところならたまに見かける。あとは何やら誤解しているらしい水上が心を開いてくれれば俺の青春は完璧なのだが、まあ多くは望むまい。
普段であれば昼休み終了のチャイムが鳴って水上が席を立つまで待つのだが、司書室の時計が狂っていたせいで今日は十分弱も時間が余ってしまった。オタクくんの席の周りにはサッカー部たちが、仁の席には智菜を初めとする髪色と声が明るい女子が集まっている。俺たちは手持ち無沙汰になってしまった。
そこで仁が余計なことを言い出した。
「オタクくんは野々村が優真に惚れるんじゃないかって心配なんだろ? マジであり得ねえって。優真がどんだけ嫌われているか見せてやるよ」
仁は俺の背中を押し、ぐいぐいと野々村の方へと進ませる。嫌いな人間に話しかけられていい気分などするはずがない。正直、嫌な予感がした。けれど、その場のノリに合わせる悪い癖が出てしまい、気づけば俺はオタクくんに指を差し、不敵な笑みを作って「よく見てろよ」と言い放っていた。
「やあやあ、お二人さん」
仁がお得意のチャラさを全開にして声をかける。女子二人が仁の方を向き、続いてその隣にいる俺を見て表情を一変させた。水上は噛みつかんばかりに歯を剝き出し、野々村は息を呑んでさっと顔を逸らす。もしかして照れているのでは、なんて幻想を抱く余地もない。その横顔は蒼白で、吐くのを堪えているかのように唇を震えさせていた。
「なに?」
水上が苛立ちを隠さずに応じる。その鋭利な眼はなぜか俺に向いていて、殺してやると無言で告げていた。野々村と話しているときはわりと可愛いタヌキ顔をしているのに、俺を前にすると途端に獰猛な獣に化ける。まったく、俺がいったい何をしたって言うんだ。
しかし、こんなことでめげないのが仁のいいところであり、悪いところでもある。彼はまあまあ落ち着きなさいってと手振りで示し、その手を野々村の机に置いた。
「二人って仲いいよな。いつも何を話してるのか気になってさ」
「あんたには関係ないでしょ」
「俺たちクラスメートだろ? そんな冷たくすることなくね?」
「ある」
「なんで?」
「汚らわしいから」
うーん。なるほど。どうして嫌われているのか分かった気がする。
反射的に俺と仁はアイコンタクトを取っていた。どうする? とその目が訊いてくる。どうせ信じてもらえない、ここは引き下がろう、と目に力を込めて返事をする。仁は頷いた。
「それは誤解だぞ? 優真は今どき珍しい、ピュアピュアのピュアボーイなんだ」
駄目だ。まったく伝わっていなかった。
仁の声が大きいせいでクラスの視線が集まってくる。
「わたしが何を誤解してるって?」
「優真がヤリチンだと思ってるんだろ?」
その単語に反応して水上が顔を赤らめた。『ヤリ』も『チン』も説明は要るまい。というか、口に出したらセクハラだ。
名誉か不名誉か、俺がヤリチンだという噂があるらしい。誰にでもいい顔をして、とりあえずお試しデートには馳せ参じるという軽率な行動が招いた結果だ。デートというより、誘われたから二人で遊びに行った、程度の感覚なのだが、そのうちのある女子が俺とヤったなどと虚偽の発言をしたことでこのような事態に発展してしまった。中学の頃の話だからとっくに自然消滅したと思っていたが、まだ時効ではなかったようだ。
声を大にして言うことでもないが……俺は未経験である。このことは仁と彼女、それからオタクくんしか知らない。オタクくんは「童貞ヤリチンだ!」とはしゃいでいた。何だよ、童貞ヤリチンって。語呂も悪いし。
「仁、ちょっと――」
クラスメート全員の前で童貞だと発表されてはかなわない。いや、学生なんだし別に恥ずべきことだとは言わないが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
しかし、すっかり演説モードに入っている仁は止まらなかった。
「優真には壮大な夢があるんだ。それは今の世の中では奇跡と呼ぶべき大偉業……何か聞きたいだろ?」
「聞きたくない」
「ずばり、最初に付き合った人と結婚することだ! 優真は彼女を大切にし、何があっても他の女子には手を出さないと誓っている。数々のデートは結婚相手を見定めるために過ぎない。こんなにピュアな男は他にはいねえんだ!」
仁がぐっと拳を握ると、そこかしこから拍手が鳴り出した。やめておけばいいのに、俺はノリで、どうもどうもと頭を下げる。視界の端では、智菜が女子たちに茶化されているのが見えた。
あまり望ましくない目立ち方をしてしまった。でも、これで野々村と水上の誤解が解けたら怪我の功名というものだ。
そう思って二人に向き直り……期待が呆気なく打ち砕かれたことを悟った。野々村は顔を伏せたままで、水上は額に青筋を浮かべている。ブチギレ寸前の様相だった。
水上が吐き捨てるように言う。
「最低じゃない」
「あ? なんでそうなるんだよ?」
「前に付き合った人はなかったことにして、新しくできた彼女には必ずそう言っているんでしょ? それが最低じゃなくて何だって言うのよ?」
「あのなあ――」
「そこに気がつくとは、水上は天才だな」
いよいよ喧嘩になりそうな気配を感じて、慌てて仁の前に飛び出した。武器は笑顔一つ。内心ではだらだらと冷や汗を流していた。
勢いで飛び出したのはいいものの、非常に厄介な状況だ。この際、関係の改善は諦める。とにもかくにも撤退あるのみだ。
「悪い悪い。ちょっかいを出すつもりはなかったんだ。野々村はお隣さんだし、話してみたかっただけでさ」
そういうわけだから気にしないでくれ、と強引に話を打ち切ろうとしたところで、思わぬところから声が飛んできた。
「ねえ、いい加減優真に突っかかるのやめなよ。見てて気分悪いんだけど」
ずかずかと金髪ショートの女子が向かってくる。鳶色の大きな瞳は鋭く尖り、高い鼻梁は上を向き、ぷっくりとした赤い唇はきりきりと引き結ばれている。クラス最低身長女子と最高身長女子の衝突だ。女子同士の喧嘩なんて面倒くさいことになるに決まっている。俺は文字通り頭を抱えた。
オタクくん曰く、俺の彼女――智菜はギャルであるらしい。金髪でスカートが短く、声が大きく、首元のリボンを緩めているからだという。いまいち腑に落ちないが、まあ、メイクからしてそういう雰囲気はある。怒らせたら絶対に恐いタイプだ。
その智菜が今まさに怒り、水上の前に立ちはだかっていた。いや、前ではなく横か。座っている水上に対し、智菜は身体が触れるか触れないかの至近距離まで迫り、直立したまま目だけで見下ろしている。少しでも動けば蹴ったなどと言い出しそうだ。水上も首を捻って睨み上げているが、彼女のポニーテールは智菜の腹部にあり、顔には張り出した乳の影が落ちている。恐らく智菜には見えていない。貧乳チビ、という無言の先制だった。
自分の乳房で見えてもいない相手を睨んだまま、智菜が冷たく言い放つ。
「水上さ、そういうのみっともないよ」
「〝そういうの〟って何?」
「言っていいんだ? じゃあ言うから。――水上、優真のことが好きなんでしょ?」
「はあ?」
本気の怒気と嫌悪感を滲ませた声だった。目の淵もぴくぴくと痙攣している。死ぬか俺と付き合うか選べと言われたら迷わず死ぬ。そう言わんばかりの顔だった。傷つくんですけど。
この顔を見れば智菜も勘違いだと分かるだろうに、残念なことに視界に入っていない。メロンのようにたわわに実った乳越しに喧嘩は進む。
「だってそうでしょ。嫌いなら優真の席に座りたがるのはおかしいじゃん」
「それはこの男を紗代に近づけさせないためだから」
「そんなのが言い訳になると思ってる? 本当は気を引きたくて必死なんでしょ? それとも失恋の逆恨み? 優真にはもう彼女がいるんだから諦めなよ。もう一度言うけど、みっともないよ」
「何も知らないくせに勝手なことばっかり言って……」
「聞こえない。言いたいことがあるならはっきり言って」
水上が短く息を吸う音が聞こえた。机に添えられた手にも力が入る。これ以上を許したら本格的にマズいことになる。
素早く時計に視線を走らせる。ここだ。ここしかない。
俺は降参を示すように軽く両手を上げ、苦しそうな表情と声を作って割り込んだ。
「二人とも! もう俺のために争うのはやめてくれっ」
「「はあ?」」
ドスの利いた声が二ヶ所から同時に飛んできた。おー恐い。目を瞑っておいてよかった。二人の目を直視していたらちびっていたかもしれない。
そこで狙い通りにチャイムが鳴った。緊迫した空気は間の抜けた音色でうやむやになり、気まずさともどかしさに塗り替えられていく。
授業時間にまで喧嘩する気はないのか、先に席を立ったのは水上の方だった。遅れて智菜が、ふんと鼻を鳴らしてスカートを翻す。
俺の席は野々村の机にくっ付けられたままだった。元に戻すついでに謝っておく。
「野々村、ごめんな。迷惑を掛けて」
彼女は何も言わなかった。何も言わずに、目を伏せたまま静かに震えていた。
目の前で喧嘩が起きて恐かったのかもしれない。本当にそれだけのことかもしれない。
でも、痛くて、苦しくて、悲しくて、声も出せずに泣いているように俺には見えた。
水上の言う通り、俺は野々村のことを何も知らない。
だから、野々村が抱えているものを知りたいと思ってしまった。




